ルカによる福音書24章13節〜27節
今回の学びは、日曜日の朝に甦られたイエス様がエルサレムからエマオという町へ向かっている弟子二人にその姿を現す箇所です。この弟子たちと共に歩まれる時間とそのやり取りは、35節まで続きますが、今回は前半の13節から27節に聴き、後半の28節から35節は次回に聴きたいと思います。
13節と14節に、「ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。」とあります。「ちょうどこの日」とは、イエス様が復活された日を指しています。また二人のうちの一人はクレオパという人であったと18節に記されていますが、もう一人の名前は分かりません。使徒であれば名前で記されるはずですから、12弟子の一人ではなかったようです。
彼らは、エルサレムから六十スタディオン、すなわち12キロほど離れたエマオという村に徒歩で向かっていたとあります。このエマオという町を特定することは考古学的に、また地理的にできませんが、東京で言うと、新宿を拠点に西へ吉祥寺駅、北へ埼玉の川口駅、東へ亀戸の先の平井駅、南へは品川の大森駅ほどの距離です。時間で言うと、健康な人が徒歩で1分80mの歩いたと計算しますと、2時間半の距離です。しかし、二人は「話し合い論じ合っていた」と15節にありますので、もっと長い時間、3時間から3時間半をかけて歩いたのではないかと想像します。
彼らは、「この一切の出来事について話し合っていた」とあります。この「一切の出来事」とは、イエス様が逮捕されてから十字架に架けられて殺されて墓に葬られるまでの受難の事でありましょう。エルサレムに滞在していた人であれば、イエス様の死について知らない人はいないはずのセンセーショナルな事件で、最も衝撃的で歴史的な出来事です。イエス様の弟子であれば、魂をえぐり取られるような絶望的で悲しい出来事です。
もう一つ衝撃的なニュースは、女性の弟子たちによって他の弟子たちに告げ知らされた、「墓にイエス様の遺体がなかった」という事実です。また、墓の中で現れた二人の御使が彼女たちに宣言した、「あの方(イエス)は、ここにはおられない。復活なさったのだ」という言葉も信じ難いことです。イエス様が捕えられて十字架上で死なれただけでもショックであるのに、墓にイエス様の亡骸がないというのは衝撃ニュースです。イエス様の遺体がなくなったという事実は、イエス様を十字架に架けて殺した祭司長たちの耳にもすでに入っていて、「弟子たちが盗んだと言え」と墓の番をしていた番兵たちを買収した事がマタイ福音書28章に記されています。
さて、ここでもう一つ気になるのは、なぜ彼らはエルサレムに留まらずに、その日のうちにエマオを目指したのかと言う彼らの心境です。ある注解書には、この二人が弟子となってイエス様に従う前に彼らの生活の拠点にしていた所がエマオであったとありましたが、そうなると、おそらくエマオには彼らの家族やコミュニティーがあったかも知れません。しかし、それだけがエルサレムに留まらなかった真の理由とは考えられません。理由として考えられるのは、目の前に起きた衝撃的な事件、突きつけられた現実、非現実的なニュースによって彼らの心は希望を失い、心を閉ざしたということです。
15節と16節を読みますと、彼らがエマオへの道を歩きながら、「話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。」とあります。イエス様への希望を失いかけ、一歩一歩エルサレムから離れてゆく二人の弟子たちにイエス様のほうから近づいていき、一緒に歩き始めるのです。
しかし、弟子たちはそれがイエス様だと分からなかった。何故でしょうか。「二人の目は遮られていたから」と理由がはっきり記されていますが、それでは、彼らの目を遮っていたものは何であるのかが気になります。神様が彼らの目を遮ったのではないと思います。彼らが自分たちで心を閉ざしていたので「信仰の目」が閉ざされたのだと思います。
17節に、「イエスは、『歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか』と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。」とあります。彼らは暗い顔をしてピタッと立ち止まります。この暗い顔が彼らの心の状態を映し出していますが、彼らの「そんなことも知らないのか」というイエス様に対する呆れた顔を想像してみましょう。わたしたちも誰かの無知ぶり、非常識さに対して同じような呆れた顔することがあるかと思います。
18節、「その一人のクレオパという人が答えた。『エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。』」と、たぶん呆れた顔を言ったのだと思います。しかし、イエス様はわざと知らない振りをして、「どんなことですか」と質問します。そうしましたら、「二人」が一斉に語り始めるのです。
19節から24節です。「『ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。20それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。21わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。』
「22ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、23遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、「イエスは生きておられる」と告げたと言うのです。24仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。』」とあります。
彼らのこの言葉から何が分かるでしょうか。それはすべて過去形になっているということです。すなわち彼らの心の中では、イエス様は過去の人になりかけていたのです。例えば、彼らはイエス様のことを、「神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした」と言っています。また、「わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました」と過去形になっています。彼らは、イエス様への希望、強いていうならば、信仰を失いかけていたのです。その希望を奪い取る力、それがわたしたちの力ではどうすることもできない「死」という力・問題です。
次に、クレオパともう一人の弟子の言葉に注目したいと思います。まず彼らは、イエス様のことを「神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした」と言っています。彼らはイエス様のことを「預言者でした」と言っています。
申命記18章15節に「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたし(モーセ)のような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わなければならない」とありますように、モーセのようなイスラエルをエジプトの支配から解放する預言者をローマの支配下で切に望んでいたのではないかと思われます。しかし、自分たちを解放する前にイエスは死んでしまったという諦め、失望感があったようです。
また彼らは「行いにも、言葉にも力のあった方」とイエス様のことを言っていますが、「言葉にも、行いにも」という順番がしっくりくると思いますが、「行いにも、言葉にも」になっています。ルカ福音書では、9章後半からイエス様のエルサレムへの旅が始まって以来、イエス様は「行い」を先行させ、その行いの意味を「言葉」で説明することが多かったからです。
例えば、10章でイエス様が72人の弟子たちを派遣する時、「その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい」とお命じになりました。まず目の前の病人を癒して(行い)から、神の国は近づいた(言葉)と伝えなさいと言われました。13章10〜17節、14章1〜6節、17章11〜19節の人々との関わりの時も同様です。
そのように、イエス様というお方は自分が言った言葉を実践するという有言実行型ではなく、父なる神様から委託された「贖いの死とこの世界の救い」という行いを忠実に黙々と行い、言葉での説明・実証は後にしたというお方、神様の約束の言葉、「すべての人を救う」という言葉を忠実に実現する救い主であったと言う方がソフトかもしれません。
イエス様が弟子たちに求めていたのは、イエス様が神様の言葉に聞き従ったように、弟子たちもイエス様の言葉に聞き従って、神と人に仕えるということでした。しかし、イエス様を失った衝撃で心が乱れ、我を見失い、イエス様の言葉を忘れてしまった弟子たちは自分たちの持ち場を離れ、自分が元いた場所に戻ろうとしてしまいます。
それでは、イエス様が弟子たちに残された言葉とは何でありましょうか。それは、墓で女性の弟子たちに御使たちが言ったことと同じです。すなわち、7節、「人の子(イエス)は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」、この主イエスの言葉を思い出しなさいということです。イエス様は、弟子たちに3度にわたってそのように言われました(9:21〜27、9:44、18:31〜34)が、残念ながら、彼らはその言葉をみんな忘れてしまったのです。
ですから、イエス様は25節と26節で、「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、26メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」と、嘆きにも似た言葉を発せられるのです。しかし、イエス様は弟子たちを愛していますし、彼らを用いようとされていますから、愛と忍耐と祈りをもって彼らと向き合い、「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」のです。
「モーセとすべての預言者から始めて」とありますが、モーセ五書と呼ばれている旧約聖書の創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記とすべての預言書には、神様の天地万物の創造、人間の堕落、イスラエルを愛する神の忍耐、神様の戒めと戒めを守ることへの期待、救いのご計画、約束の地へ招かれる祝福、神からメシア・救い主が遣わされるという約束が記され、どのように神様は民を取り扱われるのかも記されています。
それらをイエス様は愛と忍耐とをもって、懇切丁寧に彼らに説明するのです。説明するとは、神様の言葉や出来事の意味と目的を丁寧に解き明かすということです。そして、それが出来るのはイエス様だけです。また同時に、遮られていた彼らの目を開くことが出来るのは、復活されたイエス様のみであることを次回お話ししたいと思います。