ルカ(128) 御使いによって復活を宣言されるイエス

ルカによる福音書24章1節〜12節

ルカによる福音書の学びも、いよいよ最終章に入ります。この24章は、勝利と喜びの章です。イエス・キリストの復活が御使いによって宣言され、イエス様が死に勝利されたことが力強く宣言されます。そして甦られたイエス様が弟子たちの前に姿を現され、復活されたイエス様を信じなさいと招きます。すべては、神様の愛がなさる救いの御業です。

 

死んだ人が復活するなどあり得ない、信じられないというのがほとんどの意見であると思います。確かに、理性的に考えれば、死人が甦るなどあり得ないと思うのが普通です。つまり、人はいつか必ず死を迎えるのが当然で、それが自然の法則だと思っています。

 

死に対する受け止め方は三つあるかと思います。一つは、死という現実を受け入れられず最後の最後までもがき苦しむ受け止め方。もう一つは、人生のどこかで観念して死を受け入れるという受け止め方。そしてもう一つは、死の先には何かある、永遠の命と住まいがあると信じて、この地上での命を大切に生き、そして希望をもって死を迎えるという受け止め方です。わたしたちはどのような受け止め方をしているでしょうか。

 

ほとんどの人は、いつか死を迎えるのは当然のこと、自然の法則だと思っているでしょう。しかし、創造主なる神様はそのようにお考えになられません。神様は、わたしたち一人ひとりをいつか滅びる存在として造り、命を与え、生かしておられるのではなく、神様との交わりの中で永遠に生きる存在として創造されました。聖書に明記されています。

 

しかし、神を畏れないで自分勝手に生きるという「罪」を神様に対して犯した結果、死を永遠に味わうことになりました。けれども、それは神様のご計画、マスタープランにはないことでしたから、わたしたちを罪から解放し、死から救い出すために、神様は救い主イエス・キリストをこの地上にお遣わしになり、本来わたしたちが負うべき代価、死をもって償うべき自分の罪の代価をイエス様が肩代わりしてくださり、十字架上でその命を捨てることで、罪によるすべての負債を完済してくださいました。わたしたちにできることは、神様とイエス様の愛の大きさ深さに感動し、その愛を感謝するだけ、喜ぶだけです。その感動と喜びを持ち続けることが「信仰」であり、神様の愛に誠実に応えて生きてゆく、イエス様に従うことが信仰生活、教会生活であると思います。

 

神様は、わたしたちが考える常識や理性を遥かに超えるお方です。神様の常識・ご配慮・ご計画を遂行する力・権威は異次元レベルです。ですから、イエス様のご復活も、神様から与えられる信仰をもってしてでなければ、信じることなど到底できません。ですから、信じることが出来るように神様が聖霊によって励ましてくださいます。わたしたちに必要なのは、復活ということを理性ではなく、神様の愛に信頼してゆく中で、希望をもって信じて歩んでゆくことです。

 

さて、23章56節の後半から24章1節を読んでゆきますと、「婦人たちは、安息日には掟に従って休んだ。そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。」とあります。この婦人たちというのは、イエス様が宣教を開始されたガリラヤからずっとイエス様に忠実に従ってきた女性の弟子たちです。彼女たちは、「マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。」と10節にあります。彼女たちは、イエス様が十字架に磔にされ、徐々に弱ってゆく姿、そして死を迎えて行かれる姿を心張り裂けそうな気持ちで見守っていた人たちです。

 

安息日開始の日没が迫っていましたから、十字架から降ろされたイエス様を墓に納める前に葬りの処置が十分になされなかったのも見届けていましたので、彼女たちはイエス様の亡骸に塗るための香料と香油を準備し、週の初めの朝早くにイエス様の死を悼み、弔うために墓に行きます。主の亡骸が収められる場所もしっかり見届けていましたから、イエス様の亡骸が墓にあることを疑いませんでした。唯一彼女たちがもっていた不安は、墓の入り口を塞いでいる石を誰が脇へ転がして移動してくれるかということだけでした。

 

しかし、彼女たちが実際に墓へ行ってみますと、「石が墓のわきに転がして」あったと2節にあります。誰が何のためにそうしたのでしょうか。それはイエス様が復活されたことを神様が彼女たちに見せるためでした。しかし、彼女たちが墓の中に入っても「主イエスの遺体が見当たらなかった。」と3節にあり、「そのために途方に暮れていた」と4節前半にあります。墓にあるべきはずのイエス様の亡骸がないという事実を突きつけられ、また香料をイエス様の遺体に塗るために墓に来た「目的」を彼女たちは失い、途方に暮れてしまいます。わたしたちも人生の中で生きる目的、やり甲斐を見失うと途方に暮れます。

 

さて、1節から4節前半までを読むと、その文章の主語は墓に来た婦人たちです。彼女たちがここまでの中心に置かれています。つまり、人の「死」という人が避けては通れない出来事と直面する時、自分や自分たちを主語に据えてしまう、中心に考えてしまいますと、わたしたちには戸惑いと途方に暮れるしかないと教えていると思います。なぜ途方に暮れるのか。死に対して自分の無力さを最大限に味わうからです。では、どうすれば死に戸惑うことなく、途方に暮れることもなくなるのでしょうか。それは、神様の言葉に聞くしかありません。

 

4節から7節を読みますと、「4そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。5婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。『なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。6あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。7人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。』」とあります。

 

この「輝く衣を着た二人」とは、神様から派遣された御使いです。なぜ二人なのかというと、旧約聖書の申命記19章15節に、「二人ないし三人の証人の証言によって、そのことは立証されねばならない」とあるように、二人の証言がイエス様の甦りは確かであることを示すからです。輝く衣をまとった二人の人が突然現れたので、婦人たちは恐ろしさのあまり顔を地に伏せます。御使いを見ようとしません。しかし、彼女たちの耳は開いたままです。その耳に対して、御使いたちは、「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」と神様の言葉を語ります。

 

この御使いたちの語る言葉の主語はイエス様です。御使たちは主語を彼女たちではなく、復活されたイエス・キリストに変えようとします。つまり彼女たちの心を自分たち中心ではなく、主イエス様中心にしようと励まし、シフトさせようとしているのです。自分たちではなく、イエス様にシフトする時に、何が起こるのでしょうか。それは、「まだガリラヤにおられたころ、(イエス様が)お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われた」ことを思い出すようになるのです。

 

さて、御使いはわたしたちが思い出すべき主の言葉、三つの事柄を7節でこう語ります。1)人の子、つまりイエス・キリストは必ず罪人の手に渡されること。2)イエスは十字架につけられて死ぬこと。3)イエスは三日目に復活することになっていることです。

 

これらは、主の言葉としてルカ福音書9章22節と44節、13章33節、17章25節、18章32・33節に記されていて、エルサレムでも同じことが言われていると22章37節に記されています。ここで大切なのは、主イエス様は「誰のため」に裏切られ、十字架につけられて死に、三日後に復活されたのかということです。それは他でもないわたしたちのため、わたしたちを罪と永遠の滅びから救うためであったことを覚えたいと思います。

 

この7節で注目すべきポイントは、何々する「ことになっている」という言葉です。これは、この三つの出来事、裏切りと十字架と復活は、すべて神様のご計画の中にあったということ、背後に神様の愛と配慮があったこと、神様が主イエス様を死の中から甦らせたという真実を示す言葉です。つまり、イエスはご自分の力と権威で復活されてのではなくて、父なる神様の愛、深い憐れみ、その御力によって甦えさせられたということです。わたしたちが救われるのも同じ神様の愛によります。

 

8節に、「そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。」とありますが、わたしたちに重要なのは、自分を主語に据えるのではなく、いつも主語をイエス様にして、イエス様の言葉に聞くことが日々の生活の中心にイエス様を据えていくことです。そうしてゆく中で、わたしたちは主の愛とお守りを菅野、戸惑いのない、途方に暮れない歩みができると信じます。

 

さて、9節に、彼女たちは「墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた」、10節には「これらのことを使徒たちに話した」とありますが、「使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。」と11節にあります。

 

彼らが信じなかった理由は何でしょうか。幾つかあると思います。第一は、彼らは混乱の中でイエス様の言葉を忘れていたという事です。第二は、女性を軽視する男性の傲慢さです。女性たちからの報告を信じず、狂言のようにしか取り扱わなかった。第三は、イエス様の死後、彼らの中心・主語は彼らであったということ、つまり自分たちの思いが先行し、イエス様を失うという大きな絶望を味わった中で彼らの思いが内向きになってしまい、自分のことしか考えられなくなっていたと思われます。

 

けれども12節に、「しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。」とあります。イエス様を3度も否んだ負い目を抱えていたペトロは不安と期待を持ちつつ墓に向かったと思います。しかし、彼はイエス様の亡骸を巻いた亜麻布しか墓の中に見出せず、イエス様の亡骸がないことを驚きながら家に帰って行きます。口語訳聖書では、「不思議に思いながら」と訳されています。

 

わたしたちは、自分の頭・理性でイエス様の復活を捉えようとすると、限界がありますので、戸惑ったり、不思議に思ったり、驚くしかできません。人間の考えだけでは「復活」を信じることはできません。わたしたちに大切なのは、神様とイエス様を信じて委ねることです。イエス様がご自身を現してくださるタイミング、神様の時を待つことも大切です。主に信頼する時に復活されたイエス様が歩み寄ってご自身を現してくださるのです。