ルカ(29) 敵を愛せよと命じるイエス

ルカによる福音書6章27〜36節

今回もご一緒にルカによる福音書に記されているイエス様の言葉に聞いてまいりたいと思いますが、その前に、共通理解を持たせていただくため、短くお話ししておきたいことが一つあります。先日、ある方から新約聖書にある4つの福音書の違いについて単刀直入に質問されたので、わたしは「それぞれの福音書には、違う視点がある」とお答えしました。基本的に、福音書を記録した著者がそれぞれ違いますし、読む人として設定された読者も違いますし、同じ内容であっても言葉づかいや物語の順番なども違います。

 

ですので、わたしはその方に「わたしは、あまり読み比べはせずに、一つの福音書にだけ集中します」とお答えしました。皆さんの中にも、河野はどうして他の福音書と照らし合わせて読もうとしないのだろうと不思議に思う方もおられるかも知れません。確かに読み比べると面白い発見があったり、理解が深まるかも知れませんが、4つの福音書の「視点」が基本的に違うので、今後もあえて毎回照合しないということをご承知おきください。

 

さて、今回のルカ6章27節から36節は、イエス様の「平地での説教」の続きです。27節の最初に「しかし」とありますので、イエス様のお話しが繋がっていると言うことが分かります。前回は、真の幸いとは何か、そして不幸とは何かということをイエス様が弟子たちだけでなく、群衆に対しても教えられた部分を聞きましたが、前回の20節から26節のイエス様の教えと今回の27節から36節の教えには関連性があります。その関連性を示すのが、23節の「大きな報いがある」という言葉と35節の「たくさんの報いがある」という言葉です。この「報い」とは何かは、後ほどお話しいたします。

 

まず27節の最初の部分に「わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく」とあります。数週間前に「群衆」と「民衆」の違いについてお話ししましたが、覚えておられるでしょうか。「群衆」とはイエス様の教えや癒しの業などに対して興味本位や否定的な人たちを指し、「民衆」とはイエス様に好意的、聞く耳と従いたいという思いを持つ人たちを指す言葉としてルカは使い分けていると申し上げましたが、ここでイエス様が「わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく」と言われた聞き手というのは後者の「民衆」と弟子たち、イエス様に従おうと思っている人たちに対する言葉であったと理解して読み進めると良いと思います。

 

何故ならば、今回の教えは信仰がなければ、理解も実践もできない事柄であるからです。主イエス様は「群衆・信じない者」が「民衆・信じる者」に変わり、「民衆」が「弟子」に変えられてゆくことを願っていることを覚えましょう。

 

さて、今回の箇所ですが、新共同訳聖書には「敵を愛しなさい」という小見出しがついていて、その内容が分かるように工夫されています。ある注解書には、この部分は「キリスト教的愛」というタイトルが付けられていました。今回は「愛」というテーマであることが分かりますが、この箇所を読んでゆくと32節から34節に「恵み・カリス」という言葉が出てきます。つまり、この愛というのは、神様から一方的に与えられる神様の恵みであるということです。「恵み」とは、受ける資格がない者が神様から何の見返りも求められずに一方的に、圧倒的に、驚異的に受ける神様の「憐れみ」です。

 

ギリシャ語には、アガペー、フィリア、ストルゲー、エロスという4つの愛を表す言葉がありますが、「アガペー」とは、神様の愛、神様からいただく愛です。フィリアは友愛、ストルゲーは家族愛、エロスは男女間の感情を表す言葉です。今回の箇所には、アガペーしか出てきません。つまり、愛の神を知って、その神から愛を受けて、その愛をもって愛し合いなさいという教えであり、神様から受ける愛をもって「敵をも愛しなさい」と教えられているということになります。このことはとても難しく感じますが、わたしたち人間の愛だけではもっと難しい、いえ、不可能と言わざるを得ないことなのです。

 

さて、今回の箇所は、大きく二つに区分することができます。すなわち、27節から31節と32節から36節になります。最初の部分は、愛とは何かが語られ、後半の部分はわたしたちの心の姿勢が取り扱われています。

 

まず27節から31節ですが、基本的に4つのことが教えられています。1)愛しなさい・親切にしなさい、2)祈りなさい、3)拒むな、4)与えなさいということです。

 

わたしたちが極力避けたい人間関係は、敵や私を憎む人、悪口を言って侮辱する人、暴力を振る人、厚かましい人などとの関係です。しかし、そういう人たちをイエス様は愛しなさいと教えられます。これだけ聞いてイエス様から離れる人もいたのではないかと思います。そんなこと絶対無理、なぜ一方的に苦しみや悲しみを負わされるの、自ら進んで負わなければならないの、そんな理不尽なことがあるか、とわたしたちは思うわけです。

 

しかし、イエス様はこの世界全般を支配する原則や力に対して、この世の悪の力に対して、同じ原則や力で「対抗するな」、何故なら、この世の原則や力とぶつかり合って生じるのは破壊しかないからです。苦しみと悲しみと絶望しかない。だから、ぶつかり合うのではなくて、この世の力とは相容れない神の愛をまずわたしたちが受けて、その愛をもって「対応しなさい」とイエス様は教えるのです。

 

「対抗」ではなくて、「対応」するのです。愛と忍耐と祈りをもって受け止めてゆくのが神様の愛であります。神様は、わたしたちをそのように愛しておられるから、あなたがたもそのように愛しなさいとイエス様は教えるのです。愛することには、忍耐と祈りが必要であることを覚えたいと思います。

 

29節と30節に「上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない」とあります。ここに拒否してはならない、拒絶ではなくて、与えなさいということが記されています。

 

暴力は絶対に良くありません。今ロシアがウクライナにしていることはダメです。何故ダメなのでしょうか。ロシアは、十分すぎるものをすでに持っているのに、それ以上のものを得ようとし、たくさんの命が犠牲になっているからです。

 

しかし、ここでイエス様が「求める者には、誰にでも与えなさい」と言われている「求める者」というのは、本当に何も持っていない人を指しているのです。つまり、持ちたくても持てない、求めたくても、求める権利さえ持っていない人に惜しみなく与えなさいと言われているのです。十分すぎるものを持っている人にこれ以上むさぼらせる必要はありません。しかし、持っていない人には惜しみなく、躊躇することなく、全部でなくてよくて、わたしたちの一部でも、愛を込めて、与えなさいということです。

 

31節に「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」とあります。この世の考えは、「人からされたくないことは、人にもしてはいけない」というもので、非常に消極的な捉え方です。しかし、イエス様の「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」という教えはとても積極的です。

 

神様の愛はいつも積極的な先手の愛で、わたしたち人間の愛はいつも消極的な後手の愛になりがちです。神様の愛はアクションで、わたしたち人間の愛はリアクションということが多いのです。イエス様を通して神様の愛を受けて、また受けた者として、人に仕えるというアクションの愛を実践したいと思います。「受けるよりも、与えるほうが幸いです」(使徒20:35)という主イエス様の言葉を覚えましょう。

 

さて、2番目の区分である32節から36節を読み、愛するという時のわたしたちの「心の姿勢」について、イエス様の教えに耳を傾けて聞いてみましょう。

 

32節から34節には、「自分を愛してくれる人を愛したところで、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか」とイエス様は問いかけ、そのようなことは「罪人でもしている」と言われます。

 

この「罪人」という言葉は聞こえが悪いですが、その意味は、「神様との関係を持とうとしない人・神様から離れた人」ということです。つまり、当たり前のことをしても大きな恵みにはならない。そういう人たちのしていることは自己満足だけに終わり、神様が与えようとされる圧倒的な「恵み」にはならないということです。

 

ところが、35節に「しかし」とあります。「しかし、あなたがたは敵を愛しなさい」とイエス様はお命じになります。あなたの敵をあなたが愛する時に、驚くべきことが恵みとして神様から与えられるとイエス様はおっしゃるのです。

 

この敵を愛するというのは、相手の敵意を逸らすとか、その場しのぎの策というものではなくて、与える相手に「何も期待しない、何も当てにしない、見返りを求めない」で愛するということです。敵というのは、すぐには変わりません。平気ですぐに翻って裏切ったり、傷つけようとする人も出てくるはずです。

 

わたしたちが若かった頃を思い出してみましょう。親に平気で嘘を言ったり、暴言を吐いて傷つけるようなことを言ったり、あるいは今、自分の子どもから言われたりした経験はないでしょうか。しかし、それでも親は子どもを愛してゆく。神様の愛はそれ以上の愛であり、そのような神の愛を受けて、その愛で敵と思える人を愛し合いなさいと招かれているのです。

 

わたしたち人間の愛というのは、いつも計算してしまう愛、ギブアンドテイクの愛、利害関係が前面に押し出された「貸し借りの愛」です。見返りを求めたり、求めることが当然と考えたり、与えた以上のものを期待してしまうところがあります。恩には恩で報いるという原則、世間一般の原則でもあります。

 

しかし、それすらも面倒くさいと感じる人たちが増えていて、礼儀を逸すことがあり、残念に感じることも多々あります。しかし、もう一つ大切な視点は、礼を尽くしたいと願っていても、礼を尽くせないで自分の弱さに苦しむ人たちも存在するということです。

 

人の愛は見返りを求めますが、神様の愛はそういう愛ではありません。神様は計算してわたしたちを愛しておられるのではなく、計算もできないほどの「割に合わない愛」をわたしたちに与え、注いでくださるのです。

 

その典型が、御子イエス・キリストをこの地上に送られ、イエス様がわたしたち罪人の罪を一身に負ってくださり、十字架上で死んで罪を贖ってくださるということでした。神様の愛は御子をも惜しまない犠牲的な愛です。

 

ヨハネの手紙Ⅰの3章16節から18節には、「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くことを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者のうちにとどまるでしょう。子たちよ、言葉や口先だけでなく、行いをもって誠実に愛し合おう」とあります。

 

35節には、「人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる」とあります。最初の方でも「大きな報い」、「たくさんの報い」ということを申しましたが、人ではなく、神様がイエス・キリストを通して与えてくださる「報い」、それは「いと高き神の子とされる」という幸いです。神様がこの恵みを一方的に与えてくださるのです。どうしてでしょうか。その理由が35節後半に、「いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである」とあります。

 

この神様がイエス・キリストを通して求めておられること、それが36節です。「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」ということです。この言葉は、とても感謝で嬉しいのですが、けっこう難しいですね。ですから、わたしたちには主イエス・キリストが必要なのです。イエス様を救い主と信じて、イエス様の言葉に聞き、神様のお導きに信頼して従ってゆく必要があります。イエス様につながることによって、神様のアガペーの愛を受け取ることができるからです。最初の一歩、神様の愛と憐れみを求める祈りから始めてゆきましょう。