ルカ(31) 良い実を結ぶ木を求めるイエス

ルカによる福音書6章43〜45節

イエス・キリストの「平地での説教」が続きます。イエス様は、「わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく」と言われ、イエス様を救い主と信じて従おうとする弟子たちや民衆に対して、とても大切なことを教えます。その大切なこととは、他でもないあなたがまず神様から愛を受け取りなさいということです。まずあなたが最初に受け取るということが重要です。

 

少し余談になりますが、皆さんは飛行機に搭乗したことがあると思います。飛行機が離陸する前に緊急事態に備えるビデオを見たり、一昔前ならば、客室乗務員が目の前でデモンストレーションをするのをご覧になったことがあると思います。飛行中の事故や急降下の非常事態時に座席の上から酸素マスクが落ちてきますが、小さな子どもと一緒に乗っている時は、まず大人・親がマスクをつけてから、子どもにマスクをつけなさいと指示されます。

 

親が酸欠になったり、有毒ガスを吸って倒れてしまうと、子どもはなす術がありません。子どもの命を守るために、その子の命を託された親や大人がまず自分の命の安全を確保した上で、子どもを助けるということが重要となります。とかく、親は子どもを守らねばと子どもにマスクを先につけることを考え、必死になることがありますが、本当の意味で子どもの命をためには、親・大人がまずマスクをつけて、それから子を助ける。そういう順序は、人命救助という観点から、実に理にかなっているのです。

 

同じように、大変困難な中にあっても幸いを得るためには、殺伐とした人間関係の中を生きてゆくためには、あなたがまず神様から本物の愛を受け取る必要があるということです。そして「受け取りなさい」といつも愛がわたしたちに差し出されていることを感謝したいと思うのです。この感謝と喜びが命を生かし、生きる原動力となり、そしてその喜びが周囲の人々、家族に波及してゆくからです。誰かを愛したい、守りたい、幸せにしたいと願うならば、まずわたしたちが神様から愛を受け取ってゆく必要があります。

 

イエス様は、わたしたちに対して、神様の愛を受け取る人が真に「幸いな人」であるということを説教の最初で教えられました。前々回と前回の学びでは、イエス・キリストを通して神様から「憐れみ」を受けた者として、人々に対して「憐れみの心」を持ちなさいという教えに聞きました。自分の愛・憐れみだけでは不十分です。神様の愛・憐れみをまず自らが受けてはじめて人を愛し、親切にすることができるということを聞きました。

 

そして前回は、「あなたがたは神様の憐れみによって生かされているのだから、あなたがたも憐れみの心をもちなさい」ということを聞きました。自分に大きな欠点(目に丸太)があるのに、他人の欠点(おが屑)が気になって人を裁くことがあってはならない。そのように振る舞う人は、自分のことも分からない傲慢な人であり、憐れみが欠如した人であり、そのような人の内には神様に愛・憐れみはないとイエス様は教えます。

 

イエス様は、「人を簡単に裁いてはならない。あなたが赦されているように、あなたも主の力を頂きながら、人を赦し、寛大になりなさい、互いに愛し合いなさい」ということをお命じになられます。また、その反対も言えます。神様から愛と憐れみを受けているにも関わらず、人に対して憐れみの心を示さない人は、「偽善者」であるとイエス様はおっしゃいます。この主イエス様の「偽善者」という言葉は当時の律法学者やユダヤ社会の指導者たちにだけではなく、現代を生きるわたしたち一人一人にも言われている主イエス様の言葉であって、あなたがたは愛をもって謙遜に生きなさい、そのために絶えず自己吟味しながら歩みなさいとお命じになられます。

 

ある注解書には、「自己批判しながら」と記されていました。自己を吟味する時、わたしたちは自分には優しくなってしまうことがあります。しかし、自己を批判する時というのは、自分の言動に対して厳しく見てゆくということになります。わたしたちに大切なのは、とかく自分には優しく、人には厳しい社会の中で、人に対していつも寛容に、しかし自分に対しては厳しくということだと思います。

 

今回の学びの箇所である6章43節から45節にもそのことに関連することが教えられていますので、ご一緒に読み進めてゆきたいと思います。まず43節を読みましょう。「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない」とイエス様はおっしゃいます。ここに「良い木」と「悪い木」とあります。悪い木は悪い実を結び、その実を人は口から吐き出します。美味しくないからです。良い木は良い実を結び、その実を人は美味しく頂きます。そしてもっと求めます。

 

ここでイエス様がおっしゃっているのは、わたしたちには一貫性が必要であるということです。良い木には美味しい実を結ぶDNAがありますが、悪い木にはまずい実を結ぶDNAしかありません。あなたがたは良い木であるのだから、良い実を結びなさい、一貫して結び続けなさいということを教えています。

 

しかし、わたしたちは自分の弱さを痛いほど知っていて、良い実を結びたくても結べないことに苦しみ悶えてしまいます。ですから、イエス様はヨハネによる福音書15章4節と5節で、「わたしにつながりなさい」と招かれるのです。わたしたちに大切なのは、イエス様を信じて、イエス様につながり、神様の憐れみの中でずっとつながり続けることです。

 

44節に、「木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない」というイエス様の言葉があります。木が良い木なのか、それとも悪い木なのかを見分ける方法は、その実を食べたら分かります。良い木は美味しい実を結び、悪い木は美味しくない実を結びます。農家は良い木だけを残し、悪い木は切り倒してしまうでしょう。わたしたちは、美味しい果物を売っている店には行きますが、美味しくない果物をいつも売っている店には寄りつかないと思います。果物を仕入れ、売っている人たちの感覚を疑って、2度とその店には行かないでしょう。

 

さて、「木」というのはわたしたちの心を指します。「実」というのは、私たちの言動を指します。心が健康で良ければ、その人の心から出る言葉や行いは一貫して良いもののはずです。しかし、心が不健康で悪ければ、その人の心から出る言葉や行いは一貫して悪いものでしょう。しかし、悩ましい問題は、わたしたちは、時には良くて、時には悪いという一貫性がない時が多いのです。「同じ農家であっても、去年は雨が多かったのでぶどうの味がぼやけていましたが、今年は十分な日照りがあったのでぶどうの味は甘くて最高でした」ということが良くあります。状況や環境によって、良い時もあれば、悪い時もある。しかし、神様の愛と憐れみを常に受けつつ生かされているならば、良い実を結ぶはずなのです。一貫性があるはずなのです。都合の良い時はイエス様に従い、都合の悪い時には従わないという信仰ではなくて、状況や環境に左右されない信仰がわたしたちには必要です。その信仰は、イエス様につながる中で与えられてゆき、神様の愛と憐れみの中で生かされてゆく中で、わたしたちは良い実を結ぶ木へと変えられてゆきます。これは「接木」というテクニックが必要になります。つまり、悪い木の一部だけを切り取って、良い木に接木し、良い実を結ぶ木に成長するという素晴らしいものです。

 

わたしたちは、とかく神様は良い実をわたしたちに求められるから、良い実を結ばなければならないと考え、自分のことは棚に上げて良い実を結ばない人たちは裁いてしまう憐れみの欠如したところがあります。しかし、神様は良い実を求められる以前に、良い木になることをわたしたちに求めます。何故ならば、良い木にしか良い実は結べないからです。わたしたちに大切なのは、神様が喜ばれる良い実を結ぶ木にしてくださいと求めてゆくことです。そのためにも、わたしたちは、自分は神様の愛と憐れみが必要な存在であるという認識を持つということで、その認識を持つためには、自己批判しながら自分を見つめ直すということ、そして神様と向き合ってゆくということが必要になるのです。

 

45節に「善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す」とあります。善い人、悪い人とは誰のことでしょうか。善い人とは光の中にいる自分であり、悪い人とは闇の中の自分ではないでしょうか。神様の愛の中に生かされる人は光の中に生きる者です。闇の中に生きる者は自我や欲望をまだ持って生きる者です。光の中を歩み、良い実を結ぶ木として成長するためには、イエス・キリストという光の中を歩むことが必要不可欠になります。

 

45節後半に、「人の口は、心からあふれ出ることを語るのである」とあります。わたしたちは、自分の心から溢れ出ることをいつも吟味することが必要なのではないかと思います。誰のためのものなのか、それをもって人も豊かにされ、自分も喜びでさらに満たされることかと考える事が大切なのだと思います。

 

ヤコブの手紙3章9節12節の言葉が思い浮かびます。「わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。 同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません。 泉の同じ穴から、甘い水と苦い水がわき出るでしょうか。 わたしの兄弟たち、いちじくの木がオリーブの実を結び、ぶどうの木がいちじくの実を結ぶことができるでしょうか。塩水が甘い水を作ることもできません。」

 

神様の愛の中に生かされていますから、良い木として日々成長させていただき、日々の歩みの中で、人間関係の中で、愛の実、良い実を結ばせていただきましょう。そのためにイエス様を救い主と信じて、つながり続けましょう。