ルカによる福音書6章1〜5節
早いもので、ルカによる福音書の学びも6章に入ります。今日は1節から5節に聴きますが、今回と来週の学びのテーマは、「安息日」となります。二週にわたって、この「安息日」とはどのような日であるのかをご一緒に聴いてゆき、現代のわたしたちに取って、「安息日」に当たるのは日曜日となりますが、この日をどのように過ごしなさいと神様はわたしたちに願っておられるのか、またわたしたちはこの日をどのように過ごすべきなのかをご一緒に聖書から聴き、考えてゆきたいと思います。
まず「安息日」とは、「シャバート」というヘブル語、「やめる」、あるいは「休む」と云う言葉に由来します。英語ではこの日を「サバスSabbath」と呼びます。週の第7日目を休息、礼拝の日として守るように定められた日で、ユダヤ教社会では、金曜日の日没から始まり、土曜日の日没で終わります。キリスト教社会では、日曜日を「安息日」として過ごしますが、日頃なしていることすべてをやめて、神様にのみ集中してゆく日です。
創世記1章と2章に天地創造の記事がありますが、6日間の創造のわざを終えられた神様は7日目に休まれ、その日を「聖」とされたとあります。この日は神様の御前に集う者たちに対して、心と体の休息という祝福を神からいただく幸いな日として守られています。
しかし、この「シャバート」というヘブル語には他にも意味があります。一つは「完成を祝う」という意味で、神様がなされる「完成」を喜び祝うということになります。では、神様は何を完成してくださったのでしょうか。それは「救い」という神様の御業です。もう一つ意味は「喜びを分かち合う時」というものです。神様が創造されたものはすべて素晴らしかった、良かったと創世記1章にありますが、神様の喜びを分かち合わせていただく恵みに与るということが言えるのだと思います。新約の時代に生かされているわたしたちとしては、イエス・キリストの十字架の贖いによって罪が赦され、復活によって救われ、神様の愛が宣言されているという「救いの完成」を喜ぶ、それが安息日の過ごし方と言えると思います。
この「安息日」について、旧約聖書からたくさん学ぶことができます。なぜこの日を守りなさいと神様は招かれるのか。この安息への招きは、決して神様からの強制ではなく、わたしたちの自由な意志による参加が御心であることを聞くことができます。また、自由な意志で、感謝と喜びを持って「安息日」をわたしたちが過ごすことができるように、イエス様が旧約聖書に記録されている「安息日」に関するさまざまな規定、ユダヤ人が持つ宗教的「枠組み」をすべて取り去ろうとしている部分を聴くことができます。
そういう意味で、今回と来週の箇所には、とても革命的なことが記されています。ですから、11節に「彼ら(ファリサイ派の人々)は怒り狂って、イエスを何とかしてしようと話し合った(殺す計画を始めた)」のです。しかし、革命的なことがイエス様にできるのは、イエス様が神の子であり、神様から遣わされた救い主であり、安息日の解釈をはっきり示す権威を持ち、枠組みを変えることのできる「安息日の主」であるからです。
イエス様が取り去ろうと試みられ、実際に取り去ったもの、「枠組み」とは何であったかが興味が湧くと思いますが、簡単に言いますと、それは「分断」という枠組みと「差別」という枠組みです。今回の箇所で「分断」ということが取り扱われ、イエス・キリストは分断ではなく、この地上に真の「一致」をもたらすために地上に来られた救い主であることが示され、次回の箇所では「差別」を無くし、すべての人が「平等」の中で生きるために来られたという事が記されています。
まず「分断」ということから見てゆきましょう。1節と2節に、「ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは麦の穂を摘み、手でもんで食べた。ファリサイ派のある人々が、「なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか」と言った」とあります。申命記23章26節には、空腹のゆえに他人の麦畑の穂を食べること自体は許されているということが記されています。しかし、「安息日」に穂を食べては絶対にダメだとファリサイ派の人々が訴え、ここに「分断」が生じます。
ユダヤ教社会では、安息日に関する戒律が39ケ条あり、その一つずつがさらに39個の細則という形で細分化されています。つまり、安息日に関するだけで1521個の戒律があったということで、その一つを守れないならば、その人は「罪人」であると断罪するような人々がファリサイ派の人々で、彼らはいつも人々の弱さを見つけて厳しく指摘し、「分断」を生じさせることばかりしている、人の粗探しをしているような人たちです。
そのような人々に対して、イエス様はなんとお答えになられたか。3節と4節に、「イエスはお答えになった。『ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを取って食べ、供の者たちにも与えたではないか。』」とあります。
ここでイエス様はイスラエルの英雄「ダビデ」を引き合いに出します。その理由は二つです。一つは、ダビデはユダヤ人がこぞって尊敬する王であったので、権威ある王が生前に「神殿の供えのパンを取って食べ、供の者たちにも食べさせた」ということが聖書(サムエル上21:1−9)に記されていることを指摘し、飢えている時に、命を繋ぐために安息日にパンや麦を採って食べても、それは罪にはならないというのです。
もう一つの理由は、「ダビデは旧約律法を解釈する権威を持っていたのだから、ダビデの子であるメシア(イエス様)はなお一層その権威を持っているという主張がここにあるようです。人が空腹で困っているのを見ても、律法が禁じているから助けないというのは食べるものに困っている人たちと困っていない裕福な人たちに間に「分断」を生じさせるだけでなって、共に生きるという「一致」はないということだと思われます。
イエス様は、5節で「人の子は安息日の主である」と言われます。「わたしは、安息日に、すべての人の心と体に安息を与えるために来た主・メシアである」とおっしゃったのです。このイエス様は、マタイによる福音書11章28節で「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と招かれます。イエス様が「安息日の主」であり、わたしたち一人一人の心に安息を与える唯一の方であるからです。
さて、旧約聖書には「安息日を守りなさい」という神様の御心が示されている箇所がいくつかあります。それらの箇所を読む中で、安息日とはどのような日であるのかを聴きたいと思いますが、まず出エジプト記20章8節から11節にこのようにあります。
「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたは仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」とあります。
なぜ「聖別」するのか。それは神様がこの世界を造られ、七日目に休まれ、その神様がわたしたちに「あなたがたも休みなさい。仕事をしないで、わたしが与える恵みを喜びなさい」と招かれるからです。安息日は神を喜ぶ日、感謝する日であるからです。
申命記5章12節から15節にも同じような言葉があります。「安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。15あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るように命じられたのである」とあります。
出エジプト記20章と似ていますが、違う部分もあります。まず似ている部分ですが、「あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる」という部分です。神様は「あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も」、平等に愛しておられます。自由人も、自由でない人も、性別も、身分も、国籍も関係なく、動物さえも、差別なく、みんな神様の御前に出てゆき、恵みを喜び祝う礼拝へと招かれていて、共に喜びと感謝の賛美と礼拝を神様におささげする日が「安息日」なのです。
出エジプト記と違う部分は、最後の15節の部分、「あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るように命じられたのである」という部分です。つまり、「安息日」という日は、主なる神様が罪の奴隷として生きていたわたしを、その力ある御手と御腕を伸ばして救い出してくださったことを覚えて、感謝する日です。クリスチャンが日曜日に礼拝をおささげするのは、復活によって罪と死の力の勝利し、わたしたちを救うための御業が完成したことに対して、喜びと感謝を神様とイエス様におささげするためです。
もう一箇所、出エジプト記31章14節から16節に安息日を厳守しなさいということが記されています。「あなたは、わたしの安息日を守らねばならない。それは、代々にわたってわたしとあなたたちとの間のしるしであり、わたしがあなたたちを聖別する主であることを知らせるためである。安息日を守り、永遠の契約としなさい」とあります。安息日は、神様との約束・契約を覚える日でもあります。そのことを覚えましょう。
「安息日」、日曜日は七日毎に巡ってきます。当たり前と言えば当たり前ですが、神様が創造主であること、イエス様が救い主であること、救いが与えられていること、神様との約束をすぐに忘れてしまい、自分の道を歩むような弱さがあるからです。
ですから、日曜日・安息日に「わたしのもとに帰って来て、疲れた心と体を休ませ、わたしがあなたを片時も忘れずに愛し続け、伴い、守り、導き、すべてを必要を祝福をもって与えていることを思い起こしなさい」とリマインドさせるために、日曜日毎に、安息日毎に、わたしたちは神様の御前に招かれています。ですから、安息日を守らないで日々を過ごすことは過酷な歩みになってしまい、窒息してしまうことになります。ですから、日曜日に神様の御前に自分を置き、安息を受けることはとても大切です。