ルカによる福音書22章14〜23節
前回の学びでは、イエス様の受難、すなわち十字架への死を前にして、イエス様を殺す計画が祭司長たちによってなされ、イスカリオテのユダの心にサタンが入りこみ、イエス様を裏切る時を密かに狙っていたという部分と、イエス様がペトロとヨハネに命じて過越の食事の準備をさせたという部分を聴きました。サタンの働きに加担するか、それともイエス様の言葉に聞き従う中で、イエス様の働きの一端を担うか、どちらが神の御心であるかを自分の事として聴きました。
今回は、イエス様と弟子たちとの過越の食事の中でイエス様が弟子たちに教えられたイエス様の再臨の時までキリスト教会が守るべき礼典「主の晩餐式(聖餐式)」についてご一緒に聴いてゆき、2000年にわたるキリスト教会の歴史の中で、キリスト教会は何故この礼典を守り続けるのか、どういう意味があるのかを学びたいと願います。今回の箇所は、大きく3つに区分されます。1)過越の食事としてのイエス様と弟子たちの最後の晩餐(14節〜18節)、2)この最後の晩餐を記念せよとイエス様が弟子たちに命じた部分(19節〜20節)、3)イエス様を裏切る者がいることが明かされる部分(21節〜23節)です。
最初の部分、14節から18節には、イエス様と弟子たちとの過越の食事について記され、この晩餐がイエス様の受難の前の別れの食事会であったことが強調されています。「過越の食事」とは、イスラエルの歴史の中で、遠い昔、エジプトの地で奴隷として過ごし、ヘブライ人(渡ってきた者)と蔑まれてきたユダヤ人たちが神様の憐れみの中でエジプトを脱出できたことを記念する食事です。
14節の「時刻になったので」という言葉は、食事の時間になったという意味ではなく、受難の時になったという意味ですので、「時が来たので」という訳し方のほうが良いと思います。そして、14節で注目すべきは、後半の「イエスは食事の席に着かれたが、使徒たちも一緒だった」と、弟子たちが急に「使徒たち」と呼ばれている点です。その理由ですが、福音書の記者ルカは、この過越の食事には特別な性格があることを示すために、ここで敢えて弟子たちを「使徒たち」と呼んでいると考えられます。
使徒とは、イエス様によって「遣わされた者」という意味ですが、十字架に至るまでのイエス様の受難、十字架の死、復活、昇天の後、イエス様に代わる助け主・聖霊の降臨によって誕生したキリスト教会の中で、イエス様の十二弟子たちが「使徒」と呼ばれるようになり、この使徒たちとそのリーダーシップによって、全世界の人々にキリストの福音(十字架での贖いの死と三日目の復活による救いと希望)を伝えられてゆきます。
その福音が伝えられた場所でイエス様を救い主と信じる者たちが誕生し、集められ、教会となって礼拝がささげられてゆき、その交わりの中で、イエス様の十字架の死を記念するために「主の晩餐式(聖餐式)」という礼典が守られてゆきます。何故、守られるのか。それは、イエス様がその様に記念しなさいと今回の箇所である22章19節から20節でお命じになられているからです。ですから、繰り返しになりますが、イエス様と弟子たちとの別れの食事に特別な性格があることを示すために、敢えて「使徒たち」と記します。
15節に「イエスは言われた。『苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。』」とあります。このイエス様の言葉がとても切なく聞こえます。「あなたがたと共に」という言葉がイエス様の弟子たちに対する愛、そしてイエス様と弟子たちとの一体感をイエス様が喜んでおられる言葉に聞こえてきます。この一体感を消滅させないためにも、この食事が苦しみを受ける前に必要であったとイエス様は考えておられたと思います。死を前にして、愛する者たちと一緒に豊かな時間を過ごす事ほど嬉しく感謝なことはないのではないでしょうか。その中心に愛があるからです。
16節に、「言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない。」とありますが、この食事は確かに受難を前にした最後の食事になりますが、「死」という悲しみがこの食事の中心ではなく、神の国が来るという喜びが中心となった食事会です。「言っておくが」という言葉は、これは預言的言葉です。イエス様のこの言葉は、弟子たちの将来に不安を与えるような否定的な言葉では決してなく、神の国が到来することへの希望に満ちた、前向きで、喜びをわたしたちに与えるような言葉です。イエス様の贖いの死が天国への道を開き、永遠の命が与えられるからです。
ですから、17節と18節に「そして、イエスは杯を取り上げ、感謝の祈りを唱えてから言われた。『これを取り、互いに回して飲みなさい。言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。』」とありますが、イエス様が取り上げた「杯」は確かにイエス様の十字架の苦しみと死を指していますが、そのイエス様が神様に「感謝の祈り」を唱えられるのです。ご自分の死・犠牲が愛する者たち、つまりわたしたちの救いにつながるから、感謝を神様にささげてくださるのです。
しかし、だからと言って、自分の命を差し出すことなど簡単にできることではありません。そうではないでしょうか。自分にはできないけれど、イエス様だからできると考えてしまうのは、身勝手ではないでしょうか。この17節の「杯を取り上げ」の「取り上げ」という動詞にはデコマイというギリシャ語が使われています。これは「受け取る」という意味の動詞です。すなわち、イエス様は父なる神様がご自分にお与えになった使命・定めをここでもう一度受け取っておられるのです。この受け取りがあるので、神様への感謝が湧き出てくるのです。わたしたちも、自分が何のために生かされているのかが分かったら、もっと心が自由になり、自分のなすべき使命に生き、定めを感謝できると思います。
さて、二つ目の区分ですが、19節から20節は17節と18節に重複しているように聞こえますが、ここでの重要な部分は、この最後の晩餐を記念として守りなさいとイエス様が弟子たちに命じられたことです。しかし、残念ながら、弟子たちの頭には、このイエス様とのこの食事が最後の晩餐になるという考えはまったくありません。イエス様は弟子たちのことを考えていますが、弟子たちは自分達のことばかりを考えています。しかし、それでもイエス様は弟子たちを愛し通されます。それがイエス様の愛の凄さだと感じます。
19節に、「それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。『これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。』」とありますが、ここでも感謝の祈りが神様にささげられます。
「パン(イエスの命と身体)を取り、それを裂き、与えた」という一連の行為は、わたしたちを救うために、ご自分の命を差し出し、その身体を祭司長たちによって十字架上で裂かれることを許し、贖いを通してその命を与えたということを表しています。
「記念としてこのように行いなさい」とは、イエス様の死はわたしたちの身代わりの死であったことを覚え続けなさいということです。イエス様の贖いの死、身代わりの死があって、今のわたしたちに救いがあることを、信仰の原点であることを後々まで思い出し続けなさいということです。
特定の出来事を毎年記念する何かしらの行事、あるいは記念碑のようなものがないと、そこで、その時、何があったのかを誰も思い出すことも、誰にも知られることもありません。時が過ぎゆく中で徐々に忘れ去られてゆき、そして人間は、また同じ間違いを犯すのです。ですから、わたしたちは記念して覚える必要があるのです。
20節に、「食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。『この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。』」というイエス様の言葉がありますが、ここで注目すべきは、「わたしの血による新しい契約」という言葉です。この新しい契約は、「あなたがたのために」とありますように、ひとえにわたしたちの幸いのためであることを覚えて感謝したいと思います。
ここに「血」とありますが、日本人は血を「汚れ・穢れ」と否定的に捉えてしまうことが多いので、このことを理解するのが非常に難しいと思いますが、ユダヤ社会ではその反対で、罪の汚れを清めるものとして肯定的に捉えます。このことを理解するためには、旧約聖書の出エジプト記24章、新約聖書のヘブライ人への手紙9章などを読む必要がありますが、イエス様がここで言われる「血」には、二つの重要な用い方があります。
一つは、先ほど言いました罪を清めるための血(赦しを受ける血)です。ヘブライ人への手紙9章22節後半には、「血を流すことなしには罪の赦しはありえないのです」とあります。わたしたちの罪が神様の前に赦されるためには、汚れのない小羊が、つまり罪のないイエス・キリストの血潮が流されることが必要であったのです。
もう一つの用い方は、契約を交わし、成立する時に用いられました。これは出エジプト記24章、そしてヘブライ9章18節から20節にありますが、「最初の契約もまた、血が流されずに成立したのではありません。というのは、モーセが律法に従ってすべての掟を民全体に告げたとき、水や緋色の羊毛やヒソプと共に若い雄牛と雄山羊の血を取って、契約の書自体と民全体とに振りかけ、『これは、神があなたがたに対して定められた契約の血である』と言ったから」とあります。
最初の契約とは旧約の時代の神様とユダヤの契約であって、次の契約はイエス・キリストの血潮によって交わされ、成立するまったく新しい契約なのです。イエス様が十字架上で流された血潮は、1)わたしたちの罪を洗い清める目的と、2)わたしたちを神様との新しい関係に入れるための契約を成立させる目的があったことを覚えたいと思います。
また、主の晩餐式の時に読まれるコリントの信徒への手紙11章28節には、「だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いにしているのです」とあります。ここで使徒パウロが勧めているのは、「自分をよく確かめたうえで」という自己吟味です。自己吟味とは、自分が神様の御心のままに、神様の願い通りに生きているかを確かめることです。
しかし、次の21節から23節には、なんと記されているでしょうか。「『21しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。22人の子は、定められたとおり去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。』23そこで使徒たちは、自分たちのうち、いったいだれが、そんなことをしようとしているのかと互いに議論をし始めた」とあります。
自己吟味するどころか、イエス様を裏切る者がその食卓についています。しかし、それだけではありません。弟子たちは、いったい誰がイエス様を裏切ろうとしているのかと、他者吟味をしています。最後の晩餐の物語の中に、弟子の裏切りの予告と他の弟子たちの身勝手な考えが組み込まれているのは、今日を生かされているわたしたちに反面教師的に教えるためであり、わたしたちも自己吟味が必要であると教えるためです。
わたしたちは、誰がイエス様を裏切るのかと問うべきではなく、そのような弱さを持つのは「自分ではないか」と問うべきなのです。そのように自分とイエス様の関係性をいつも心に留めるのです。神様の愛に生かされ、イエス・キリストを救い主と信じて生きる中で、真の謙遜・謙りが与えられ、神様の愛と赦し、イエス様の犠牲と祈りと愛の中に生かされていることを恵みとして感謝することができるのだと感じます。