ルカ(30) 裁くなと命じるイエス

ルカによる福音書6章37〜42節

今回の学びは、すでに6章20節から始まっているイエス様の「平地での説教」の続きです。そして、今回の箇所をより良く理解するために絶対的に必要なのが、36節にあるイエス様の言葉をしっかり捉えることです。すなわち、「あなたがたの父(神様)が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」という主の言葉です。

 

この主の言葉が、今回の37節から42節の教えの土台となっていて、この神様の憐れみ、わたしたち一人ひとりに神様から与えられている憐れみ・愛・慈しみを理解しなければ、今回の学びを十分に理解することはできないと思います。ですから、今回の学びのキーワードは、「憐れみ」です。

 

この「憐れみ」という言葉ですが、誰かを憐れむという時、そこに「憐れむ人」と「憐れまれる人」という構造があると感じ、上下関係というか、強者と弱者の関係があるかのように感じて違和感を覚える人も出てくるかもしれません。

 

しかし、キリスト教における「憐れみ」とは、神様から一方的に受ける憐れみであって、すべての人に平等に与えられる恵みです。わたしたちは、それを感謝して受け取り、そして分かち合うという関係性の理解が必要となってきます。この理解がないと、すぐに差別意識が出てきて、上下関係の構造ができてしまいます。

 

さて、この36節のイエス様の言葉をリフレイズすると、「神様があなたがた一人ひとりに深い憐れみを施してくださったように、あなたがたも互いに憐れみを施し合い、絶えず憐れみ深い者となりなさい」ということになります。

 

ここで大切なのは、わたしたち各自が「わたしは神様の深い憐れみを受け、神様の愛の中に生かされ続けている」という自覚と感謝を持つことです。この自覚と感謝がないと、他者に対して、いつも憐れみ深く接することはできないとイエス様は教えておられるのです。

 

ですから、「イエス・キリストを通して神様から憐れみを今日も受けて生かされている」と喜び、感謝することが自分を愛するように隣人を愛する原動力になり、これがクリスチャンの生活の基礎となります。

 

さて、37節前半に、「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない」とあります。「人を裁くな」と「人を罪人だと決めるな」の二つの禁止の命令です。この命令は、隣人に対して憐れみ深く生きなさいということを具体化したものです。「裁くな」というのは、社会制度としての裁判を禁止することではなくて、日々の生活の中で、人に対して愛のない批判をしてはいけないということです。

 

サッカーのワールドカップの第一戦で劇的な勝利を収めた侍ジャパン・日本代表でしたが、先日の第二戦では不甲斐ない負け方をしてファンたちから痛烈批判を受けたことが話題になりました。勝てば大喜びし、負ければ叩く。それが外野の無責任な人々の言動です。自分たちの思い通りにならないと、すぐに怒り、裁き、誰かを戦犯とする、責任を押し付ける。本当に身勝手です。

 

しかし、イエス様は、自分のストレスを発散させるかのような無責任な批判はするな・簡単に人を裁くなということを教えています。それは家庭や職場やありとあらゆる人々との関係性の中でイエス様に禁止されていることです。

 

ストレスをうまく自己処理できない弱さを持った人は、周囲の人の些細なミスを痛烈に批判したり、ストレス発散を平気でします。皆さんには、そのようなことを人にされたり、誰かにした経験はいないでしょうか。多分、どちらもあると思います。

 

人を平気で裁く人、批判的な人は、自分も同じような単純ミスを犯す弱い人間であることを忘れる人です。自分の弱さを棚に上げて弱者をいじめる人の構造と同じです。これは、「人を罪人だと決めつける」人間的弱さ、未熟さの表れであり、憐れみが欠如した言動です。

 

では、そのようにならないために、わたしたちはどうしたら良いのでしょうか。何をどの様にしたら、憐れみ深くなれるのでしょうか。正直、わたしたちには自分を変える力はありません。神様の憐れみを受けて、神様によって、神の言葉によって新しく変えられるしか方法はありません。

 

37節後半から38節前半にある、「赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる」というのは、イエス様を通して神様から受ける命令です。憐れみ深い人は、すなわち赦す人、与える人であるとイエス様はここではっきり示します。

 

自分の弱さを理解している人は、周囲の人の弱さを理解できる人です。自分の弱さを理解していない人は、人を裁きます。人を赦さない。いえ、赦せないのです。何故なら、赦された経験がないからです。

 

自分の弱さが身に染みている人は、周囲の人の弱さを肌で感じることができます。共感できます。そして、与えるということができます。何故なら、生きるために大切なもの、「憐れみ・愛」を神様からすでに与えられているという「喜び」を体験しているからです。

 

さて、もう一つ触れておきたいことがここにあります。それは、「赦す」という漢字です。通常、人が人をゆるす時は、「許す」という漢字を用います。神様が人をゆるす時は、「赦す」という漢字を用います。今回の箇所でのこの言葉、口語訳聖書ですとひらがなで「ゆるす」となっていますが、新しい新共同訳聖書も、新改訳聖書も「赦す」という漢字が用いられていて、訳者の意図があると感じます。

 

つまり、人を完全にゆるす方法は、神様の憐れみと助けが必要であること、それ以前に自分が神様に赦されているということ、憐れみを受けていないと赦すことは難しいということをこの漢字が指し示そうとしていると思います。「赦しなさい」とは、神様の憐れみと赦しを受けて初めてできる事であって、自分の努力、忍耐、犠牲だけではできないことを覚えましょう。

 

このことは「与える」ということにも共通します。マタイ福音書10章8節の後半に、「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」とのイエス様の言葉があります。第一コリントの4章7節の使徒パウロの言葉も大切ですから、抑えておきましょう。「いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか」とあります。

 

さて、38節の後半に、「押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである」とあります。「入れてもらえる」という部分までのことは、神様の寛大さを示すものです。

 

日本で米や豆や塩を測るとき、一合、五合、一升枡という四角い枡が使われていましたが、神様は憐れみをわたしたちの心に押し入れるばかりに、心を揺すって心の隅々にまで入れるばかりに、そしててんこ盛りにして入れてくださるということです。

 

ですから、あなたは自分の小さな秤・心で人を量らないようにし、神様の憐れみを受けた者として憐れみ深い者として生きなさいということです。そうでないと、あなたも人々の小さな秤・心で量られることになり、祝福されないですよとイエス様に言われるのです。

 

さて、ここまでは、わたしたちの積極性が問われてきました。積極的に、アクティブに人を愛し、憐れむという生き方です。この祝福された生き方は、憐れみの源である神様につながるしか方法がない生き方です。つまり、アクティブに憐れみ深く生きるためには、まずイエス・キリストを信じて、この救い主につながり、このイエス様を通して神様から憐れみを絶えず受けるという受け身の姿勢、つまり謙遜さが必要であるということになります。

 

さて、39節から42節には、イエス様が語られた3つの譬え話が記されています。39節には、「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか」という譬えがあります。目の不自由な人とその人の手引きをする案内人は運命共同体であって、手引きをしっかりする人がいなければ、目の不自由な人は穴に落ち込んでしまうということです。

 

憐れみを知らない人が憐れみを必要としている人を手引きし、幸せになることはできないということ、つまり、道案内をする人が憐れみ深い人でなければ、憐れみを必要としている人は憐れみを受けることはできないということです。意味が分かりますでしょうか。ですから、まず主イエス様の言葉を聞いたあなたがイエス様から神様の憐れみを受けなさいということです。

 

40節に「弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる」という二つ目の譬えがあります。これはどういう意味でしょうか。

 

言葉をリフレイズするとこうなります。「イエス様の言葉を聞く者はイエス様に勝ることはできない。しかし、イエス様の言葉に聞き従い、イエス様の後に従って生きて行くならば、イエス様がその弟子をイエス様のように憐れみ深い人に変えくださる」ということです。

 

「十分に修行を積めば」とは、「イエス様に従って歩むならば」という意味であって、自分の努力と神様の憐れみとイエス様の励ましの言葉が必要であるということです。

 

わたしたちには、神様の憐れみが必要です。そのわたしたちには、イエス・キリストという信仰の導き手、励ましてくださる存在が必要です。この救い主がわたしたちに神様の愛の大きさと憐れみ深さをいつも教え、導き、そして新しい「憐れみ深い者」へと作り変えてくださいます。ですから、イエス様を信じて従うことが大切で、イエス様を抜きにして、憐れみ深い人には誰もなれないのです。そのことを覚えたいと思います。

 

そのように生きるために必要な知恵が三つ目の譬えとして41節と42節に記されています。イエス様の言葉です。この主の言葉から教えられることはたくさんあります。

 

「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる」とあります。

 

まず、大まかな枠組みとして、誰かにアドバイスする前に自分をまず省みて自己吟味しなければ、偽善的な人となり、恥ずかしい思いにさせられるということです。自分の弱さを棚に上げて、人の弱さが気になる人がいます。そういう人は傲慢な人です。自分の言っていることとやっていることが一致していません。

 

自分に大きな欠点(梁)があるのに、他人の欠点(おが屑)のような物が気になるのは傲慢で憐れみが欠如した証です。そういう傲慢な人は、自信過剰な人、自惚れた人、他者を自分の下に置いて見下す人です。

 

確かに、わたしたちにはアドバイスを必要とする弱さ・欠点があり、人から的確なアドバイスや励ましを必要とする時があります。年齢、性別、職制などに関わりなく、適切なアドバイスをしてくれる人が必要です。そして的確なアドバイスができるためには、謙遜さと憐れみが必要不可欠です。この二つの要素がないアドバイスは独りよがりで無責任なものになります。ですから、わたしたちはそれを自覚し、自発的に自己批判をし、謙遜に生きるために、主イエス様の助けが絶えず必要なのです。

 

ガラテヤの信徒への手紙6章の1節と4節に、「万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きるあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対して誇ることができないでしょう」とあります。

 

では、どのように自己吟味すれば良いでしょうか。ローマの信徒への手紙12章3節に、「わたしに与えられた恵み(憐れみ)によって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く(自分を)評価すべきです」とあります。つまり、いつも謙遜に、低姿勢を貫いて生きるということです。

 

もう一つの自己吟味の方法は、第二コリント13章5節にあります。イエス・キリストがわたしの内におられるかを探るということです。イエス様を信じていれば、イエス様はわたしたちの内にいてくださいます。

 

しかし、イエス様よりも自分の思いを優先させていれば、イエス様はわたしたちの内にいません。イエス様がいないということは、神様の憐れみで満たされていないということになります。今回のイエス様の言葉から学ぶべきこと、それはそのことに気付かされて、悔い改めて、憐れみを神様に求めて生きることがイエス様に従うということであり、改めて神様の憐れみを受けて生きることです。