ルカ(11) 神殿での少年イエス

ルカによる福音書2章40節〜52節

今回は、ルカによる福音書にしか記されていないイエス様の少年期の出来事について聴いてゆきます。誰にでも少年期、少女期がありますが、イエス様はどのように育てられて成長していったのか、とても興味深いことで、特に思春期を過ごす子どもを育てる親には、興味があるのではないかと思います。

 

まず40節と52節に注目したいと思います。40節には「幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた」とあり、52節には「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」とあります。「たくましく育ち」と「背丈も伸び」とは肉体的な成長のことで、「知恵に満ち」と「知恵が増し」というのは精神的な成長のことで、心身共に健やかな成長が「神の恵み」の中で「神と人に愛され」ながらあったということです。

 

子どもの成長には、神様の恵みとその愛、そしてわたしたちの愛と祈りが不可欠であるということであると思います。子どもにとって、神様の存在を知ること、神を畏れる親と大人の存在は、非常に重要であるということだと聞こえてきます。

 

同じように、イエス様を救い主と信じ、クリスチャンとして成長する時も、神様の愛と恵み、他のクリスチャンたちの愛と祈りと支えが必要であって、自分だけの信仰と努力だけでは健やかな成長はないということを覚え、教会につながることを大切にしましょう。

 

さて、それではイエス様はどのような親に育てられたのか、とても興味深いです。41節と42節には、「さて、両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。 イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った」とあります。ナザレからエルサレムまでは約100キロの道のりで、三日を要します。往復200キロ、6日間の移動が必要ですが、エルサレムへの巡礼を毎年行っていたという神様に忠実な親であったということが分かります。すなわち、イエス様は、神様の愛と恵みだけでなく、神様を愛し、畏れる両親によって大切に育てられたということです。

 

確かにバランスのある両親にイエス様は育てられたようですが、イエス様が12歳の時のエルサレム巡礼の時、ヨセフとマリアの両親に思ってもみなかった心配な出来事が起こります。43節から45節に、「祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。44イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を捜し回ったが、45見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。」とあります。

 

エルサレムへの巡礼は、家族単位ではなく、一族単位、コミュニティ単位の移動であったようです。また、女性は子どもたちと一緒に歩き、どうしても遅くなるので、男性たちよりも先に出て、次の宿場町で落ち合うということもあったそうです。イエス様は12歳ですから、ヨセフとマリアにはすでに複数の子どもたちがいたのではないかと推測され、移動は大変であったと思いますが、一族、コミュニティで助け合ったと思います。

 

しかし、そういう中で、イエス様がいないことに気づきます。大切な子どもが迷子になったと知って、ヨセフとマリアはさぞかし心配したでしょう。彼らはイエス様を探しながら今きた道を戻ります。エルサレムから1日分の道のり、単純計算して30キロの道のりを引き返します。血眼になって探しますが、エルサレムに戻ってくる羽目になります。

 

46節に「三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた」とありますが、三日間探しまわってやっとイエス様を見つけた時、どのような感情を両親は胸に抱いたでしょうか。父親と母親ではリアクションが違うかも知れません。この後には母親のリアクションしかありません。

 

少し話がそれますが、子どもが何か悪さをするとき、親は「怒る」と「叱る」の選択を迫られます。「怒る」と「叱る」では全く効果が逆になります。それは大人同士の対人関係でも同じです。「怒る」という時、人は感情的に、相手を批判しながら、自分の主張を一方的に言って押し付けてしまいます。しかし、「叱る」という時、人は理性的に、相手の過去ではなく、相手の今後・将来のことを思って、同じ間違いをしないように、相手に伝わるように、愛と配慮を持って間違いに気付かせようと努力します。怒ると叱るとでは、人間関係、信頼関係に、そして心の成長に大きな差が出てしまいます。

 

さて、47節と48節に「聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。48両親はイエスを見て驚き」とあります。ここには人々の「驚き」と両親の「驚き」が出てきますが、原文では違うギリシャ語が用いられています。人々の驚きは「エクシステミー」という「常識の外に立たされる」的な意味を持つ言葉が使用されています。ユダヤ社会では13歳で法律上の成人になり、律法に関するすべての責任を負う事になりますが、12歳のイエス様は既に律法や教えなどに精通し、律法の教師たちとの会話の中での受け答えにイエス様の賢さを見せつけられて驚きます。

 

しかし、イエス様の両親の「驚き」は、「エクプレスソー」という言葉が用いられています。すなわち、「衝撃を受ける」、「強く打たれる」という意味の言葉が使用されています。自分たちの知らない息子のある部分を見たのだと思います。たとえ親であっても、子どもの全てを理解したり、把握しているわけではありません。子どもの知らない部分を見るとき、親は衝撃を受けます。12歳の息子の行動の意味が分かりません。

 

そういう中で、母親のマリアのリアクションは、少し感情的になっていたようです。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです」と息子に言ってしまいます。三日間も心配しながら探しまわって疲れていたので、仕方がないと思います。私であれば、もっと酷い感情をぶつけていると思います。しかし、もっと驚いたのは、息子の返答であったと思われます。

 

49節に「すると、イエスは言われた。『どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。』」とあります。50節には、「しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった」とありますが、12年間、苦労しつつも大切にイエス様を育ててきたヨセフはそう言われて非常にショックであったでしょうし、マリアは困惑し、夫ヨセフに対して申し訳ないと感じたと思います。

 

さて、少年イエスの「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」という衝撃的な言葉に注目したいと思います。「どうしてわたしを捜したのですか」、当たり前のことです。まだ成人していない子どもを放っておく方が問題です。しかし、イエス様は「どうして捜したのか」、つまり何故あちこちを探しまわって来たのですかと言ったのだと思います。「なぜ神殿にいると最初に考えなかったのですか」と言いたげのような言葉です。

 

このイエス様の言葉で最も衝撃的で、興味深い言葉は、「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前」という言葉です。イエス様は12歳の時に、すでに自分は神の子であるという認識を持っておられたということ、ご自分と神様の関係性を認識しておられたということです。聖霊によってイエス様をみごもったマリアさえ理解できなかった神様との本質的な父と子の関係を自覚していたということです。こんな少年っていないと思います。神様の霊、ご聖霊がイエス様と共にいて、気付かせ、導いたのではないかと思います。

 

わたしたちも、自分の知恵や努力だけでは、神様との関係性を持つことはできません。神様のお取計とご聖霊の励ましと導きがなければ、イエス様を信じることができません。つまり、イエス様との関係性、神様との関係性は神様から与えられる恵みであるのです。

 

ここに「当たり前」という言葉、ギリシャ語では「デイdei」という言葉があります。この言葉は、「神によって、神の計画によって定められた」という意味があるそうです。イエス様は「わたしが神殿にいるのは神様のご計画の中で定められたことであり、神殿にいなければならない」という解釈になります。イエス様はその約21年後にエルサレムで十字架に架けられ、わたしたちの救いのために贖いの死を遂げられること、そして神様によって甦ることをすでに知って、受け入れていたと考えることができる言葉です。考え過ぎでしょうか。しかし、この「デイdei」という言葉がルカ書ではいつもイエス様の十字架の苦しみとリンクしています。24章で度々出て来ます。

 

例えば、24章7節には、「人の子は『必ず』、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」とあります。26節には、「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入る『はずだった』のではないか」とあり、44節には、「私についてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、『必ず』すべて実現する」とあります。「必ず、○○のはず」はすべて「デイdei」となっています。

 

49節のイエス様とは対照的に、51節では「それからイエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった」とあります。30歳になって公に宣教活動をするまでの18年間が一気に要約されていますが、ヨセフの子、大工の子として親と家族に誠実に仕えたということです。「母(マリア)はこれらのことをすべて心に納めていた」とありますが、彼女にすべてのこと(神様の御心、ご計画)が分かるのは、もっと先のことになります。すなわち、復活した救い主イエス様と出会って初めて知ることになります。