ルカ(111) 目を覚ましていなさいと言うイエス

ルカによる福音書21章34節〜38節

イエス・キリストは、21章内のこれまでの教えの中で、終末について弟子たちに語られました。来るべき終末に対して絶えず持つべき心構え(8〜19節)とどのような形・徴で終末が現れるのかという見通し(20〜28節)を示されましたが、続く29節から36節では、弟子たち(わたしたち)がそれぞれ日々実践すべき大切なことを3つ教えられます。

 

前回の学び(29節〜33節)では、第一の教えとして、神の国・終末が近づいていることを自分の目で見て悟りなさいとイエス様が教えられたことを共に聴きましたが、その中で一つ宿題が出ました。21章32節にある「すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない」という「この時代」とは、どの時代を指しているのかという質問でした。

 

「すべてのことが起こるまで」とイエス様がおっしゃるように、「この時代」とは、イエス様がこの地上に来られて歩まれた時代、十字架上での贖いの死と三日後の勝利の復活から昇天、そしてイエス様が再びこの地上に来られる再臨の時代、何世代(ジェネレーション)を含む時代と考えられます。つまり、その時代の中に、わたしたちは今生きている、神様の憐れみの中に生かされているということになります。

 

では、この時代とはこれまでどのような時代であったのか、今あるのかと一言で言い表すと、イエス様を救い主と信じる弟子たちがイエス様の大宣教命令(マタイ28章18〜20節)に従い、イエス様の昇天後、福音を携えて地の果てまで出て行ってイエス様の福音を宣べ伝え、福音を聞いた人々がおのおの悔い改めて神様に立ち返る時代、わたしたちが悔い改めて神様の許に戻ることを神様がひたすら待っておられる時代と言うことができると思います。この時代は、放蕩にふける息子・娘たちが正気に戻って、神様の許へ戻るまでの、神様の愛と忍耐の時代であると言うことができると思います。

 

ペテロの手紙二3章9節(p439)に、主の再臨について「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです」とありますが、次の10節には、「主の日は盗人のようにやって来ます」とあるのです。

 

さて、今回は、今の時代の中でわたしたちが実践すべきもう2つのことを学びたいと思います。その2つとは、自ら十分に気を付けて歩みなさいということ(34〜35節)と、もう一つは、油断せずにいつも目を覚まして祈りなさいということ(36節)です。つまり、自分でなすべきことと、それ以外は神様に委ねながら生きることを学びなさいという教えです。最後の37節と38節は、神殿の境内におけるイエス様の教えの結びとなります。

 

まず34節に、「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。」とあります。ここでのポイントは、「心が鈍くならないように注意する」ということです。心が鈍くなると言うことに関して、新改訳聖書では「心が沈み込んで」と訳していますが、これは本来の生きる目的・使命を見失うとか、焦点が合わなくなるとか、物事に無感覚・鈍感になるとか、落ち込むとか、色々な言い方があると思いますが、イエス様の言葉を忘れてしまわないように気をつける、十分に注意しながら生きるという捉え方ができるかと思います。

 

心が鈍くなる原因として、イエス様は三つ挙げています。一つは「放縦」、他の訳では「放蕩」となっています。すなわち、自由気ままに生きると心が鈍くなるという事になります。二つ目は「深酒」、他の訳では「泥酔」となっています。すなわちアルコールに支配されると心が正常に機能しなくなるという事になるかと思います。この件は、わたし自身は経験したことがない事なので、どのような感覚になるのか分からないのですが、泥酔している人ならいくらでも見てきましたので、そういう面からはよく分かります。

 

三つ目は「生活の煩い」です。他の訳では「この世の煩い」と訳されています。これはよく分かります。生活する中で押し寄せてくる問題や課題に対する思い煩いや悩みや混乱です。ルカ8章11節から15節にイエス様が「種(神の言葉)を蒔く人」の譬えを語るところがありますが、その中で14節に「茨の中に落ちた(種)は、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟すまでに至らない」人に似ているとあります。「思い煩いや富や快楽」が心を鈍らせる原因となるのです。

 

ルカ12章22節から34節には、イエス様が「思い悩むな」と教えられた箇所がありますが、「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。思い悩むな」とイエス様はおっしゃりますが、そうすることは心が鈍くなって、不安や不満や恐れだけが心を支配し、喜びも、感謝も、感動もできなくなってしまうからです。それは神の御心ではありません。

 

さて、次に「なぜ心が鈍らないように注意しなければならないのか」という理由ですが、イエス様は「さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。」とあります。「その日」とは、終末、主イエス様の再臨、神の裁きの日(裁きの時)という意味になり、そのような日が「不意に罠のように襲う」のです。

 

「不意に罠のように襲う」ということの具体は、イザヤ書24章に神の世界を裁くという預言が記録されていますが、その17節と18節には、「地に住む者よ、(神の裁きの時に)恐怖と穴と罠がお前に臨む。恐怖の知らせを逃れた者は、穴に落ち込み、穴から這い上がった者は、罠に捕らえられる。天の水門は開かれ、地の基は震え動く。」とあります。このような神の裁き、終末、主イエス様の再臨が不意に、予期せぬ時に、突然訪れるから、あなたがたは祭司長たちや律法学者たちのように慢心にならずに、常に気を付けて、心備えをしておきなさいとイエス様は弟子たちに教えておられます。

 

「不意に襲う」とは、わたしたちは完全に無力であるということです。自分の力では防げない。直下型地震が関東にいつ来るか分からない、そういう中で、わたしたちは無力ではありますが、減災、防災の備えはできるのです。終末に関してわたしたちにできること、それはイエス・キリストの言葉に聞き従って、いつ来ても良いように備えることです。

 

さて、35節に、「その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。」とあります。ここでは、「地の表のあらゆる所に住む人々すべて」ということが強調されています。全世界の人々がもれなく対象となります。もう少し角度を変えて言うならば、神様の前に立たなくて良い人はいないという事、例外はないという事です。

 

けれども、そういう厳しい状況の中にわたしたちが置かれても、『しかし』の主イエス・キリストがわたしたちの近くに必ずおられるのです。それが良き知らせであり、福音なのです。ですからイエス様は、36節で、「しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」とあります。

 

わたしたちは、神様の御前に立って裁きを受ける前に、救い主イエス様の前に立つことが恵みとして許されています。なぜイエス様の前に立つ必要があるのでしょうか。それは、イエス様がわたしたち一人ひとりの弁護を引き受けてくださり、執り成しをしてくださるからです。執り成すとは、仲裁する、仲直りをさせるという意味がありますが、イエス様がわたしたちの側に立ち、味方になってくださるから、そのイエス様の御前にまず立つ必要があるのです。

 

しかし、イエス様の御前に立つ前にも、わたしたちは自己吟味し、これまでイエス様の言葉に聞き従ってきたかを振り返らなければなりません。もしイエス様の言葉に聞き従うことが不十分であれば、今日から真剣に聞き従う必要があります。そのことに気付かせるために、「いつも目を覚まして祈りなさい」と弟子たちに言われたのではないかと考えます。この「いつも目を覚まして祈りなさい」には二つの動詞があります。「目を覚ましている」ことと「祈る」ということです。

 

「目を覚ましている」とは、イエス様だけを見続ける、イエス様の声だけに聞き続ける、イエス様にだけ従う、イエス様の言葉通りに生きるという実践が伴います。イエス様を見ているだけではダメなのです。イエス様の後に従わないと。イエス様の言葉を聞いているだけで、その言葉通りに生きないと意味がないのです。イエス様に従うことは容易いことでは決してありません。心(意志)も、肉体も弱いのがわたしたちです。だからこそ、イエス様に従ってそ生きることができるように、いつも神様に助けを求めること、祈り求めながら生きることが重要になってくるのです。

 

さて、37節には、「それからイエスは、日中は神殿の境内で教え、夜は出て行って「オリーブ畑」と呼ばれる山で過ごされた。」と記されています。イエス様がエルサレムに入城されてから毎日のように日中は神殿の境内で教えてこられました。弟子たちに、民衆に、群衆に、そしてイエス様を敵視する祭司長たちとも何度も問答を繰り返されました。どれだけ大きな力が必要であったでしょうか。その力を受けるために、イエス様は夜には神殿を出て、「オリーブ畑」と呼ばれる山へ行って、そこで過ごされたのです。

 

この「過ごされた」というのは、神様に祈られたということです。イエス様は夜を徹して、神様に祈られ、神様から憩いと励ましを受けられたのです。それは弟子たちもみんな知っていました。ですから、イエス様を裏切るイスカリオテのユダも迷うことなく、兵士たちを引き連れて来て、イエス様を捕えるのです。それを防ぐために祈る場所を他に移すこともできたでしょう。しかし、イエス様は場所を変更しなかったのは、祭司長たちに捕らえられ、不当な扱いを受けた後に十字架に架けられて贖いの死を遂げられることをイエス様は父なる神様の御心と信じ、すべてを神様に委ねていたからです。

 

38節に、「民衆は皆、話を聞こうとして、神殿の境内にいるイエスのもとに朝早くから集まって来た。」とあります。イエス様が夜ごと父なる神様に祈って、その愛に励まされて、神殿の境内で日々人々に教えられたのは、イエス様の言葉を聞く人たちがイエス様を通して神様の愛を知り、悔い改めて神様に立ち返ること、御国へと招かれて、そこで永遠に神の子として生きることを心から願っておられたからです。わたしたちを愛してくださっていたからです。感謝です。

 

さて、ルカによる福音書の学びも、いよいよ次回から22章に入ります。イエス様の十字架までの最後の数日間が始まります。このイエス様の受難の記事を、心をしっかり持って、目を覚まして、祈りながら、共に聴いてゆきたいと願います。