ルカによる福音書21章20〜28節
今回の学びを進めてゆく前に、前回の学びの中で宿題が出ましたので、そのことからお話をさせていただこうと思います。ルカ21章19節に、「忍耐によって、あなたがたは命を勝ち取りなさい」というイエス様の言葉があります。この「命を勝ち取る」とは、どういう意味なのかというご質問がありました。端的に言って、「命を勝ち取れ」とは、「命を得よ」という意味です。つまり、「救いを得なさい」という励ましです。
マルコによる福音書13章3節から13節が、ルカ福音書21章7節から19節の並行記事になるのですが、マルコでは「わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」と記されています。「忍耐によって、あなたがたは命を勝ち取りなさい」と「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」では、大きな違いがあります。マルコの「救われる」は、耐え忍ぶ者を神が憐れんでくださって「救ってくださる」という受動形になっていますが、ルカでは「おのれの救いを得なさい」という能動形になっていて、両者が伝えたいことは正反対のようです。
「憐れみによって救われる」ということは、人間の消極的さを表すのではなく、救いを与えてくださる憐れみの神様がフォーカスされています。しかし、「命を勝ち取りなさい」とは、救いを得るためにもっと積極的になりなさい、求めなさいという人間側の思い、姿勢がフォーカスされています。
確かにマルコの言うように、救いは神様の憐れみによって、イエス・キリストを通して与えられる恵みです。しかし、人間側が何もしないで、自動的に与えられる恵みではなく、イエス様を信じて、救いを求めてゆく姿勢を持ち、保ち続けることを通して与えられる恵みとルカは理解していると思われます。
救いは、自分の頑張りようだけで得られるものでは決してありません。愛と憐れみの神様から一方的に、無償で与えられる恵み、それがわたしたちの救いです。しかし、一人ひとりのイエス様への信仰、心の姿勢をしっかり整えて、イエス様に忠実に従ってゆくことも大切です。
ですから、たとえ困難な中に置かれても、それでもイエス様だけを見つめ続け、その声と言葉に聞き従い続けること、それが「耐え忍びつつ、救いを勝ち取る」ことにつながるのだと思います。ですから、絶えず祈りながら、すべてを神様に委ねながら、救い主イエス様に従いなさいという励ましがルカ福音書21章19節にあると思います。
さて、今回の学びは、20節から28節ですが、二つのテーマに分かれています。20節から24節には、エルサレムの滅亡を予告されるイエス様がおられます。その内容は悲惨です。しかし、続く25節から28節には、終末の時にご自分が再び来られるという救いの希望を語るイエス様がおられます。ここに神様の愛と裁きにバランスがあることが分かります。
それではもう一度、20節から24節を読みたいと思います。
20「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。21そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ち退きなさい。田舎にいる人々は都に入ってはならない。22書かれていることがことごとく実現する報復の日だからである。23それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。この地には大きな苦しみがあり、この民には神の怒りが下るからである。24人々は剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる。異邦人の時代が完了するまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされる。」とあります。
この箇所を読んだり、その語られた状況を想像するだけでも心が重くなり、苦しくなります。しかし、ここで大事なのは、イエス様はこのことを隠れた場所でひそひそと弟子たちだけに話したのではなく、ユダヤ人たちが集まる神殿の境内で、誰もが聞こえるように、力強く語られたということです。エルサレムが滅亡すること、それはユダヤ人には考えられないことでした。それゆえ、イエス様は祭司長たちの怒りを買って、神を侮辱する者として十字架の刑に処せられることになります。
第二次世界大戦の中、日本全土がB29爆撃機から落とされる焼夷弾で焼け焦がれている最中、天皇の住まいである皇居とその近辺だけには空爆はありませんでした。日本人は、1945年8月15日まで、天皇を神として祀り、皇居は「神聖不可侵な場所」と信じていました。アメリカ軍も、そのことは理解していたので、皇居への攻撃はありませんでした。
同じように、ユダヤ人は、エルサレムには神を礼拝する神殿があり、その町は異国人が侵略できない「神聖不可侵」な場所、都と信じていたわけで、絶対に滅びることはないと固く信じていました。しかし、イエス様は、エルサレムは人々に滅びると予告します。つまり、エルサレムは「神聖不可侵」な場所ではないと宣言されるのです。エルサレムにこだわる必要はないという言い方をしても良いかもしれません。
ユダヤ人も、そしてわたしたちも、本当にこだわらなければならないのは、「命」だけです。神様は、わたしたちの命を宝のように尊び、一人ひとりの命にこだわってくださったので、イエス様を救い主としてこの地上に派遣してくださり、わたしたちが神様の愛に気付かされ、神様から与えられている命を大切にし、生かされている間、喜びと平安のうちに歩ませ、そして永遠の命を与えて神の御国へ招き入れるために、イエス様を十字架上で犠牲になさった、そこに神様の愛があるのです。
ですから、そのことを十分過ぎるほど分かっていたイエス様は、20節から21節で次のように言われるのです。「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その滅亡が近づいたことを悟り、山に逃げなさい。エルサレムにいる人々は、すぐさま立ち退き、郊外にいる者たちはエルサレムに決して入ってはならない。」と言われるのです。これらの命令は、「生きよ」ということです。あなたがたが生きることが父なる神の御心であり、あなたがたが死ぬことは御心ではないと言われるのです。
イエス様は、23節で、「(旧約聖書に)書かれていることがことごとく実現する報復の日だからである」と言われます。ここに「報復の日」という言葉がありますが、なぜ神様から報復をユダヤ人は受けるのか、またわたしたちも報復を受ける可能性があるのでしょうか。神を信じない人たちにとっては、信じないことこそが裁きと滅亡の理由になります。神を信じていると公言しつつも、結局は自分の幸せのためだけに生きる自己中心的な人々、困った時の神頼みのように、助けを必要とする時だけ神様を神とし、神を利用し続ける人たちは、神の裁きに遭い、異邦人の手によって滅亡させられる、それが「報復の日」と呼ばれる日です。
続く23節と24節を読みますと、妊娠中の女性や乳幼児を持つ母親たちは不幸であると言われ、エルサレムの人々は、1)異邦人の剣に倒れるか、2)捕虜として異国のあらゆる地へ連れて行かれるか、3)その地で異邦人によって支配し続けられ、踏み荒らされると言われますが、これはイエス様が思いつくままに語られたことではありません。旧約聖書の申命記32:35、ホセア書9:7、イザヤ書34:8、エレミヤ書46:10などで預言されていたことなのです。これらの裁きの理由は、先ほど言いました、悔い改めない心、不信仰、口先だけの信仰、神を利用するだけ利用する人間の罪深さ、傲慢さ、貪欲さなのです。
ですから、イエス様は、ご自分の十字架を前にして、弟子たち、民衆、群衆、祭司長たちに対して、悔い改めて主なる神に立ち返りなさいと声を大にして言われ、救いへの招きをされるのです。この招きを真剣に受け止めなければ、どのようなことが起こるでしょうか。この招きを半分だけ受け止めて、まだまだ先だろうと先延ばしにしたら、取り返しのつかないことが起こるかもしれません。
まだ悔い改めて神様に立ち返る時間に猶予がある間に、イエス様を救い主と信じて、悔い改めにふさわしい実を結ぶ生き方を始めなければなりません。そうでないと、一生の悔いを残すことになるやもしれません。心の姿勢を神様に向けるか、それとも背を向けたままに生きるかを決めるのは、常にあなたなのです。
さて、25節からはイエス・キリストが再び来られる再臨、終末のことが記されています。イエス様がこのことを十字架に架けられる前に語られるのは、愛をもって警告し、終末がいつ来ても良いように備えなさいという励ましを与えるためです。しかし、神様を信じない人には、終末というのは非常に恐ろしいことだと思います。なぜならば、終末は神の裁きの時であり、その裁きに耐ええる自信が自分にないことをよく知っていて、なすすべもなく、大きな不安に襲われるからです。
25節から26節に、「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。」とありますが、ここに天体がゆれ動き、地上も海のどよめき、これは地震と地震後の津波を指しているのかもしれませんが、そういう未曾有の事態によって「不安に陥り、おびえ、恐ろしさのあまり気を失う」とわたしたち人間が直面する心理状態が記されています。救い主イエス・キリストなしに、神様の御心、神様の御業に信頼することは不可能だから、そのような状態に陥るのです。
しかし、27節から28節では、希望が語られます。「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」とあります。ここに、「身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ」というイエス様の言葉があります。「頭を上げる」というのは、詩編24編7節に「栄光に輝く王が来られる」、希望のしるし、救い主が来られるから、うつむいていないで、顔を上げなさいということです。
「解放の時が近づいた」、それは苦しみ(痛み、悲しみ、絶望感)からの救いの時が訪れるということの約束です。イザヤ書63章4節に、神が定めた「報復の日」は、「贖いの年」となると約束されています。報復はたった一日で、わたしたちがイエス様によって贖われ、救われ、永遠の恵みにあずかれる日々は、永遠に続くということと理解することができると思います。
イエス・キリストが再びこの地上に来られる時、それはどのような時なのでしょうか。終末の時に、神の救い業がすべて完成します。ヨハネの黙示録21章3節から4節に次のようにあります。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく。もはや悲しみも嘆きも苦労もない。最初のものは過ぎ去ったからである」とあります。これが神の国到来の状態であり、救い主イエス・キリストを通して招かれてゆくのです。