ルカ(127) 墓に葬られるイエス

ルカによる福音書23章50節〜56節

過去6回にわたって聴いてきましたルカによる福音書23章の学びも、7回目の最終回となります。聖書では「7」は完全数ですから、イエス様の受難の部分を締めくくるのには良いのではないかと個人的に感じます。22章47節から始まったイエス様にとって人生で最も長い一日は、イエス様の「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」という大きな叫びで終わります。十字架の上で、神の子が息を引き取られ、死を迎えられたのです。

 

「呪いの木」と呼ばれていた十字架に磔にされたまま、イエス様は壮絶な死を迎えられました。イエス様の死は、何のためであったのでしょうか。それは、わたしたち人間の罪をイエス様がすべて負い、罪の代償をわたしたちに代わって支払ってくださり、わたしたちを「罪」とその報いである「死」から救うことにありました。ご自分の命と引き換えに、わたしたちを救うために、イエス様は十字架に架けられ、死んでくださった。すべてはわたしたちの救いのためでした。教会ではイエス様の「贖い」と言います。

 

イエス様の「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」という叫びは、詩編31編6節にある「まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます。」という言葉を叫ばれたと考えられています。十字架に6時間も磔にされるという大きな苦しみを耐え続けられたイエス様が死の間際にそう叫ばれた事には意味があると考えます。非常に重要な部分であると思いますので、まずこの部分からお話しをさせていただきたいと思います。

 

詩編31編の叫びは、「まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます。」というものです。しかし、イエス様の叫びは、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」というものです。基本的な違いは、詩人の「まことの神、主よ」と神様に呼びかけに対して、イエス様は「父よ」と呼びかけている点です。この呼びかけの違いから、イエス様は神の子であり、神様はイエス様の父であるという関係性がはっきり分かります。そして、そこには絶大な信頼関係があったということが分かります。

 

イエス様が十字架上で息を引き取られる寸前まで、神様とイエス様はすべてにおいて一つでした。完全につながっていました。しかし、イエス様がわたしたちの罪・汚れを背負って死ぬことによって、聖なる神様とイエス様の関係性は完全に切り離されることになりました。それは神様にとっても、イエス様にとっても、過去に経験したことのないことでした。愛する家族、あるいは愛する人と切り離されることは耐え難い痛み・悲しみです。

 

しかし、イエス様は「父よ、わたしの霊をあなたに委ねます」と言われます。ここにある「霊」というギリシャ語プネウマは「息」という意味もあります。これまでずっと神様と一つでいた過去も、現在も、切り離される今後を主に委ねます。つまり残してゆく弟子たちや家族をはじめ、救いの御業・救いの完成も、すべてを「お父さんに委ねる」という神様への信頼があります。

 

わたしたちが今日生きているのは、神様から息が与えられ、命が与えられているからです。この命は、わたしたちのものではなく、神様から授かっている賜物であり、神様からのプレゼントです。この命・息のある間は、それらを用いて神様に喜ばれるように生き、この地上での役目を終えて、今まで大切にしてきたものをすべて残して行かなければならない時はその一切を神様にお委ねしてゆく事しかわたしたちにはできませんし、これまでを感謝し、それ以降のすべてを神様にお委ねしてゆくことが重要です。

 

さて、今回の学びに移りましょう。イエス様が十字架の上で死を迎えられたのは、午後3時頃であったと44節から分かります。日没が6時と仮定しても、安息日の開始まであと3時間しかありません。54節を読みますと、「安息日が始まろうとしていた。」とあります。ギリシャ語の原文は、「安息日の夕べの星が輝き出していた」と訳せるそうです。皆さんには、夕暮れになってゆく空に一番星を見つけた経験はあるでしょうか。

 

イエス様の死を見届けた群衆が足早に自分の家や宿泊所に帰ってゆく光景が思い浮かびます。しかし、イエス様を十字架に磔にされたままにしておかない人が50節から登場します。それは、ヨセフという名の最高法院の議員でした。50節から51節を読みますと、彼は「善良な正しい人で、同僚の決議や行動には同意しなかった。ユダヤ人の町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいたのである。」とあります。彼は、イエス様を十字架に架ける運動に参加せず、決議に同意しなかった人です。最高議会のすべての議員が賛成したのではなく、反対した議員もいたという事実には大いに励まされます。

 

このアリマタヤのヨセフは、「神の国を待ち望んでいた」とルカは記しています。「神の国を待ち望む」ということはどういうことでしょうか。それは、神のご支配がこの地に臨むということを待ち望んでいたということです。彼は、最高法院の歪んだ権力・内部の人間の醜さを知っていたと思われ、傲慢な指導者たちの権力による支配下ではなく、神様の支配下の中で生きることを望み、その支配をもたらしてくれるのがイエス様だと信じていたのでしょう。あるいは、そこまで確信はまだ持っていなかったけれども、イエス様の十字架の死を目撃し、心が激しく突き動かされたのかもしれません。

 

52節と53節を読みますと、「この人がピラトのところに行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出て、遺体を十字架から降ろして亜麻布で包み、まだだれも葬られたことのない、岩に掘った墓の中に納めた。」とあります。イエス様の遺体を引き取れば、仲間ではないかと疑われ、人々から何を言われたり、されるかわかりません。しかし、彼は十字架に磔にされたイエス様の姿を見て、その言葉を聴いて、イエス様を信じる信仰がさらに強められたのだと思います。この方のために勇気を出して、今自分にできることにベストを尽くそうと決心したのだと思います。

 

「まだ誰も葬られたことのない、岩に掘った墓の中」にイエス様を納めたとありますが、死刑囚は重罪人でありますから、家族が引き取るということはごく稀で、死体置き場に野晒しにされることが多かったようです。しかし、ヨセフは、イエス様を「まだ誰も葬られたことのない、岩に掘った墓の中に」に葬ります。この事柄は、わたしたちに二つのことを示します。

 

一つは、イエス様は完全に無罪であったということを示します。罪のないイエス様にふさわしい墓として「誰も葬られたことのない」墓にイエス様の亡骸が納めされるのです。もう一つは、ヨセフの地位を示します。ユダヤ社会の中である程度の地位と財力がなければ、ピラトに直談判することもできませんし、岩を掘った墓を使用することはできなかったはずです。このヨセフのように、与えられている地位や財力をイエス様のためにささげてゆくことは神様の御心を行うことです。そのような時のために神様から与えられ、任されている地位や財力などすべてを用いることが謙遜な生き方であると感じます。

 

さて、このヨセフの取った行動から、イエス・キリストという存在は、わたしたち一人ひとりにとって、どのような存在であるかという問いかけに真剣に向き合い、考える機会が与えられていると思います。聖書には、イエス・キリストは、わたしたち一人ひとりの罪の代価を支払うために、わたしたちに代わって十字架上で死んでくださった、それによってわたしたちは救いが与えられていると明確に記されています。このイエス様の犠牲と愛に、どのように応えてゆけば良いでしょうか。

 

イエス様の女性の弟子たちが、金曜日の日没から日曜日の朝までの時間をどのように過ごしたかを55節から56節を通して知ることができます。「その日は準備の日であり、安息日が始まろうとしていた。イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスの遺体が納められている有様とを見届け、家に帰って、香料と香油を準備した。婦人たちは、安息日には掟に従って休んだ。」とあります。

 

順番が逆になりますが、まず「婦人たちは、安息日には掟に従って休んだ。」とあります。神様にささげる安息日の掟を守って、安息日は神様に集中したということです。この期間、神様を礼拝すること、神様の御言葉に聞くことに集中し、そしてイエス様のために神様に祈る時としたと思われます。わたしたちは、目の前の出来事・問題や課題、自分の都合に心が奪われ、時には惑わされ、時には混乱して、優先順位を間違えることがあります。第一にすべきものを第一にしないで、重要でないことを重要視してしまいます。

 

女性の弟子たちは、安息日の掟に従って休んだということから、わたしたちも安息日・日曜日の過ごし方を捉えることができると思います。安息日は、神様にささげる日であって、心と身体を休ませる時であって、それ以外のために用いるべき日ではないということです。しかし、この部分に信仰生活の葛藤が生まれてしまい、イエス様に従えないという壁を作ってしまう可能性がありますので、神様に祈って励ましを祈る必要があります。

 

最後に「イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスの遺体が納められている有様とを見届け、家に帰って、香料と香油を準備した。」という部分を見たいと思います。彼女たちはガリラヤからずっとイエス様口から出た言葉、成された業、ほぼすべてを見届け、心に留めてきた人たちです。イエス様を失った彼女たちの痛み・悲しみは言葉では表せないものであったでしょう。

 

しかし、彼女たちは、深い悲しみの中にあっても、イエス様の亡骸が納められる所まですべてを見届けました。その中で、時間に制限があったために十分な葬りの処置がなされなかったのも見届けました。それを見たので、十分な処置をするために家に帰り、香料と香油を準備しました。彼女たちの素晴らしいところは、最後の最後までイエス様に仕えるという忠実な愛の心をもっていたことです。このイエス様を愛し、仕えるという心を持つ彼女たちが、イエス様の甦り、復活の最初の証人となるのです。