ルカ(119) 捕らえられ、否まれるイエス

ルカによる福音書 22章54〜65節

前回の学びでは、イエス様がユダに裏切られ、群衆がイエス様を捕られる直前の部分に聴き、イエス様の三つの言葉に聴きました。それは、イエス様が裏切るユダへ直接語られた言葉、剣を手に持つ弟子へ直接語られた言葉、捕らえに来た祭司長たちへイエス様が直接語られた言葉です。

 

イエス様は、捕らえに来た人々に「今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている」と言い放ちます。イエス様が捕らえられ、十字架で死なれ、死に勝利して復活されるまでの時間、サタンの力を得た人々の思惑どおりに事がすべて進む「闇の時」が続きます。それは、神の御子が捕らえられ、暴力と不当な扱いを受けた時間、呪いの木と呼ばれた十字架に付けられて苦しんだ6時間、「わたしは渇く」と言われて死を迎えた時間、黄泉に降った時間、そして父なる神様によって甦るまでの時間です。

 

わたしたちの「時間」の感覚、また時間の概念だけでは決して捉えることのできない苦悩、わたしたちには決して耐えられない恐怖・苦痛をイエス様がわたしたちに代わって負ってくださり、苦しみを味わわれるのです。それはすべて、わたしたちを罪と死から救うためです。このような犠牲を払うことは、愛がなければできない行動・行為です。

 

わたしたちが決して忘れてはならないのは、イエス様の受難は、イエス様が愛する二人の弟子たち、イスカリオテのユダの裏切りとシモン・ペトロがイエス様を知らないと否むことから始まったという事実です。イエス様によって選ばれ、愛され、弟子として訓練され、イエス様を愛して従ってきた者が、イエス様を裏切るのです。今まで一緒に過ごしてきた日々はいったい何であったのかと思わされるほどに悲しい裏切り、背信行為です。

 

しかし、彼らの裏切り、否定は、わたしたちにも同じ間違いを犯す弱さがあることを示すものです。イエス様を裏切り、イエス様から離れる危険性がわたしたちにも常にあることを心の隅に置いておく必要があると思います。そういう弱さがあるので、イエス様に寄りすがって生きることをわたしたちは知り、イエス様にしがみついて生きるべきなのです。

 

イスカリオテのユダのように、自分の間違いと弱さに幻滅し、失望の中で自らの命を取ること・死を選び、完全に自分をイエス様から引き離すか、それともペトロのように、イエス様の憐れみを受けて、赦されて、再出発のチャンスが与えられ、心から主の教会に仕えて生きてゆくか。ユダとペトロは、わたしたちがイエス様に従うときに必ず遭遇する悪の力とどう対峙するか、誘惑に負けた時にどうすべきかを教えてくれる反面教師なのです。

 

もう一つ覚えておくべきことは、このような悪の力が支配しているように見える時・状況でも、神様のご支配があるということ、神様にはもっと大きなご計画があるということです。その大きな計画とは、わたしたちの罪の代価を払い、わたしたちを救うためにイエス・キリストの受難と贖いの死、そして復活です。詩編22編やイザヤ書53章に記されている神様の犠牲と愛の業が成就するためであったのです。神様の愛の力に勝つ力は、この世には存在しないのです。

 

さて、今回の箇所は、イエス様が捕らえられ、大祭司の家で尋問が始まる所です。54節に、「人々はイエスを捕らえ、引いて行き、大祭司の家に連れて入った。」とあります。マルコやマタイと違って、ルカは弟子たちがイエス様を置いて逃げ去って行った事実を省略し、ペトロのイエス否認にスポットライトを当てます。イエス様が大祭司の家に連れて行かれて入る様子をペトロは遠くから見て、彼も屋敷の中庭に入ってゆきます。

 

ペトロは、イエス様との最後の食事の時、イエス様が自分に対して、「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた」と言われた際、「主よ、ご一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と豪語した人間です。自信たっぷりにそう言い放ったと思います。ペトロは、一番弟子として良いこと、かっこいいことを言ったと自分に酔いしれたでしょうか。

 

しかしそれが、「ふるいにかけられる」という事なのです。ふるいにかけられるのは、外からかけられる外圧とは限りません。内側の心の傲慢さによっても、わたしたちの信仰心はふるいにかけられるのです。同じように、教会がふるいにかけられる時、それは外に原因があるとは限らずに、教会の内側に取り組まなければならない課題・問題がある場合もあります。ですから、いつも謙遜に、主の助けを求めつつ、自分と正直に向き合い、自問自答すること、正しい答えを神様から頂くために御言葉に聞いてゆくことが大切です。

 

聖書には記録されていませんが、もしかしたら、ペトロは自意識過剰すぎたのかもしれません。しかし、そういう驕りや慢心がイエス様の次の言葉、「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」との言葉を心に留められなかったのかもしれません。そういうことも覚えておく必要があるかと思います。

 

さて、イエス様は大祭司の家の中に連れてゆかれます。それは事柄をなるだけ秘密裡にする意図があったからかもしれません。悪事というのは、いつも人の目が届かないところで密かに行われる、そういうことを暗示しているのかもしれません。

 

55節を読みますと、遠く離れてでもイエス様の後に従ったペトロは、「人々が屋敷の中庭の中央に火をたいて、一緒に座っていたので、彼もその中に混じって腰を下ろした。」とあります。紛れ込んだのか、忍び込んだのか、誰かに便宜を図ってもらったのか。とにかく、彼は中庭に入り、人々に混じって腰をかけます。

 

パレスチナは、春先でも冷え込むので火を焚くのは不思議なことではないでそうですが、56節を読みますと、「するとある女中が、ペトロがたき火に照らされて座っているのを目にした」とあります。ここに「焚き火」とあるギリシャ語は「光」と訳せる「フォース」という言葉が使われています。

 

この光に照らされているペトロの顔を祭司長の家の女中が目にし、「じっと見つめ、『この人も(イエスと)一緒にいました』と言った」のです。ペトロの顔を照らしたのは誰でしょうか。他でもない神様です。それではいったい何のためでしょうか。それは、女中にペトロをじっくり見させ、「この人もイエスと一緒にいました」と言わせ、そこからペトロがイエス様を否むことにつなげるためです。

 

「光」というのは、わたしたちの強さだけでなく、弱さも見せつけます。人に見せびらかして自慢したい部分だけでなく、見られたくない部分もあからさまにします。ですから、わたしたちは光の中に出ることを避けてしまうことが多々あります。しかし、人には隠せても、神様には隠せないのです。神様はすべてをご存知です。

 

ですから、自分の弱い部分、隠したい部分を神様の御前に携えて行って、「神様、わたしの弱さをお委ねします。弱さを取り去り、新しい強さを与えてください」と祈り求めることが重要です。そうする中で、わたしたちは自分の弱さをそのまま受け入れ、その弱さが強さに変えられて、用いられるという不思議な体験と機会が与えられるのです。

 

主の光に照らされて自分の弱さを見せつけられても、その弱さに踏み止まろうとすると、わたしたちは自分の心に嘘をつくことになります。イエス様の愛と期待を裏切り、自分を裏切ることをしてしまいます。ペトロはイエス様を知っていますし、愛していますし、尊敬しているのに、自分の身に危険が迫るとき、その危険から自分と命を守るために「わたしはあの人を知らない」と真実を打ち消してしまうのです。

 

58節、「少したってから、ほかの人がペトロを見て、『お前もあの連中の仲間だ』と言うと、ペトロは、『いや、そうではない』と言った。」とありますが、女中の鋭い指摘の後にとっさに自己防衛力が発揮されてイエス様を否みますが、その最初の否定から少し時間が経過する中で、自分の間違いに気付き、自分の弱さを悔いたかもしれません。そういう中で、ペトロの心は、自己嫌悪、自己反省などで激しく揺れ動いたと思います。

 

それからさらに1時間が経過します。とてつもなく長い時間、窮屈でいたたまれない時間をペトロは過ごしたのではないかと思います。わたしであれば、「ちょっとトイレに行ってきます」と言って、その場を忍び足で離れ、逃げ去ると思います。しかし、何故ペトロはそこに留まり続けるのでしょうか。彼らはそこを離れる勇気もなく、イエス様のことが心配であったからではないかと思います。

 

続く59節と60節前半に、さらに「一時間ほどたつと、また別の人が、『確かにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから』と言い張った。だが、ペトロは、『あなたの言うことは分からない』と言った。」とあります。ペトロがガリラヤからの者であるのが分かったのはガリラヤの方言があったからだと思われます。

 

ユダヤ社会では女性の証言は信頼できないとされますが、二人の男性がペトロを見て「イエスの仲間だ」と言い放つ時、ペトロがそれを2回とも否むことに法的有効性が生じます。しかし、それでもイエス様を知らないと否認するのは、イエス様を愛する思いがペトロに確かにあっても、やはり危険が生じる時、自分の身を第一にする、そのような弱さがペトロにあり、わたしたちにもあることを示していると思われます。

 

さて、イエス様を否む言葉は、イエス様との関係性・つながりを切ってゆくものです。「わたしはあの人を知らない」は、イエス様を否認する言葉です。「いや、そうではない」は自分の身元・アイデンティティーを否定することです。「あなたの言うことは分からない」は、イエス様との関係性を完全に否定することです。

 

しかし、ここからが神様の素晴らしいところです。ペトロがそう言い終わらない前に、「突然鶏が鳴いた」とあります。間一髪セーフというタイミングです。61節に、「ペトロは、『今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」』と言われた主の言葉を思い出した」とあります。これはペトロをイエス様につなぎ止めておくための神様の処置であったように聞こえます。

 

61節の最初に、「主は振り向いてペトロを見つめられた。」とありますが、祭司長の家の中に居られるイエス様が実際にペトロを見つめられるのはできません。ですから、イエス様が振り向いてペトロを見つめられたというのは、イエス様の愛、神様の憐れみの本質を表す言葉であると考えられます。つまり、先ほども言いましたように、ペトロに悔い改めへと導き、イエス様に寄りすがるチャンスを与えるための神様の配慮を示すものです。

 

ここには、自信過剰な者、弱さを持つ者をそれでも愛してくださり、赦してくださり、神様の御用のために用いようとされる神様のご計画があることを示していると思います。イエス様の愛の眼差しを思い出したペトロは、自分の犯した間違い、自分の弱さに気付かされ、激しく泣き、悔い改めへと導かれてゆきます。

 

63節から65節では、イエス様が暴力を受け始めることが記されています。「さて、見張りをしていた者たちは、イエスを侮辱したり殴ったりした。そして目隠しをして、「お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と尋ねた。そのほか、さまざまなことを言ってイエスをののしった。」とあります。イザヤ書50章6節、53章3節の言葉が成就します。イエス様の御苦しみは、わたしたちを救うためであったことをいつも覚えながら歩みましょう。インマヌエルのイエス様が伴ってくださいます。