ルカによる福音書22章1〜13節
ルカ福音書の学びは、今回から22章に入ります。この22章と続く23章は、イエス様が弟子の一人に裏切られ、群衆に捕えられ、不当な扱いを祭司長たちから受けられた後、呪いの木と言われた十字架に架けられ、その十字架上で贖いの死を迎えるまでの受難の箇所です。ですので、読む者の心は強く締め付けられ、痛む箇所もあり、聴く者にとって決して耳触りの良いものでもありません。しかし、この箇所に記されていることは、すべてが悪い事ばかりではありません。神様とイエス様の愛が示されているところがあります。
イエス様が十字架上で贖いの死を遂げられる前に、弟子たちとの最後の晩餐の際に、神様とイエス様を救い主と信じる者たちの間に新しい契約が交わされますし、イエス・キリストが再臨される時まで弟子たちが守るべき「主の晩餐式・聖餐式」のモデルが示されます。残念ながら、弟子たちは、イエス様がその中でお命じになられること、イエス様が仰る言葉の意味がほとんど理解できません。いつも自分の事ばかり考えています。
しかし、神様はこれからなさろうとしている御業のために、水面下で着々と準備を進められ、弟子たちが意図しない行動の中にも、神様はわたしたちの救いのために必要なことを一つ一つ、綿密に準備されてゆきます。そのことを今回しっかり覚えたいと思います。
1節に、「さて、過越祭と言われている除酵祭が近づいていた。」とあります。「過越祭」は、奴隷として長年大きな苦役に苦しんでいたイスラエルの民を神様がエジプトの地から救い出した記念として毎年守られる祭りです。「除酵祭」は、「七日間の祭り」とも言われる大麦の収穫祭です。この「過越祭」と「除酵祭」は紀元前8世紀ごろに融合されましたので、ここでは「過越祭と言われている除酵祭」という呼び方になっています。
この「過越の祭り」では、ユダヤ人の各家庭は、子羊を前日に屠って料理をし、祭りの夕方に家族全員が集まって盛大な食事会が催され、神様がイスラエルをエジプトの苦役から救ってくださったことをみんなで感謝します。
しかし、新約聖書の4つの福音書では、この過越とイエス様の受難を結びつけ、すべての民を罪と死の苦しみから救い出すために、罪のいけにえの子羊として救い主・メシアが神の許から来られ、十字架上で死なれた(屠られた)ことを重ねます。屠られた子羊の血で自分たちの罪が洗い清められて救われているとユダヤ人たちが信じています。しかし、わたしたちの罪を完全に、完璧に贖うことができるのは、神様が準備くださった子羊、この地上に送ってくださったイエス・キリストだけなのです。
さて、イエス様の受難の箇所は、2節にありますように、祭司長たちや律法学者たちの陰謀から始まります。「祭司長たちや律法学者たちは、イエスを殺すにはどうしたらよいかと考えていた」とあります。彼らのイエス様に対する怒り・憎しみ・妬みは頂点に達していたことが分かりますが、「彼らは民衆を恐れていたのである」とあるように、イエス様に対して好意を抱く人々が暴動などを起こすことを恐れていたのです。祭司長たちや律法学者たちは、すべての主権者である神様を恐れるよりも、目の前にいる人々を恐れていたことが分かります。
恐れは、頭と心の動きを硬直させて何もできなくさせますが、そのような時に、彼らにとって好都合なことが起こります。それが3節と4節に記されています。「3しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。 4ユダは祭司長たちや神殿守衛長たちのもとに行き、どのようにしてイエスを引き渡そうかと相談をもちかけた。」とあります。
なんと、敵陣から思いもよらぬ助け舟が出されるのです。これは、イスカリオテのユダの心を支配したサタンの働きです。しかし、ユダ自身に責任が全くないない訳ではありません。彼の一瞬の気の緩み、それが不信であったり、不満であったり、欲望であったりしても、心がイエス様から一瞬でも離れてしまうと、サタンがすぐに心に入ってくるのです。このことから、信仰の戦い、霊的戦いの厳しさと、いつも心をしっかり持つこと、イエス様により頼むことの大切さを教えられます。
ルカ福音書4章1節から12節に、イエス様が福音宣教の業を公に開始する前、荒れ野で40日間過ごされる中で、神の子であるということで悪魔(サタン)から誘惑を受けられたことが記されていますが、その最後の部分の12節13節で、「イエスは『「あなたの神である主を試みてはならない」と言われている』とお答えになった。悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた」とあります。
この時にイエス様から離れた悪魔(サタン)が、これまでの人生の中で最大の試練をこれから受けられようとするイエス様の前に現れ、イエス様が選ばれた12人の弟子の一人であるユダの中に入って、ユダを惑わすのです。
福音書の記者ルカは、イエス様と仲間たちを欺くユダを、サタンによって動かされ、利用されたという考え方を持ちます。心がサタンに奪われてしまうと、人を欺く人間になってしまい、人間関係・信頼関係を壊し、和を乱すのです。サタンは、人を陥れるために、その機会を虎視眈々と狙っていて、弱さを持つわたしたちでは太刀打ちできないのです。ですから、わたしたちは、イエス様を救い主と信じて、イエス様の言葉と神様の愛で心を守って行かねばならないのです。
さて、ユダからの申し出を喜んだ祭司長たちは、「ユダに金を与えることに決めた」と5節にあり、6節には「ユダは承諾して、群衆のいないときにイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた」とあります。この時点で、イエス様が殺されることは、人間の策略の中で決まったのです。しかし、それらもすべて、神様の御手の中にあることでした。
では、なぜユダはイエス様を裏切り、祭司長たちからお金を受け取ったのかという疑問が湧き上がってきます。6節に「引き渡す」という動詞がありますが、これはギリシャ語でパラディドーミという言葉が使用されていて、「裏切る」という意味もあります。
イスカリオテのユダは、他のガリラヤ地方出身の弟子たちと違って、ユダヤ地方出身の弟子で、ユダヤ主義の強い考え・理想を持っていた人で、ユダヤ人としての誇りも非常に高い人と考えられています。イエス様もガリラヤのナザレの出身ですので、何か関連するのかもしれません。
また弟子の中で、徴税人であったマタイではなく、ユダが会計係も任されていました。ヨハネ福音書12章6節には、「(ユダ)は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていた」と記されています。ですでの、その穴埋めができないのでイエス様を売り渡してしまったと考える学者もいます。
また、マタイ26章15節を見ますと、ユダは「祭司長のところへ行き、『あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか』と言った。そこで、彼ら(祭司長たち)は銀貨30枚を支払うことにした」と記されています。銀貨30枚は労働者の3ヶ月分の給与と計算されますので、銀貨30枚を不正利用の穴埋めにしようとしたので、イエス様を売ったと考える学者もいます。
他の学者は、ユダはイエス様をメシアであると信じ、これまでずっと従ってきたが、ローマに反旗を翻して革命を起こそうという気配をまったく見せないイエス、そして言っていることも意味不明な事ばかり多いと疑問を抱き始めたからではないかという人もいます。
多数の聖書学者は、イエス様をメシアとして疑問視する事が引き金と考えていますが、その理由とお金の問題が重なったことが理由と捉えている人もいます。しかし、先ほども触れましたように、ルカは「ユダにサタンが入ったから」と記し、ヨハネもヨハネ福音書13章27節で「サタンが彼の中に入った」と記しています。これが決定的な要素です。
さて、7節からは、イエス様が弟子たちに過越の食事を準備させる箇所です。7節と8節に「過越の小羊を屠るべき除酵祭の日が来た。イエスはペトロとヨハネとを使いに出そうとして、『行って過越の食事ができるように準備しなさい』と言われた。」とあります。
「屠る」とは、ただ単に動物を殺すという意味ではなく、犠牲として神様に捧げるために殺すという意味の言葉です。ここに屠る「べき」とありますので、神様が定めたことに対する人間の義務がこの過越の食事にはあることが分かりますが、この食事は神様の救いの御業に対する心からの感謝の表れの食事であって、致し方ない食事ではないのです。
ペトロとヨハネが過越の食事の準備をイエス様から任せられますが、なぜこの二人であったのかという素朴な疑問も起こりますが、それはただ単に、彼らがイエス様に対していつも従順であり、素直であったからと理解することが良いと考えます。神様とイエス様は、わたしたちに対しても、素直で、純真であることを求めておられます。
その忠実な弟子たちがイエス様に、「どこに用意いたしましょうか」と訊ねますが、イエス様は、10節から12節で明確な指示を出されます。「10イエスは言われた。『都に入ると、水がめを運んでいる男に出会う。その人が入る家までついて行き、11家の主人にはこう言いなさい。「先生が、『弟子たちと一緒に過越の食事をする部屋はどこか』とあなたに言っています。」12すると、席の整った二階の広間を見せてくれるから、そこに準備をしておきなさい。」と命じられます。
素直なペトロとヨハネは、イエス様のお言葉どおりに従います。そうすると、13節、「二人が行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。」とあります。ここでのポイントは、すべてのことは「イエスが言われたとおりだった」ということです。イエス様と弟子たちの過越の食事、最後の晩餐の場所はすでに整っていたのです。マタイ26章18節を読みますと、イエス様とその家の主人との間に相談がなされ、合意がされていたことが分かります。
神様とイエス様には、わたしたちの知らないご計画があります。そしてわたしたちの知らないところで、すでに配慮と手配が神様によってなされています。わたしたちはそれらすべてのご計画を事前に伝えられていませんので分かりません。しかし、だからと言って、つむじを曲げたり、いじけたりするのではなく、神様の導きとイエス様の言葉に聞き従う素直さがわたしたちに求められているのです。ペトロとヨハネは、イエス様に信頼されていたので、食事の準備をする大切な役目をイエス様から仰せつかったのです。そして、イエス様のために働くように都へ派遣されたのです。
サタンの働きに仕えて、最終的に死を迎えるか。それともイエス様の働きに仕えて、御国へ招かれて永遠の命に生かされるか、どちらが神様の御心でしょうか。答えは、救い主イエス様にあります。イエス様の言葉に日々聴き従う者とされて生きたいと願います。そのように生きられるように願い、祈り、主に委ねる者とされてゆきましょう。