ルカによる福音書22章24節〜30節
これまでのルカ福音書22章の学びの中で、十字架の死を目前に控えるイエス様とその事をまったく悟らない鈍感な弟子たちが食事を共にした、いわゆる「最後の晩餐」について、様々な角度から聞いてきました。イエス様がこの食事会を弟子たちと共にしたいと切に願っておられたことが15節に記されています。
そのような中で、今さらながらに驚くのは、イエス様は、弟子たちとの最後の晩餐において、その企画から、演出、司会進行、そして給仕まで、すべてにおいてリーダーシップを発揮されていて、イエス様がしていないのは料理ぐらいだと思います。つまり、イエス様は、プロデュース、ディレクティング、マスターオブセレモニー、ウェイターとしてのサービングまで、すべての事に心を配り、この最後の食事会を成功させ、一つの目的を果たそうとされます。
その目的とは、地上に残してゆく弟子たちの中に「一致」を与える事でした。どういう一致であるのか。それは、弟子たちがお互いに「仕える」、「仕え合う」という一致です。
イエス様は、十字架を前にして、弟子たちの間にこの一致がないことを知っていました。この問題の根源はイエス様に責任があるのではなくて、弟子たちそれぞれが持つ性質、強いて言えば「傲慢さ」の問題です。この弟子たちの中に一致がないという問題は、将来的に大きな問題をはらんでいます。それは、イエス様の代わりとして神様から派遣される聖霊の降臨後に生み出される「教会」としても一致がなくなるという事であります。
教会という信仰共同体が不一致であると、神様の御心を行うことは不可能です。イエス・キリストの福音を全世界に出て行って、すべての人々に宣べ伝えるチームとしては、致命的な問題です。聖霊の力と働きがあっても、不一致が妨げになって、聖霊の力をフルに活用し、自分たちのポテンシャル・力をフルに発揮することはできなくなります。
コリントの信徒への手紙一の11章17節から18節で、使徒パウロは以下のようなことをコリント教会に書き送っています。「次のことを指示するにあたって、わたしはあなたがたをほめるわけにはいきません。あなたがたの集まりが、良い結果よりは、むしろ悪い結果を招いているからです。まず第一に、あなたがたが教会で集まる際、お互いの間に仲間割れがあると聞いています。わたしもある程度そういうことがあろうかと思います。」と。富む信徒たちが貧しい信徒たちのために配慮しない弱さがあることを指摘します。
弟子たちを愛しておられたイエス様の願いは、弟子たちが一致することでした。しかし、その願いとは裏腹に、サタンが入り込んでイエス様を裏切ろうとチャンスをうかがう人が弟子たちの中にいれば、イエス様のためならば火の中、水の中と豪語する弟子がすぐにイエス様を知らないと云う人まで出てきます。裏切る者も、このイエス様を知らないと言
う者も、サタンの力が大きく働いてそうしているとイエス様はおっしゃっています。
イエス様が、弟子たちの中に裏切る者がいると聞いた時にどのようなリアクションがあったでしょうか。23節に、「いったい誰が、そんなことをしようとしているのかと互いに議論をし始めた。」とあります。そして、今回の箇所の24節にも、「また、使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった。」とあります。
ここに「議論」という言葉が続けざまに2回出てきます。「論争・争論」でも良いでしょう。最後の晩餐の時点では、まだ教会としての形はありませんが、教会の根幹を揺るがしかねない、教会を破壊するような大問題の一つが、この論争・議論なのです。
日本のクリスチャン人口が1%にも満たない原因・理由は、日本のキリスト教界に一致がないからとつぶやかれています。世界でも同じことが言えると思います。キリスト教にも旧教と呼ばれるカトリック教会から、新教と呼ばれるプロテスタント教会まで、プロテスタント教会でもバプテスト、ホーリネス、メソジスト、聖公会、ルーテルなど、様々な教派に分かれていたり、そこでも福音派、社会派、聖霊派などがあります。
そういう中で、それぞれの宣教アプローチを批判し合ったり、神学的な議論ばかりをしていたり、同じ教派でも会議ばかりやっていて、神様の愛、イエス様を伝えるという一致と協力がないから伝道が力強く進まないとよく言われます。わたしはその通りだと思います。日本のキリスト教界が一致してゆくと、神様の愛、イエス様の福音は日本中に伝えられ、イエス様の言葉と聖霊の力によって日本は変わるはずなのです。
一つの教会内で論争・議論が起こる契機として考えられることが多々あります。例えば、教会の中で伝道に熱心な人があまり熱心でない人を裁いてしまったり、教会の活動や献金に協力的でない人に不満や怒りを抱いてしまったり、年功序列を重んじ過ぎたりすることがあります。教会が分裂するのは、会堂建築のようなお金の絡むことが多いと思います。また、教会内に派閥ができてしまうのも壊滅的です。
神様とイエス様だけを見上げるべきなのに、人ばかりを見て、気にしているから、このようなことが教会内で起こって、聖霊の働きを止めたり、教会の体力を消耗させたり、宣教の業を後退させたりして萎縮して、どこか諦めてしまって、神様とイエス様から委ねられている働き・使命を捨てて、何もしなくなる、自分の信仰だけ守られていれば良いという内向な考えになってしまう訳です。
しかし、こういう問題は社会の中でも、例えば、職場、学校、家庭の中でも起こっている事です。人間の身勝手な思いや主張が互いに先に出ますから、そこに不一致が生まれ、論争が生まれ、そこから分断や差別・偏見が生み出され、手がつけられない状態に陥っている、そういう状態が現状だと思います。
弟子たちは、「使徒」と呼ばれ、教会のリーダー的働きがイエス様から委ねられてゆく立場にあるにも関わらず、「自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか」と小競り合いばかりしています。つまり、完全に自分のことしか考えていません。ですから、不一致の中に一致を与えるために、イエス様はご自分の十字架という事を置いておいて、弟子たちに愛と祈り心をもって丁寧に教えてゆかれるのです。
まず、24節の「使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった。」ということを考えてみましょう。日本人は、もういうことは口に出すことはあまりありませんが、心の中でそういう思いがあるように思います。弟子たちの間で「誰がいちばん偉いだろうか」と競い合うのは、誰が一番イエス様に認められているだろうか、信頼されているだろうか、頼りにされているだろうか、強いて言えば、誰がもっともイエス様に愛されているだろうか」ということです。弟子たちは、イエス様に認められ、評価され、気に入られ、愛され、イエス様の右腕・左腕になりたいという思いが強かったのです。誰でも、人から良い評価を受けたい、認められたいという思いはあるのではないでしょうか。そういうことがモーティベーションになる場合もあるわけです。
イエス様は、マタイ、マルコ、またルカの他の箇所で、本当に偉い人とはどのような人であるかを語られていますが、一言で言うならば、幼子のように自分は小さい者だという自覚をもって、へりくだり、心から仕える者になるということです。この仕える姿勢を持つ人を、父なる神様は天国において、その人に最もふさわしい席を備えて、その席に座らせてくださるとイエス様は他の箇所で言われます。地上での地位、席順にこだわり過ぎると、天国そのものへ招かれるのかもあやふやになります。席に着かせてくださるのは主なる神様であると信じて、イエス様の願い通りに神と人々に心から仕えてゆくメンタリティーが必要であると教えられていると思います。
25節を読みましょう。「25そこで、イエスは言われた。「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。」とあります。「異邦人の間」とは、「異邦人的基準をもって生きる」という意味です。つまり、人からの賞賛を目当てに働く人ばかりで、人の目や思いなどを気にしすぎて生きていると云うことです。
また、「王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている」というのは、権力を振りかざして、「国民を守っているのは自分。だから国民は平和なんだ。わたしはこの国の守護神なんだ」と、なんでも「自分がしてやっている」というような傲慢で、恩着せがましく生きてはいけないということを弟子たちやわたしたちに教えるために、イエス様はこういう言い方をしています。
ですから、イエス様は26節で、「しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。」と言われ、神を畏れない人々のような傲慢な生き方ではなく、神様の憐れみのうちに生かされ、日々恵みを受けていることへの喜びと感謝をもって、謙遜を身に
まとい、心から仕えてゆく、そういう「仕える者」の姿勢が必要だと教えられるのです。
27節で、イエス様は、「食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。」と言われ、ご自身が「仕える」ということの模範を示し、「あなたがたも仕える者になりなさいと教え、そのように生きることが神の御心であり、地上で生かされている間になすべき働き、尊ばれる働きだ」と教えておられるのです。
さて、28節から30節は少々難解な箇所です。ここでイエス様が教えておられるのは、仕える者というのは、試練を通して作り上げられていくということです。仕えるということは、決して楽なことではありません。自己犠牲を伴う苦しいことです。しかし、そのような苦難を通る中で、主と隣人に仕える資質や品性が神様によって作られるのです。
イエス様は、28節で「あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。」と過去形で言っておられます。確かに、イエス様が弟子たちと歩まれた3年の期間の中で、辛い経験もしてきましたが、イエス様が共におられたので歓迎され、優遇されたこともそれ以上に多かったと思います。しかし、このイエス様の言葉は過去のことを言っておられるのではなく、イエス様が天に戻られた後に、弟子たちが宣教の業を進めてゆく中で遭遇する迫害や多くの試練に遭う中でも、イエス様にしがみついて、より頼んで生きるようにとの励ましであると思います。
十字架の死、復活、そして昇天の後、イエス様の姿が見えなくなり、イエス様の生の声が聞こえなくなる時がすぐに来る中で、厳しい試練の中を歩むことになるけれども、聖霊の助けを受けてイエス様を信じ続け、つながり続け、イエス様が与えてくださった信仰、希望、愛に踏みとどまりなさいという励ましだと思うのです。
29節と30節に、「29だから、わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。30あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。」とありますが、29節に「委ねる」(ギリシャ語:ディアティセミー)という言葉が2回出てきます。この言葉の名詞形はデアテーケーで、20節に出てくる「契約」という言葉と同じです。
イエス・キリストは、罪人である人々(わたしたち)に仕え、その命を人々のためにささげるために愛し、祈り、赦し、救う「権威」を神様から委ねられました。同様に、イエス様が、弟子たちに、そしてわたしたちに委ねてくださる「権威」も同じで、心から「仕える」という働きが委ねられていると言えます。わたしたちそれぞれが神様の憐れみと導きの中でイエス様を信じて、イエス様に従うと契約・約束したのは、神様と人々に心から愛して、心から仕えて生きるということなのです。そのように生きることが、イエス様が弟子たちに、そして今を生かされているわたしたちに与えてくださった新しい契約です。
イエス様は、わたしたちを罪の支配から解放し、神様の愛の中で自由に生かし、心から仕え合って生きるために十字架の死を受け入れられ、その命をわたしたちにくださったのです。わたしたちが互いを尊重し合い、互いに仕え合うこと、そのように生きる日々が、いずれイエス様が導いてくださる神の国での祝福の席に着いて、永遠の命に生きることになるのです。そのために、わたしたちはそれぞれ主に従うのではなく、イエス・キリストの御名によって一致して、そして主と隣人と教会に仕えること、それがわたしたちに神様とイエス様が求められていることだと今回の箇所から学べると思います。