ルカ(108) 終末の徴について語るイエス

ルカによる福音書21章5〜19節

わたしたち人間の罪の代償を肩代わりして支払うため、十字架への受難とその死を受けられるために、イエス・キリストがエルサレムに入城されたことが19章28節以降に記されています。そして入城されてすぐに始まったエルサレム神殿の境内でのイエス様の教え・祭司長や律法学者たちとの問答は、今回の21章5節から弟子たちへの教えとなってゆき、最終局面に入ってゆき、38節で終わり、22章から受難が始まって行きます。

 

境内では、イエス様のメシア性とその権威、また復活についての問答があったり、税金の問題や献金についても触れられ、重要なことを弟子たちや群衆に対しても、そしてイエス様を敵視して何とかイエス様の言葉じりをとらえたいユダヤ教リーダーたちに対しても、譬えなどを交えて分かりやすく教えてくださいましたが、その境内での教えの最後の内容は、自分たちが今いるエルサレム神殿の崩壊の予告であったり、終末の兆候についてであったり、エルサレムの滅亡の予告であったり、心が締め付けられて窒息するような非常に重いものとなっていて、あまり耳にしたくない、極力避けたいと思うような内容です。聖書学者たちは、この箇所を終末について語られる「イエスの小黙示録」と呼びます。

 

イエス様が最後に弟子たちに語られる内容が非常に重い内容であるため、わたしたちの心にかかる負担があまりにも大きすぎるため、わたしたちはイエス様の教えの核心を理解するのが難しいと感じるわけですが、イエス様は弟子たちやわたしたちの心を悩ますためにこのようなことを語られるのではなく、わたしたちイエス様を信じる者たちの信仰にさらなる成長と希望を与えるために、愛と祈りと忍耐をもって教えてくださるのです。

 

信仰のさらなる成長とは何かと言いますと、たとえ世の終わりと感じることや死に直面するなど、人生の危機的状況に直面する時でも、すべてを支配され、最善の道を備えていてくださる神様と救い主イエス様に信頼し続ける強さを身につけるということです。

 

イエス様がこの後に祭司長たちに捕らえられて、理不尽な裁判にかけられて、十字架の上で屈辱を受けられて殺されます。その後、神様の憐れみの中でイエス様は甦られ、神の国への扉が開かれ、永遠の命への道が示されますが、弟子たちはクリスチャンであるがゆえに非常に厳しい迫害を受け、逃亡生活を強いられ、常に命の危険にさらされます。ある者は捕らえられ、殉教を遂げます。

 

そういう厳しい状況に置かれても神様とイエス様に信頼し続ける信仰を与えるために、イエス様はあえて厳しい内容の教えを弟子たちに与えるのです。

 

しかし、自分たちがこれから直面する危険を悟らない者たちは、目の前にある煌びやかな物に心は引き寄せられてしまいます。わたしたちも目の前のものに魅了されてしまうことがありますが、そういう中で、21章5節に、「ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していた」とあります。この「ある人たち」は、イエス様の周りにいた群衆であり、弟子たちです。

 

わたしたちを含む、浅はかで、能天気な人たちは、金色に光る神殿とその装飾品の輝きに心奪われてしまう訳ですが、そのような者たちに対してイエス様は、6節で「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る」と言われます。

 

これは紀元70年にローマ帝国によってエルサレム神殿が完全に破壊されることを言っているわけです。つまり、イエス様は神殿崩壊の予告をしているわけです。

 

さてここで少し説明が必要です。イエス様がこのことを語られたのは紀元30年から35年頃です。そして神殿とエルサレム全体が破壊されるのは紀元70年頃と言われています。そしてルカがこの福音書を記録し、編集したのが紀元80年頃という通常の学説に立つと、神殿の崩壊も、エルサレム陥落も、すべて起こった後に福音書はまとめられたと考えられます。しかし、だからと言って、エルサレム神殿崩壊やエルサレム陥落が史実であることは間違いありません。

 

ルカがここで読者であるわたしたちに伝えたいのは、イエス・キリストがエルサレムの崩壊を嘆いたこと、そのことが確かに起こると事前に予告されたのには、はっきりとした理由と目的があったということです。それはエルサレム全体が、ユダヤ人社会全体が、今日を生きるわたしたちが悔い改めて、神様に立ち返って生きること、そのように促そうとして、今回のような厳しい、わたしたちが耳を背けたくなる警告を発せられるのです。

 

前置きがだいぶ長くなりましたが、本題に入ってゆきましょう。終末に関して弟子たちはイエス様に質問します。7節で、「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか」と尋ねます。すでに場所(Where)が分かっている人々は、終末が「いつ(When)」、「どのように(How)起こるのか」、「どんな(What)兆候があるのか」ということを知りたがります。

 

しかし、わたしたちが本当に知らなければならないこと、イエス様に質問すべきことは「なぜ(Why)そのようなことが起こるのか」ということなのです。しかし、なぜ最も重要な「なぜ(Why)」をわたしたちは知ろうとしないのか。その理由をイエス様は8節で明確に指摘します。「イエスは言われた。『惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、「わたしがそれだ」とか、「時が近づいた」とか言うが、ついて行ってはならない』」と言われます。

 

イエス様は、「惑わされるな」と言われますが、ここで用いられている「惑わされる」という言葉は、わたしたちのほんの小さな気の迷い、ほんの一瞬不安になるという意味ではなく、神様の愛から、真理から霊的に脱線するという意味の言葉です。ですから、イエス様から目を離さないで、神様だけに信頼し続けなさいという励ましでもあります。

 

また、この「惑わされないように気をつけなさい」というイエス様の言葉は未来的なことを言っておられるのではありません。「あなたがたはもうすでにサタンによって惑わされている。さらに惑わされないように気を付けなさい」と警告されるのです。わたしたちのほとんどは、心が惑わされると、目の前に迫ってくる出来事を冷静に観察したり、向かってくる問題を把握したり、正確な判断をすることができなくなるからです。

 

心が惑われた状態のままだと、メシアを名乗る者を簡単に信じて従ったり、終わりの時はすぐそこに来ているという詐欺の言葉を信じ込んで全財産を奪われてしまうことが起こります。戦争や紛争や暴動が起こるとすぐに怯えて、心を悩ましてしまいます。主イエス様は、9節で「戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである」と言われますが、ここで重要なのは、「世の終わりはすぐには来ない」という言葉です。

 

これだけ緊迫感を与え、わたしたちの心をドキドキさせておいて、「世の終わりはすぐには来ない」と何故イエス様はおっしゃるのでしょうか。理由は、いくつか挙げられます。1)まず、神様には配慮に満ちた救いの綿密な計画があるからです。第一に、これから起こるイエス様の贖いの死と復活がわたしたちの救いのために重要であるからです。2)人類の最大の敵である「死」に勝利され、甦られたイエス・キリストに再会した弟子たちが、キリストの福音を全地へ携えて行って、神様の愛とイエス様の十字架と復活を宣べ伝えて、すべての人が神様の愛・福音を知るまでに時間を要するからです。3)福音を聞いた人が一人でも多く悔い改めて、神様に立ち返ることを神様は忍耐してひたすら待たれるからです。

 

神様の愛と忍耐があるからこそ、それまでは「世の終わりは来ない」のですが、注意すべき点は「『すぐに』来ない」ということです。世の終わりはすぐには来なくても、確実に終末と神様の裁きは来るのです。ですから、「自分の生きている間はまだ大丈夫だろう」とあぐらをかいていると、救われるために必要な「自分の罪を認めて悔い改めて、神様と和解するチャンス」を逸してしまい、死を迎えることになってしまうのです。

 

10節から11節で、主イエス様は「そして更に、言われた。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる」と言われます。今日ではこれらのことが地球上のありとあらゆる所で起こっています。紛争、戦争、地震やその他の自然災害、飢饉や新型コロナの感染病などが起こっていて、わたしたちの心を悩ませ、大きな苦しみを味わいます。

 

そのような恐ろしい現象は、わたしたちを恐れさせますが、わたしたちが最初にしなければならないこと、それはすべてのものの造り主であられる神様を畏れて敬うこと、イエス・キリストを通して、この神様の愛に立ち返るということです。終末がいつ、どこで、何をもって、どのように起きるのかが最大の問いではなく、なぜこのようなことが起こるのかということを真剣に見つめなければなりません。

 

何故こんなにも苦しみで地上は満ちているのか。それは、わたしたちがサタンの惑わしによって神様に対して罪を犯し、神様から遠く離されたものとなり、心が罪に支配され、身勝手なことを行い続け、自然を破壊し続け、人種差別を行い続け、互いに手と手を取り合って協力して生きて行かなければならないのに、お互いの首を絞め合っているからです。わたしたちに必要なのは、自分の罪・弱さを認めて、悔い改めて、神様に謝って、神様の許へ帰ることなのです。

 

続く12節から19節は、イエス様の弟子たちが厳しい迫害を受けることの知らせです。しかし、このイエス様の言葉は、弟子たちを絶望の極地に追いやる言葉では決してありません。これから直面する危機を彼らに事前に知らせ、心の準備をしっかりさせ、彼らを励まし、彼らの信仰をさらに強くさせる目的があります。12節から19節を読みましょう。

 

「12しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。13それはあなたがたにとって証しをする機会となる。14だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。15どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。

 

16あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。17また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。18しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。19忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」とあります。

 

ここには弟子たちが遭遇する様々な危機・信仰のピンチがありますが、そのようなピンチはチャンスなのだとイエス様は言われるのです。12・13節、「わたしの名のために王や総督の前に引っ張って」行かれるが、それはイエス様がメシア・救い主であることを証しする絶好のチャンスになると言われます。

 

14節、「前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい」、イエス様が、イエス様の霊(聖霊)が語るべき言葉を授けるから心配するなと言われます。16節から19節、「親しい人たちに裏切られ、憎まれ、命を落とす者もいるが、それでも神様を、わたしを信じ、信頼し続けなさい。わたしはいつもあなたのそばにいる」と約束してくださる救い主、愛の神がおられるとの励ましです。

 

イエス様を救い主と信じて従う弟子たちに、わたしたちに必要なのは、信仰と忍耐と祈り、そして互いのために愛と祈りをもって支え合い、励まし合う神の家族なのです。