ルカ(120) 最高法院で裁判を受けるイエス

ルカによる福音書22章66節〜71節

ルカ福音書22章の最後の部分です。イエス様の木曜日の長い夜が明け、金曜日の夜明けを迎えます。イエス様は、午後3時頃に十字架上で息を引き取られます。インターネットで調べてみますと、パレスチナの春頃の夜明け時間の平均は午前6時ですので、イエス様の命はあと9時間という計算になります。

 

イエス様は、闇の力の支配下に置かれ、苦しみを受けられます。ユダに裏切られ、ペトロに否まれ、群衆に捕らえられ、見張り番やローマ兵たちから暴力と屈辱を受け、茨の冠を被せられ、十字架の横木を担わされてゴルゴタ(されこうべ)の丘へと、ご自分の死へと向かわれます。人生の最悪の終わり方ではないでしょうか。

 

しかし、それはすべて、わたしたち罪人の罪を贖うため、罪の代償をすべてイエス様が肩代わりして支払って、罪と死からわたしたちを解放して自由を与え、救いを与えるためです。それ以外の目的・使命はイエス様にはありません。すべて、わたしたちの救いのためなのです。そのことを思うだけで心がもう一杯になります。本当に申し訳ない思い、悲しい思い、悼む思い、そして感謝が入り混じります。

 

ですから、イエス様がわたしたちの身代わりとなって受難を受けられるルカによる福音書の22章と23章の部分を真剣に捉え、イエス様の言葉に耳をしっかり傾けて聴いてゆく必要があります。それが神様の御心、イエス様の願いだと思います。

 

4つの福音書(Mマタイ,Kマルコ,Lルカ,Jヨハネ)に記録されている受難の物語を並行して読んでゆきますと、イエス様はユダヤ教の裁判を3回、ローマの裁判を3回、合計6回も受けられ、たらい回しにされます。

 

1)現大祭司カイアファの姑で前の大祭司アンナス(J)→2)大祭司カイアファ(M,L,J)→3)ユダヤ最高法院 (K,L)→4)ピラト(L)→5)ヘロデ(L)→6)ピラト(M,K,L,J)という順です。ルカ福音書だけが6つの裁判のうち5つを記録しています。

 

しかし、これらは正式な裁判とは言えません。ルカ22章2節を読めば、もうそこでイエスは死刑という「判決」、シナリオがユダヤ教リーダーたちによって決まっていたからです。これらはイエス様の正体を暴く場、偽証や暴力を用いてイエス様を死刑へと導く自白させる場であったわけです。

 

ここで少しだけユダヤ教の情報をお伝えします。ユダヤ教には「トーラー・律法」以外に、「ミシュナー」というユダヤ教指導者ラビによって行われたトーラーに関する注解や議論を集成した文書、モーセ五書に次いで重要とされる本がありますが、そこのサンへドリン4・1という箇所に、次のように明記されています。この情報を知らせる目的は、そのような重要とされる書物「ミシュナー」に明記されていることを当時のユダヤ教指導者たちは完全に無視をして、イエス様を死刑にしようとした事実を明確にすることです。

 

サンへドリン4・1「死刑以外の事件では、昼間に審問して、判決は夜間に下してもよい。死刑の事件では、審問を昼に行い、その判決も昼間に下さねばならない。死刑以外の事件では、判決は、無罪放免でも有罪宣告でも同じ日のうちに下してよい。死刑の事件では、無罪放免の判決は同日中に下してもよいが、有罪宣告は翌日まで下してはならない。したがって、安息日の前夜または祭日の前夜に審問しないがよい」と書かれています。

 

しかし、ユダヤ教指導者たちは、審問を昼ではなく、早朝に強行しました。死刑にする場合、有罪宣告は翌日まで下してはなりませんでしたが、即日宣告しました。安息日の前夜よりももっと遅い朝に裁判を強行して、自分たちにない死刑執行権を発動するようにローマ帝国の総督ピラトに迫ります。すべて、ミシュナーを完全に無視した違法行為です。それほどまでに、イエス様は彼らにとって脅威であったのです。どんな手を尽くしてでも命を奪わなければならなかった人物であったのです。闇の大きな力が支配する時であったのです。しかし、その闇の力を持ってしても、決して超えられない神様の救いのご計画があったことをわたしたちは知り、信じ、主の憐れみに感謝する必要があります。

 

前置きが長くなりましたが、記者ルカが最重要視する最高法院の裁きの中で出てくるイエス様の三つの尊称を今回は学んでゆきたいと思います。その三つとは、「メシア」、「人の子」、そして「神の子」です。

 

66節と67節前半に、「夜が明けると、民の長老会、祭司長たちや律法学者たちが集まった。そして、イエスを最高法院に連れ出して」詰め寄り、「お前がメシアなら、そうだと言うがよい」と言っている部分があります。「メシア」はヘブライ語で、ギリシャ語は「キリスト」になりますが、神の特別な任務を果たすために特別に選ばれ、特別に立てられた者という意味です。

 

ローマ帝国からすれば、そのような人物は反乱を企てる危険性のある人物ですから、放置しておくことはできません。「お前がメシアなら、そうだと言うがよい」というのは、ローマ帝国に訴える証拠を引き出し、自分たちに変わってローマ帝国にイエス様を処刑させる罪状を得るための誘導尋問でした。

 

しかし、イエス様は、67節後半で「わたしが言っても、あなたたちは決して信じないだろう」と言われます。このイエス様の言葉にどのような意味があるのでしょうか。答えは、イエス様のことを「メシア」と呼ぶのは、イエス様を救い主と信じる信仰者たちだけであるということです。

 

例えば、9章18節から20節の場面です。「イエスは、『群衆はわたしのことを何者だと言っているか』とお尋ねになった。弟子たちは答えた。『「バプテスマのヨハネ」と言っています。他に、「エリヤだ」と言う人も、「だれか昔の預言者が生き返ったのだ」と言う人もいます。』イエスが言われた。『それではあなたがたはわたしを何者だと言うのか』ペトロが答えた。『神からのメシアです。』」と呼びます。

 

つまり、イエス様をメシア・キリストであると言うのは、必ず信仰者なのです。イエス様を救い主と信じる者が、イエス様に対して信仰を告白する場面にのみ使われます。イエス様が自分に対して信仰を告白すると言うのはおかしな話です。「メシア」と呼ぶのは、イエス様を信じる者だけの特権、特別な恵みなのです。

 

ユダヤ教指導者たちは、イエス様に対する憎しみはあっても、イエス様を神から遣わされたメシアであると信じる信仰心はありません。そのようなイエス様に対する憎しみ・殺意しかない人にイエス様が何を言っても、彼らは信じないので、イエス様は何も答えられないですし、68節にある「わたしが尋ねても、決して答えないだろう。」と言うのは、指導者たちにイエス様がメシアかと質問したとしても彼らは決して答えないという意味で捉えることがベストだと思います。

 

イエス様がご自分のことを呼ぶ時、必ず「人の子」と呼ばれますが、これはご自分が父なる神様から特別な使命を委託され、遣わされたことを示す呼び名であるからです。69節でも、「今から後、人の子は全能の神の右に座る。」とありますが、「今から後」とは十字架の贖いの死を超えられ、復活され、神様の御許へ迎えられることを指しています。

 

70節に、「そこで皆の者が、『では、お前は神の子か』」と言ったとありますが、主イエス様は「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている。」とすぐに返します。「あなたたちが言っている」が重要です。イエス様は、ご自分のことを「神の子」と呼んだことは一度もありません。

 

イエス様は、神様のことを「父」と呼びます。例えば、ルカ10章21節と22節です。「そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。『天地の主である父よ、あなたをほめ讃えます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。全てのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに、子がどう言う者であるかを知る者はなく、父の他に、子がどういう者であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、誰もいません』とあります。

 

新約聖書では、イエス様のことを「神の子」と呼ぶのは、天使と悪魔・悪霊です。ルカ4章3節と9節と41節、そして8章28節では、悪魔がイエス様の力に屈服する時にそう呼んでいます。神様からの啓示の場合、御使によるマリアへの受胎告知(1章35節)、ペトロたちの目の前でイエス様の姿が変わった時に天から声があった時(9章35節)では、神の子に聴き従うように要求がなされています。

 

すなわち、イエス様を神様から遣わされた「神の子」、「御子」と信じる者は、畏れと感謝をもって、イエス様の言葉に聞き従うことが求められているのです。

 

71節に、「人々は、『これでもまだ証言が必要だろうか。我々は本人の口から聞いたのだ』と言った。」とあります。「人々」とは、もう言うまでもない、イエス様を殺してしまいたい宗教指導者たちです。初めからイエス様を総督ピラトに引き渡そうとしていた彼らは、安息日開始まで時間のない中、イエス様の証言がないのに、イエスが証言したと偽証を始めます。この機会に何が何でもイエス様を自分たちの生きる社会から抹殺したい人々は、23章2節からも続きますが、まっ赤な嘘の証言をし始めるのです。闇の力が支配する時というのは、こういう悪の意の赴くままにすべてが進められてゆく、最低最悪の期間なのです。

 

わたしたちにできることは、「それでもの神様」により頼むことです。それでも、神様にはもっと大きなご計画がある、救いのご計画があると信じること、イエス・キリストにおいて希望を絶対に捨てないことです。すべてを主に委ねて、主に向かって前進するために必要なのは、信仰者が共に集まり、共に聖書の御言葉を読み、そして共に祈ってゆく、手と手をつないでイエス様に従い続けるということ、それ以外にありません。

 

次回から、イエス様の十字架へと続く23章に入ります。