ルカによる福音書23章26節〜31節
木曜日の晩の逮捕から何度もたらい回しにされた裁判が終わり、金曜日の早朝を迎えます。この間の出来事に関わった人たちにとって、非常に長い夜が終わりました。ユダヤ教指導者たちの思惑のままに煽動された群衆の「イエスを十字架につけろ。この男を殺せ。バラバを釈放しろ。」という狂気の叫びがその場の空気に勝利し、最初は鞭打ちだけで釈放したかった総督ピラトも根負けし、イエス様をユダヤ教指導者たちに引き渡します。
引き渡すということは、ローマ帝国の極刑であった十字架刑を許可したということです。一人の人の命が、その場の力の数だけで、その場の空気だけで決まってしまうのです。なんという恐ろしいことでしょうか。こういうことが今の時代にも起こっているのです。独裁主義はもってのほかですが、それとは違った民主主義にもまた違った他の危うさがあるのです。しかしながら、そのような人間の身勝手な思いを遥かに超えた中で、人類救済の大きな計画が神様によって進められていたことを覚える必要がわたしたちにあるのです。
ピラトはイエス様を憎むユダヤ人たちにイエス様を「引き渡して、好きなようにさせた」とありますが、イエス様を引き渡されたユダヤ人たちは、イエス様に対してどのようなことをしたのでしょうか。マタイ福音書27章とマルコ福音書15章によれば、引き渡される前にイエス様はピラトの支配下で鞭打たれ、ローマ兵たちから暴力を受けられたとあります。茨の冠を被せられ、「ユダヤ人の王、万歳」と愚弄され、葦の棒で何度も頭を叩かれ、唾を吐きかけられて侮辱されたとあります。
ルカ福音書23章とヨハネ福音書19章には具体的なことは記されていませんが、憎き宿敵を引き渡された祭司長たちは、どのような好き勝手をイエス様にしたのでしょうか。彼らの中でいろいろな感情が渦巻いたと思いますが、彼らの目的はただ一つ、イエス様を十字架にかけて息の根を止めることでした。しかし金曜日の日没からユダヤ教の安息日が始まってしまいます。時間がありません。彼らにとって律法厳守はmustです。日没前までに絶対に方を付けておきたかった。ですから、それ以外の事はすべて自粛したのでしょう。
さて、新共同訳聖書では、26節から43節が一括りになっていて、「十字架につけられる」という小見出しがつけられていますが、26節から31節までは十字架への道を歩まれるイエス様のことが記され、それ以降の32節からは十字架に付けられることが記されていますので、今回は26節から31節の部分のみについて分かち合いをしたいと思います。
26節に、「人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。」とあります。本来は、囚人が十字架の横木を刑場まで担がされたそうですが、人々はキレネ人シモンに十字架の横木を強制的に背負わせたとあります。そこには二つの理由があったと考えられます。
一つは、木曜日から眠ることなく裁判で引き回され、暴力と侮辱をずっと受けてこられたイエス様が体力的に担ぐ力が無かったということです。もう一つの理由は、先ほど触れましたように、安息日開始までに時間が無かったということです。一刻も早くイエス様を十字架に架けて息の根を止めて、自宅に戻って家族と安息日を過ごしたかったのだと思われます。しかし、どうでしょう。神様から遣わされたメシア・救い主を保身のために身勝手に殺しておいて、その後に神様を礼拝し、神様に集中するという、もう無茶苦茶です。
キレネ人シモンに関して福音書には多くは記されていませんが、キレネは北アフリカ、現在のリビアの沿岸にあったキレナイカ(Cyrene)地方の首都として栄えた港町で、そこにはユダヤ人の居住区があり、シモンはそこに住んでいたユダヤ人であったようです。ですから、過越の祭り(仮庵の祭り)を祝いにエルサレムに上って来ていたのだと考えられます。しかし、強制的にイエス様の十字架を担がされました。しかし、その出来事が十字架にイエス様が架けられる場所へと導かれることになり、イエス様の苦しまれる姿を目の当たりにし、結果的にイエス様を救い主と信じるきっかけとなったようです。
マルコ15章21節には、彼は「アレクサンドロとルフォスとの父で」あるとあります。ローマ書16章13節には、この二人の息子のうちのルフォスとその母、つまりシモンの妻は、後にクリスチャンとなってローマの教会で仕えたと伝えられています。シモンは十字架の横木を無理やり担がされましたが、その試練を通して家族が救われてゆき、ローマ教会で働くことを通して、神様とイエス様に仕えることができたことは、大きな恵みであったと思います。試練を通してイエス様に出会わされ、イエス様を救い主と信じる人も確かにおられます。ですから、試練にも意味があることを覚えたいと思います。
もう一つの注目点は、シモンが十字架の横木を無理やり担がされた時、彼の前をイエス様が歩まれたということです。ルカだけがそのことを記しています。つまり、こういう事が考えられます。わたしたちが理不尽な扱いで試練に直面していても、わたしたちの救いのために、ご自分の命を十字架で捨てようとしてくださっているイエス様が目の前を歩いておられていて、このイエス様だけを見つめて従う中で、神様の真の愛を体験でき、苦しみから解き放たれるということです。試練に遭っても、常にイエス様を目の前に置いて従ってゆくことが大切だとここから示されますが、皆さんはどうお感じになるでしょうか。
さて、27節に、「民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエスに従った。」とあります。民衆とはイエス様に好意を持つ人たちです。嘆き悲しむ婦人たちとは、ガリラヤからずっとイエス様に従って来た女性の弟子たち、そして母マリアもその中にいたということが他の福音書からも考えられます。民衆と女性たちは、嘆きと悲しみの中で、それでもイエス様に「従った」のです。まだどのような悲しみが襲いかかってくるかも分からない中で、従うのです。
彼女たちの嘆きは、旧約聖書のゼカリヤ書12章10節(p1492)に記されている預言の成就だと考えられます。そこには、「わたし(神)はダビデの家とエルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ。彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者であるわたし(イエス)を見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ。」とあります。この箇所で注目すべきは、「彼ら自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ」という部分です。
しかし、この人たちはイエス様が十字架に架けられて殺される意味、本当の真意をどれだけ理解して従っていたでしょうか。そして、わたしたちも、どれだけその真意を理解しているでしょうか。嘆き悲しんでいたのは、イエス様がこれから十字架に架けられて惨たらしい死を迎えるということへの嘆きであったと思いますが、そのイエス様の死の原因が自分たちの罪にあることをどれだけ理解していたでしょうか。わたしたちはどれだけ自分の罪のためにイエス様は十字架に磔になったと理解し、心を痛めているでしょうか。どこか他人事のようになってはいないでしょうか。
そのような人々、わたしたちに対して、28節で、イエス様は振り向かれて次のように言葉をかけます。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。」とあります。ガリラヤからずっと従ってきた女性たちに「エルサレムの娘たち」と呼ぶのはおかしなことです。ですから、ここでイエス様が「エルサレムの娘たち」と呼んでいるのは、エルサレム全体に向かって言われていることで、その内容は「自分と自分の子供たちのために泣け」ということ、それはつまり自分のこれまでの罪・弱さ・間違いを認め、心から悔い改めなさいという警告であり、改心への勧告なのです。
親が心から悔い改めれば、変えられた親を子どもは見て親と同じように悔い改めるように導かれるのです。わたしが悔い改めて変えられたならば、周りの人もイエス様に出逢って、神様の愛に触れ、そして悔い改めへと導かれ、救いへと招かれるのです。イエス様が自分に代わって十字架の道を歩んでくださって、十字架でわたしたちの罪の代価を支払ってくださった、贖ってくださったことを信じること、それが悔い改めへとつながり、家族や周りの人々がみんな悔い改めて救いを得てゆくことにつながるのです。それはわたしたちの業や努力ではなく、ただ神様の憐れみの力、慈しみの業によるのです。
イエス様は、29節で、「人々が、『子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来る。」と言っておられますが、これはエルサレムの滅亡の予告で、ルカ19章44節でもすでに予告されていることでもあります。これは、旧約聖書のホセア書9章11・12節と16節でも預言されています。9章11節と12節には、「エフライム(イスラエル)の栄えは鳥のように飛び去る。もう出産も、妊娠も、受胎もない。たとえ、彼らが子供を育てても、わたしがひとり残らず奪い取る。彼らからわたしが離れ去るなら、なんと災いなことであろうか」とあり、16節も同じような内容です。
神様のみ前に悔い改めることがどれだけ重要であるかをイエス様は十字架の道を歩まれる最中ですべての人々に対して訴えるのです。イエス様は、すべての人が悔い改めて神様に立ち帰り、神の子とされ、神の国に招かれ、そこで永遠に生きるために、わたしたちの身代わりとして十字架の苦しみと死を受けられるのです。そこまで自分をささげてくれる人がこの地上にいるでしょうか。神様の愛とイエス様の愛がそれを可能にするのです。
30節と31節にもイエス様の言葉が記されています。「そのとき、人々は山に向かっては、 『我々の上に崩れ落ちてくれ』と言い、 丘に向かっては、 『我々を覆ってくれ』と言い始める。『生の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』はいったいどうなるのだろうか。」 とあります。これは先程と同じホセア書の10章8節の預言をイエス様が引用し、これでも悔い改めない人たちへの神様の厳しい裁きを表しています。
自分たちの罪・これまでの自分たちの悪行が原因で滅びが近づいているのに、最後は山に向かって「我々の上に崩れ落ちてくれ」と言ったり、丘に向かって「我々を覆ってくれ」と言い始める。つまり、滅びの原因は自分たち自身にあるのに、加害者であるのに、最後は自然災害による被害者として死にたいと都合の良いことを願うというのです。罪にあるわたしたちは、本当にご都合主義で身勝手なのです。神様を畏れない者なのです。そういう人たちは滅びるべきでしょうか。いいえ、違います。わたしたちが悔い改めて神様に立ち帰るために、イエス様はこの世に来てくださり、現在進行形で、十字架の道を歩んでおられることを覚える必要がわたしたちにあると思います。そのために、このような厳しい裁きがあることを言ってくださるのです。厳しい言葉にも愛があるのです。
イエス様は、最後に「『生の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』はいったいどうなるのだろうか。」と譬えを用いて人々に問いかけられます。これはイエス様が十字架に磔にされる前の最後の言葉であり、問いかけです。「生の木」とはイエス様のことです。つまり、罪のないイエス様がこのような苦しみに遭うのだから、ましてやイエス様を十字架につけて死刑にする人々は霊的にも、精神的にも枯れて死んだ状態であるから、そのような人々への裁きはどれほど厳しいことであろうかという意味の言葉として受け止めることができます。
しかし、このイエス様の言葉は、恨み辛みに満ちた言葉でしょうか。そうではないと思います。神様の裁きは厳しいものです。しかし、そこから逃れる道がある、それがわたしを救い主と信じる信仰の道だとイエス様はおっしゃり、救いへと招いておられるのではないでしょうか。イエス様は、ヨハネ福音書14章6節(p196)で、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父(神)のもとへ行くことはできない」と言われました。イエス様が神様へつながる道であり、神様の愛・純愛を正確に示す真理であり、永遠の命へと導く権威のある救い主なのです。そのお方が、わたしたちの救いのために十字架へ付けられる目前・寸前で、「わたしを信じなさい」と招かれるのです。