ルカ(116) 厳しい時代に備えよと命じるイエス

ルカによる福音書22章35節〜38節

ルカ福音書22章は、イエス・キリストが十字架に架けられ死を迎える前日、前夜、つまり木曜日とその晩にあった様々な出来事、事柄、イエス様の言葉が記録されていますので、できるだけ注意深く聴いてゆきました。

 

14節に、「時刻になったので、イエスは食事の席に着かれた」とあるだけで、弟子たちとの最後の食事が何時から開始したのか正確に分かりませんが、日が暮れてから始めたと考えて、たとえば午後6時に開始したと仮定しましょう。イエス様は金曜日の午後3時に十字架上で息を引き取られますので、あと21時間の命という計算になります。

 

もし皆さんの命があと21時間だとすれば、皆さんは何をして過ごされるでしょうか。一番大切な人たちと時間を過ごされ、その人たちと真剣に向き合われると思います。無駄なことはいっさい口にしないでしょう。本当に大切なことだけに集中すると思います。イエス様はそうされたはずですから、わたしたちも真剣に聴いてゆく必要があります。

 

また、この22章の中にはルカ独自の記録があります。弟子の中で一番偉い者とは給仕をする者のように神と人に「仕える人」であるとイエス様が教えられた24節から30節の箇所と今回の35節から38節です。ご自分の受難・死を目前にしながら、イエス様がこれらを弟子たちに教えたことには大きな意味があり、絶対に記録すべき言葉・教えであるとルカは決断してここに記しているわけですので、わたしたちもしっかり聴いてゆきたいと思うのです。

 

さて、今回のイエス様の弟子たちへの教えには前提となる箇所が二つあります。それはルカ9章1〜6節に記録されているイエス様が12弟子を村々へ派遣された箇所と10章1〜12節に記録されている72人の弟子たちを町や村へ二人ずつ派遣した箇所です。

 

9章1節から3節にはこうあります。「イエスは十二人を呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった。そして、神の国を宣べ伝え、病人をいやすために遣わすにあたり、次のように言われた。『旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない』と弟子たちにお命じになりました。

 

10章1節から4節では、「その後、主はほかの七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。そして、彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫にために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。財布も袋も履物も持って行くな。」とお命じになりました。

 

旅に出かける時に必要な杖、袋、パン、お金、下着、履物などを持って行くなとイエス様が命じられた理由と目的は、旅路に神様が弟子たちと共に歩んで、すべての必要を満たしてくださること、神様の真実さを経験させるため、ずっと神様に信頼しながら生きることを教えるためでした。弟子たちは、イエス様によって福音を宣べ伝えの力、悪霊に勝利する力、病を癒す権能が授けられますが、それは神様の大いなる力を体験させ、自分たちの力ではなく、神様により頼んで歩んでゆけるように訓練する目的がありました。

 

弟子たちの旅の報告の箇所を読みますと、彼らは神様の御力と御業を大いに体験し、喜びと感動をもってイエス様のもとに戻ってきます。本当に素晴らしいことだと思います。しかし、ここで忘れてはならないのは、派遣された各地で弟子たちが受け入れられ、用いられたのは、イエス様という大きなバックアップがあったからです。イエス様の宣教の業が人々の耳もとに届き、多くの人々がイエス様に大きな関心を持ち、期待していたからです。イエス様が人々に人生を変えるような教えを語られ、人々は感動していたので、イエス様の弟子たちをも歓迎してきたのです。イエス様のお陰で、正直、それだけなのです。

 

しかし、イエス様がわたしたちの救いのために贖いの死を遂げる時が来ました。イエス様は、ご自分が父なる神様の御力によって死から勝利して甦ることを知っておられ、ゆえにすべてを神様に委ねておられました。しかし、イエス様は弟子たちのことが気がかりでした。ご自分の十字架の死、復活、そして昇天後の弟子たちのことを心配されました。理由としては、イエス様の十字架の死以降、社会全体のイエス様に対する関心の度合いが一気に下がり、民衆は波が引くように離れ去り、期待を裏切られた人々はユダヤ教指導者たちの口車に乗ってイエス様の弟子たちへの迫害を始めるのです。イエス様は、そういうことすべてを知っておられたのです。

 

身の危険を感じると、男性の弟子たちはイエス様を置き去りに逃げ出す者がほとんどでしたが、甦られたイエス様に出会った弟子たちは聖霊という助け手を受け、新たな力を得て教会を形成し、イエス様の福音を全世界に出て行って宣べ伝えようとします。しかし、キリスト者に対する迫害の規模が一段と厳しくなる一方です。今後そのような状況に大切な弟子たちがおかれることを知っておられたイエス様は、弟子たちに対して、ご自分が共におられない中でも、どのように神様とイエス様に忠実に生き、人々に誠実に仕えるかを教えようとされます。

 

35節に「それから、イエスは使徒たちに言われた。『財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したものがあったか。』 彼らが、『いいえ、何もありませんでした』と言」ったとあります。イエス様は過去の伝道旅行を振り返らせます。弟子たちの「いいえ、何もありませんでした」という言葉を他の言葉で言い換えますと、「すべての必要は神様によって満たされました」というようにもなります。不思議なほどまでに、弟子たちの伝道旅行はすべて満たされたのです。彼らは旅の中で、神様が自分たちといつも共におられることを確信したでしょう。

 

しかし、そう彼らが答えますと、36節でイエス様は、「しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい」とお命じになります。9章と10章で命じられてきたことの真逆のことをお命じになります。何故でしょうか。迫害が始まるからです。弟子たちの主張・真実はイエス様が十字架に架かって死なれたけれど、甦られたということです。しかし、祭司長たちの主張はイエスの亡骸を弟子たちが盗み出したということです。混乱と迫害の時代を迎え、エルサレムを離れることを余儀なくさせられる者がたくさん出てきます。自給自足で歩まなければならない時代が来る。厳しい迫害に対して、自分の身は自分で守らなければならない時が来るからということを暗示させているとも聞こえます。

 

「しかし今は」という言葉は、弟子たちをこれからの厳しい現実に向き合わせるイエス様の言葉に聞こえてきます。キリスト者にとって厳しい迫害の時代が始まることを暗示しています。そういう中で、剣を護身用として持っていなさいとも聞こえますが、果たしてそうでしょうか。確か、剣を持つ者は、剣で滅びるのではなかったでしょうか。

 

37節に「言っておくが」とありますが、これは「大切なことを今からあなたがたに言っておくが、これから起こることは旧約の時代に預言されていたことなのだ」という意味だと思います。イエス様は、「『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する。わたしにかかわることは実現するからである」と弟子たちに言われます。この短い一節の中に、「実現」という言葉が2回記されています。神様の言葉が実現する時が到来した、神が御心を行われるということが強調されています。

 

「その人は犯罪人の一人に数えられた」と預言されているのは、イザヤ書53章12節にある言葉です。「彼(キリスト・イエス)は自らをなげうち、死んで、罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのはこの人であった」とあります。イエス様の時代の600年以上前に神様が約束されたことが、これから実現し、現実となってゆく、そういう中で、今回の命令が弟子たちに出されるのです。

 

イザヤ書53章は、イエス・キリスト(メシア)の贖いについて預言されている箇所ですが、ユダヤ人たちは自分たちのメシアが苦しみを受けて死ぬはずは決してないと信じるので、この53章を読むことはありません。しかし、この53章に記されていることが神様のご計画・御心であり、イエス様を通して、ユダヤ人だけでなく、すべての異邦人、すべての民族に救いが及ぶということが憐れみの中で約束されているのです。

 

イエス様の言葉を聞いた弟子たちは、38節で、「主よ、剣なら、このとおりここに二振りあります」と答えたとありますが、その言葉に対してイエス様は「それでよい」と言われたと記されています。しかし、このイエス様の「それでよい」という言葉は、剣をもって自己防衛・反撃しても良いと暴力を肯定したものではなく、弟子たちの単純さ、思慮の足りなさ、イエス様の言葉を理解できないことに呆れられたことを表している言葉であると考えられます。

 

この後の22章47節から53節のお話になりますが、イエス様を捕らえようとして来た群集の一人を弟子の一人が剣で切り付けて、その耳を切り落としてしまう事件が起きます。しかし、イエス様はすぐさまその耳を元に戻して癒すという救いの業が記されています。イエス様は人を傷つけることに反対です。しかし、それでもわたしたち人間は間違いを繰り返し犯します。

 

ここでイエス様がわたしたちに持つべき「剣」として示されるのは鉄製の剣ではないとわたしは考えます。口から出る愛のない言葉、配慮のない言葉、憎しみを込めた言葉もすべて剣になって人の心に深い傷を負わせます。人の命をも奪うことがあります。

 

イエス様が「剣を持ちなさい」と言われたのは、鉄製の剣ではなく、イエス様の言葉を剣として持ちなさいということだと思うのです。イエス様の言葉をもって悪の力と向き合い、戦い、勝利するのです。イエス様の言葉がわたしたちに勝利と平安と希望、救いを与えてくださるのです。心にイエス様の言葉を蓄えましょう。そうしたら、その都度、必要な時に、聖霊がイエス様の言葉を思い出させ、真理へと導いてくださるのです。