ルカによる福音書4章14節〜30節
いよいよ、イエス様の宣教活動がガリラヤ地方で始動します。14節に「イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた」とあります。この「霊の力」は、バプテスマを受けられた時に父なる神様から与えられた霊の力、荒野での悪霊からの誘惑に勝利を与えてくれた霊の力であり、その神の力に満たされて、宣教活動が始まったということです。
しかし、これからのイエス様の宣教の日々は、ずっと霊的な戦いになります。それは悪霊との戦いということだけでなく、自分との戦い、弟子や親しい者たちを教え育てるための戦い、自分を拒絶する人たちとの戦い、十字架に向かう苦難との戦いです。その霊的戦いに共に戦ってくれる「神の霊、聖霊」が共にいて常に励まし、力づけてくれる。神様の言葉と聖霊が与えられていれば、負けるはずがないです。負ける時は、神様から目をそらしている時だけです。
その方程式はイエス様だけに当てはまるのではなく、イエス様を救い主と信じるわたしたちにも当てはまります。信仰によってイエス様から与えられる聖霊、その力によって、主が共に戦うので、わたしたちは人生の戦い、霊的戦いに勝利することができます。神様が勝利させてくださるのです。
さて、聖霊に満たされた説教・教えは力強く、聴衆の心に響きますから、イエス様の評判は瞬く間にガリラヤ地方一帯に広まります。15節に「イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた」とありますが、イエス様の教えを聴いた人々は、イエス様を「尊敬した」のです。この「尊敬した」という言葉は、ギリシャ語では「賛美した」と訳される言葉で、特に神を賛美する時に用いられる「ドクサゾー」という言葉が用いられています。礼拝の最後(ある教会では礼拝の最初)に賛美する「頌栄」は、「ドクソロジー」と呼ばれます。神を賛美することに関しては、ルカ5:26、7:16、13:13などを参照ください。
さて、16節からイエス様の故郷、ナザレで宣教されたことが記されていますが、ルカはイエス様の宣教活動の最初に持ってきます。しかし、記者マタイ(13章)とマルコ(6章)は、ある程度、宣教活動が波に乗った時期のこととして記します。なぜこのような違いが出るのかということですが、やはりそれぞれの記者の観点、意図する事、伝えたい事の強調点が違うからだと言えます。
ルカは、聖霊に満たされたイエス様がガリラヤ地方で宣教を始めた最初に故郷でイエス様が拒絶されることを記します。ヨハネが自分の福音書1章11節で記しているように、「言(イエス)は、自分の民(故郷)のところへ来たが、民(故郷)は受け入れなかった」ということを、ルカはルカなりに最初に示したかったのだと考えられます。イエス様は聖霊に満たされて、神様の愛と赦し、天国のことなどを教え、恵みを分かち合うためにこの地上に来られたのに、イエス様を受け入れないで拒絶してしまいます。その理由をわたしたち読者に、イエス様を信じる者に考えさせようとしたのでしょう。なぜ受け入れなかったのかは、後ほど考察したいと思います。
さて、16節に「イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった」とあります。「いつものとおり安息日に会堂に入り」、神様を礼拝すること、み言葉に聴くことの素晴らしさ。コロナパンデミックの中、「いつもどおり」にできないもどかしさをわたしたちはずっと経験し、耐えていますが、当たり前と思っていたことが実は当たり前ではない、神様からの「恵み」であることを覚えて、神様の恵みを感謝したいと思います。
17節に「預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった」とありますが、これは単なる偶然ではなく、聖霊の導きです。イエス様の目に留まった箇所は、神様がイエス様を通してこれから語ること、行うことのテーマになる部分で、イザヤ書の58章6節と61章1節に約束されていることです。
その内容が18節から19節に記されています。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、 捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」とあります。
「主の霊がわたしの上におられる。主がわたしに油を注がれた」というのは、天からイエス様に聖霊が降ってきたこと、また神様に選ばれた者であることを示します。神様の約束を成就しするため、イエス様は派遣されました。そして次に記されていることは、イエス様が何のために神様から派遣されたのかという目的が記されています。
イエス様は、「貧しい人に福音を告げ知らせるために」に神様から派遣されました。この「貧しい人」というのは、経済的に貧しいとか、心が貧しいということだけでなく、「捕らわれている人、目の見えない人、圧迫されている人」を示しています。イエス様が「貧しい人・人々」とは誰かと言われる箇所が他にもありますので、ぜひご参照ください。ルカ福音書6:20-22、7:22、14:13、14:21です。
イエス様は、「捕らわれている人に解放を」与えるために神様から派遣されました。何に捕われているでしょうか。理想、欲望、価値観、固定観念、様々なことにわたしたちは捕われていますが、そのすべての根っこは「罪」です。罪から来る不安、苦しみ、悲しみ、痛み、死の恐れ、怒り、絶望、それらを与える悪霊の支配や病から、わたしたちを解放するために、イエス様は救い主として神様から遣わされました。
イエス様は、「目の見えない人に視力の回復を告げ」るために派遣されました。「目の見えない」とは、わたしたちの見るべきものが見ない弱さ、傲慢さと云う意味ですが、そのような傲慢なわたしたちに「見るべきお方」、「見るべき御業」に目を注ぐため、信仰という「霊の目・視力」を与えるために神様はイエス様を派遣されました。
イエス様は、「圧迫されている人を自由に」するために神様から派遣されましたが、わたしたちは何に圧迫されて苦しんでいるでしょうか。人や社会から圧迫されることもありますし、自分で自分を圧迫することもあると思います。権力や富やこの世の価値観に圧迫されている人に解放と自由を与えるためにイエス様は神様から派遣されました。
イエス様は、貧しい人に「主の恵みの年を告げるため」に神様から派遣されましたが、この「主の恵みの年」とは、旧約聖書における「ヨベルの年」を意味していて、奴隷は50年ごとのヨベルの年にその身分から解放される(レビ記25章10節)ことになっていましたが、ここでは、イエス様によって、すべての人は罪の奴隷から解放され、自由人になることが示されています。イエス様はわたしたちに救いを与えるために神様から派遣されました。
20節から22節の前半までに「イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』と話し始められた。皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った」とあります。旧約の時代に主なる神様が約束された救いの御業は、イエス様によって「今日」実現したという宣言です。
今日においては、イエス様の福音を耳にし、神様の愛と赦しと希望の福音を信じたその日に、その人に神様の救いが与えられるということになり、今後もわたしたちがキリストの福音を分かち合う中で、神様の約束は実現してゆくと捉えることができます。
しかし、最初にも申しましたように、すべての人がイエス様から語られる神様の言葉とイエス様の救いの業を信じた訳ではありませんでした。むしろ、イエス様の故郷の人々がイエス様を拒んだということが記され、その後も、ユダヤ人たちの多くがイエス様を拒絶し、敵とみなし、イエス様を排除しようと動くのです。では、なぜ彼らはイエス様を拒んだのでしょうか。拒否したのでしょうか。その理由が22節以下にあります。
22節の後半に、「この人はヨセフの子ではないか」という人々の声があります。人々がイエス様を拒んだ理由の一つが「偏見」でした。色眼鏡でイエス様を見てしまうのです。神様から遣わされた救い主とは見ずに、ヨセフの子、大工の子、人の子と見たのです。そして神の言葉が神の子によって語られても、ヨセフの子の言葉として聞いてしまい、神様からの恵みを受け取ることができなかったのです。
救い主を信じず、神の恵みを受け取らない人たちに限って、23節にあるように「カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ」と「しるし」を求めます。イエス様は、「しるしを見たら信じる」と言う人は決して信じないとはっきり言います。24節のイエス様のお言葉どおり、「預言者は、自分の故郷では歓迎されない」のです。イエス様は「預言者」ではなく、「救い主」ですが、ヨハネ福音書1章にあったように、「救い主も、自分の故郷では歓迎されない」のです。
さて、24節と25節で、イエス様は旧約のエリヤの時代とエリシャの時代に起こったことを例に挙げます。預言者たちは、イスラエルの民ではなく、シドン地方のサレプタのやもめに遣わされ、シリア人ナアマンだけが癒された、つまり異邦人だけが救われたと云うのです。これはナザレの人々、ユダヤ人たちからすると、自分たちは救われないで、異邦人が救われるとイエスに言われているのと同じです。
ナザレの人々がイエス様を拒絶した二つ目の理由は、イエス様の言葉に対する「憤り、妬み、憎しみ」です。ユダヤ人が救われないで異邦人が救われるということに怒ったのです。しかし、そもそも彼らが救い主を受け入れない、信じない、拒絶するという間違いを犯していることが棚に置かれた状態で、まったくお門違いな憤りや憎しみを抱いているのです。
28節と29節に「これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした」とありますが、イエス様は故郷の人々だけでなく、その後、ユダヤの祭司長たち、律法学者や指導者たちからも妬まれ、十字架に付けられるということになります。つまり、反抗的うねりが最初からあったという事実をルカは福音書の最初の部分、イエス様の宣教活動の最初に記します。
しかし、「イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた」と30節にあります。それは、聖霊による神様のお守りがあったからであり、福音宣教が始まったばかりであり、イエス様には群衆に語り伝えることがまだ多くあったからです。今後も、イエス様が語られる言葉をご一緒に聴いて参りましょう。