ルカによる福音書23章32節〜38節
前回の学びでは、祭司長たちに扇動された群衆の「この男を殺せ。十字架につけろ。」という叫び声が勝ち、根負けしたローマの総督ピラトから死刑の判決を受けたイエス様が十字架刑に処せられるために刑場への道を歩まれた箇所に聴きましたが、今回は、その後イエス様が刑場に着き、ローマ兵たちによって十字架につけられる箇所になります。十字架に「つけられる」という言葉は、あまりにも優しく聞こえる言葉で、正確には太い釘で「磔にされる」という非常に酷い、心がえぐられるような言葉が正しいのです。
さて、32節には、「ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。」と記されています。ローマ帝国では、面倒なことは一度にまとめて片付ける習慣があったようで、処刑の場合も同様で、何人もの囚人を一度にまとめて処刑することが常であったようです。イエス様だけが十字架に磔にされるのではなく、あと二人の死刑囚が同時に十字架刑に処せられることになっていました。
ルカ22章37節に記されているイエス様の言葉ですが、弟子たちとの最後の晩餐を終えた後、イエス様は弟子たちに対して、「言っておくが、『その人は犯罪人の一人に数えられた』と(イザヤ書53章12節に)書かれていることは、わたしの身に必ず実現する。わたしにかかわることは実現するからである。」と自らの死の予告をされました。この「その人は犯罪人の一人に数えられた」というイザヤ書の神様の言葉とイエス様の予告がこれから成就しようとしています。
33節に、「『されこうべ』と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。」とあります。その場所が何故「されこうべ」と呼ばれたのかは不明ですが、エルサレムの城壁の外にあった処刑場です。名前通りに本当に頭蓋骨が転がっていたわけではありません。この場所は、ヘブライ語では「ゴルゴタ」、ラテン語では「カルバリ」と呼ばれる場所です。
そこで大勢の囚人が処刑されてきたわけですから、普段は人が近寄らない薄気味悪い場所です。十字架は「呪われた木」と呼ばれていましたから、そのような呪いに満ちた場所、汚れた場所にユダヤ人たちは行きません。宗教上、汚れるのをユダヤ人は極端に嫌うからです。わたしたちとて、そのような場所は極力避けるわけです。しかし、神の御子イエス・キリスト、救い主はそのような場所で十字架に磔にされました。朝の9時ごろです。
福音書の記者ルカは、イエス様が十字架に磔にされる瞬間、太い釘で両手首と両足が十字架に打ちつけられる場面、釘付けにされる際のイエス様と囚人たちの激しい痛みに対する叫び声、喘ぎ声、そして十字架がその場に立てられる場面などを省略します。言葉では決して表現できない凄まじさ、残酷さがあったからでしょうか。ルカは、そういうことを省略ししますが、34節と35節では「人々(兵士たち)はくじを引いて、イエスの服を分け合った。民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑った」という言葉を記します。その場にいた人々とその人々の言葉と行動にスポットライトを当てるのです。
囚人の衣服をくじ引きしてまで分け合うということに当時の人々がいかに貧しい生活をしていたかが反映されていますが、それだけではなく詩編22編19節の「わたしの着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く。」という言葉の成就であると捉えることができます。
詩編22編やイザヤ書53章など、イエス様の受難が預言されている箇所が旧約聖書には多数ありますが、それらの預言、つまり神様の約束がイエス様によってすべて成就されてゆく様子を伝えることで、イエス様の十字架の死にはわたしたちの思いを遥かに超えた神様のご計画が確かにあること、わたしたちの罪の代価をわたしたちに代わって支払おうとしてくださっているイエス様の犠牲には意味と目的があることを伝え、その部分に集中させるために、十字架に磔にされるイエス様の様子が省略されていると捉えることが大切かと思います。
そういう中で、「そのとき、イエスは言われた。『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。』」という主イエスの祈りをルカは記します。神様の大きな救いのご計画、イエス様の十字架には人間の罪の贖いという意味と目的があることをまったく知らずに、イエス様の服をくじ引きで自分たちの物にしたり、嘲笑ったりすること、それはまさしく「自分たちが何をしているのか知らない」からの言動なのです。
そういう自分のことしか考えていない人たち、十字架につけた人たち、やっとイエスを始末したと心の中で喜んでいる人々のために、イエス様は「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と十字架上で祈られるのです。わたしたちも自分が御心に従って何をすべきかを知らないで生きていないかを問う必要があります。
ルカ6章27節で、イエス様は「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。」と言われ、同じ35節でも「しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。」、36節「あなたがたの父(神)が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」とお命じになりました。
ここにある「しかし」という言葉は大事な言葉です。たとえ理不尽な扱いを受け、耐え難い苦しみを負わされる中で、怒ること、反論・反撃する権利があっても、それでも悪に対して悪で立ち向かうことなく、悪に対して愛で向き合う、報いる。そのように軌道修正するのが、「しかし」なのです。イエス様は、十字架に磔にされ、言葉では表現できない大きな苦痛を味わう中で、死に直面する最中でも、自分を十字架につけた者たちのために神様の憐れみを祈られるのです。「あなたの敵を愛しなさい、祈りなさい」と言う、ご自分の言葉を愛と忍耐と祈りをもって実行され、弟子たちに、わたしたちに示されるのです。
35節に「民衆は立って見つめていた」とあります。イエス様のことを尊敬していた民衆(女性の弟子たち)は、心が張り裂けるほど痛んで悲しんでいたと思います。しかし、彼ら、彼女らはそこにただ突っ立っていた訳ではありません。イエス様のために何もできない、無力ではあるけれども、イエス様をずっと見守っていたのです。イエス様の苦しむ姿、十字架上で発せられる言葉を見聞きしていたのです。嘲弄する者たち、嘲笑する群衆を見て、目の前で現実に起こっていることすべてを脳裏に焼き付けていたのです。それらの記憶が、ルカを始めとする記者たちが福音書を記す時の大切な情報源となったのです。
イエス様が弟子たちに「目を覚ましていなさい」と言われたのは、現実に目を背けることなく、しっかりと事実・現実を直視し、記憶するため、後々にイエス様の十字架の意味と目的を証言するために目を覚ましていなさいと言われたのだと思います。
35節の後半に、「議員たちも、あざ笑って言った。『他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。』」とあります。36節と37節には、「兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。『お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。』」とあります。
ここに、議員たちの「もし神からのメシアで、選ばれた者なら」という言葉と兵士たちの「お前がユダヤ人の王なら」という言葉があります。彼らは、イエス様のことを「神からのメシア、神に選ばれた者」、「ユダヤ人の王」などと端から信じていません。イエス様をバカにするためにそういうのです。
イエス様を神様から遣わされたメシア・救い主と信じない人たちは、「他人を救ったのだ。自分を救うがよい。救ってみろ。」と言います。つまり、「しるし・証拠」を見せろと挑発するだけです。あのヘロデも、イエス様を尋問した時、何かしるしを行うのを見たいと望んでいたと23章8節にありました。イエス様を救い主と信じることは、しるし(徴)を見て信じることではありません。イエス様の十字架を直視し、その口から出る愛と配慮と権威ある言葉を聞いて、感動して、救い主として信じることなのです。
イエス様は、議員や兵士たちの挑発に乗りませんでした。挑発に負けませんでした。十字架から下りて、自分を救う力がイエス様になかったわけではありません。自分を救えたのです。しかし、自らを救わなかったのです。何故でしょうか。それは、自分の意志ではなく、神様のご意志を第一にする強さとわたしたちを愛する憐れみがあったからです。
自分が身代わりとなって十字架に死ななければ、罪に生きる人々、闇の中でもがき苦しみ、恐れや不安、虚しさの中に生きるわたしたちを罪から救うことができないので、イエス様は十字架に架かり続けることを選んでくださり、わたしたちを救うためにその命を十字架上でささげ、わたしたちに与えてくださったのです。
イエス様の犠牲は、わたしの救いのためであると信じること、自分はそれ程までに神様とイエス様に愛されている存在であることを知り、信じる中で、わたしたちは救われ、神様の愛と赦しの中で、新しい人へと造り変えられてゆくのです。そのことを喜び、感謝したいと思い、願い、祈ります。