ルカによる福音書6章46節〜49節
6章に記録されている主イエス・キリストの「平地での説教」の最後の部分をご一緒に聴いてゆきたいと思いますが、まず冒頭でしっかりグリップしておきたいことは、この説教の土台は、神様の憐れみであるということです。神様がこの世を憐れんでくださったので、自分たちの目の前に救い主イエス・キリストが現れ、福音を伝えてくださっているということ、そしてこの主イエス様がわたしたちに切に願っているのは、神様の愛にまず満たされ、人に対して憐れみ深い人、寛容な人になりなさいということだと思います。
ですから、20節から開始され、49節で終わるこの説教のちょうど真ん中の部分に、36節ですが、「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」とイエス様はこの説教の核心の部分を示されるのだと、わたしは感じるようになりました。
さて、イエス様は、この説教の結びとして楔を打つかのように、とても重要なことを話され、ある意味、説教を聴くわたしたち各自に一つの決心・決断をさせようと促します。その決断というのは、イエス様に聴き従うか、従わないかという事です。
これまでの説教を聴いてきたすべての人に対して、その締めくくりの部分で、「わたしの言葉を聴いて守る人になるか、あるいは、ただ聴くだけで守らない人のままで生きるか」という問いかけをなされ、イエス様の言葉を聴いて守る人を幸いな人と呼び、聴いても守らない人は不幸であると、極めて厳しく、実に悩ましいことをおっしゃいます。
なぜ「悩ましい」と言うのか、それは「従いたくても、自分を取り巻く諸事情で、今は決断できない、決心できない」という方もおられると思うからです。しかし、イエス様という方は、そういう方がおられることを知りながらも、それでも「わたしに聴き従いなさい」と招かれるのです。その理由を具体的なたとえで説明されるのが今日の箇所です。このたとえを通して、道は二つ三つあるように思えても、実は一つだけであると教えます。
ルカは、イエス様に対して癒しや奇跡を見たいという「興味止まり」の人たち、また批判的な人たちを「群衆」と呼び、またイエス様に興味があって好意的な人たちを「民衆」と呼び、そしてイエス様に聴き従う人たちを「弟子」と呼びます。
群衆と民衆と弟子たちの共通点は、みんな生きていると言う事ですが、群衆は生きているという感覚だけを持ち、民衆は生かされているという感覚を持ち、弟子は神様の憐れみの中に生かされているという感覚を持った上で、その恵みに応えて生きようという信仰を持っている人と分けているようにも思えます。恵みに対して、どのように応答するのか、それぞれ反応が違います。
今回のイエス様の問いかけというのは、民衆から弟子としてイエス様に従う人たちを招くものと考えられます。白黒はっきりさせること、させられることを極端に避ける、グレーな部分に心地よさを感じる日本人にとって、イエス様に聴き従うか、従わないか、いえ、今は従えないのですという選択を強いられるのは、とても辛いこと、酷なことと捉えられてしまいますが、どうでしょうか。しかし、生きるか、死ぬかのどちらかで、その間がないように、イエス様の言葉に聴き従うことがいかに大切な決断、決心であるか、唯一無二の道であるかを教えます。
ルカ福音書において、イエス様の言葉を聴くだけでなく、守るようにとの強い勧めは、この後の8章15節の「種まきのたとえ」、8章21節の「神の家族について」、11章28節の「真の幸いとは」の箇所にも出てきますので、とても重要であることが理解できます。
さて、説教の最後に、46節で、イエス様は民衆に向かって、「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか」と問われます。「主よ、主よ」という呼びかけは、ユダヤ教徒たちが、祭儀の中で、神様に対して祈る時に呼びかける言葉です。初代教会でも、この呼びかけ方が集会の祈りの中で浸透していたようです。
ですので、イエス様のここでの言葉を正確に捉えるならば、「あなたがたはわたしに『主よ、主よ』と呼びかけて祈るのに、どうしてわたしの言葉を聴くだけで行わないのか。求めるだけで終わるのか。あなたにとって『主』とはいったい誰なのか、あなたの祈りとはいったいどのような目的・意図があるのか」と問われているように聴こえます。「主よ、主よ」という呼びかけは、口先だけのパフォーマンスであって、真心をもって主と共に生きようとするつもりはないのかというようにも聴こえます。
ですので、もしこの聖書理解が正しければ、たとえ祈りをしてもイエス様の言葉を実行・実践しない人々は、偽善者たちと変わらない、悔い改めて従いなさいという注意喚起であったのかもしれません。
47節で、イエス様は「わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう」とおっしゃられます。くどいようですが、「わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人」とは、イエス様の真の弟子という意味です。その人は、いったいどのような人に似ているのでしょうか。とても興味があります。
48節にこうあります。「それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている」と。日本は地震をはじめ自然災害が多い国として有名ですが、地震や台風が来てもびくともしない土地が全国にいくつもあるそうです。地下の岩盤がしっかりしているからだそうです。日本の国立病院や政府機関の建物は、地質調査で岩盤がしっかりしていると証明されているところに建てられているそうです。
わたしたちの人生もしっかりとした岩盤の上に建てたいと思うのですが、そのためには「地面を深く掘り下げる」必要があります。そしてそれは非常に苦労の多い作業になるわけです。ですから、悪質なデベロッパーは岩盤さえないところにどんどん家を建てて売りさばきます。ですから、地震があった後に地盤沈下、液状化現象が起こり、家が傾き、住めなくなってしまいます。
イエス様は、この世界に満ちるもの全てを神様と聖霊と共に創造されたお方でありますから、すべてのことをご存じで、強固な岩盤がどこにあるかも分かっておられたでしょう。しかし、それ以上に、ご自分が人々にとっての最も頼りがいのある、信頼できる土台であることを知っておられたとわたしは思います。ですから、イエス様は、「他の人たちよりも苦労は多いけれども、信仰をもって地面を深く掘り下げて、わたしという土台の上にあなたの人生という家を建て上げなさいと招き、励ましてくださっていると思うのです。
イエス・キリストという神の憐れみの上に自分の家を建て、信仰をもって歩んで行こうとしたからと言ってすべてが順風満帆になるわけではありません。様々な逆風、逆境が起こります。忍耐を強いられます。しかし、大事なのは神様の憐れみがいつも共にあるということです。決して独りではない。主がいつも共にいて守り導いてくださるということです。
48節の後半にある、「洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった」という恵みが与えられ、人生に安定がもたらされるということをイエス様は教えたかったのだと思わされます。イエス様を信じる人にも、信じない人にも、良い時も悪い時もあります。しかし、悲しむ時にいつも支えてくださる愛の神、憐れみの神が近くに居られるので、わたしたちは平安が与えられ、幸いな人とされて行くのです。御言葉に聴き、忍耐をもって御言葉を実行する人、その人が最も幸いな人ということだと思います。
49節で主イエスは、「しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった」と言われます。イエス様の言葉を参考に聴くけれども、そこで止まってしまい、最終的には自分の感や経験に頼り、自分の力・頑張りように頼ってしまうのは、土台のない地面に家を建てるのと同じで、しかし、様々な逆境が押し寄せてくる時、それが繰り返しくる時、その人の家は立ち行かなくなり、崩壊してしまうとイエス様は言われるのです。その家、それはわたしたちの心です。
そのようなことがわたしたちにないように、イエス様は四つのことを説教の中で言われました。
1)神様の愛・憐れみを受けなさい。そうしたら大きな報いがある。憐れみを受けたら、その憐れみによって敵を愛し、人を裁くことがなくなり、善という良い実を結ぶことが可能になる。神の愛によって忍耐することも可能になる。
2)イエス・キリストという神の言葉を聴きなさい、つながりなさい、そうすれば、良い実を結ぶことが可能になる。
3)人生は谷あり山ありだけれども、神の憐れみの中で忍耐しなさい。イエス様につながり続ければ、神様は必ずあなたを顧みてくださり、豊かな実を結ぶ木に変えられる。
4)聴くだけでなく、御言葉を実行しなさい。口先だけの人・偽善者にならずに、実践する者になりなさい。イエス様の言うこと、神様の愛によって神を愛し、隣人を愛し、互いに愛し合いなさいと言うことであると信じます。
この平地での説教では、神様の愛と憐れみが語られます。それはつまり、イエス様の心が分かち合われたと言うことだと感じます。イエス様の心を日々受けながら生きる、そのような日々を送ることを神様とイエス様は願っているのではないでしょうか。イエス様はわたしたちの心に寄り添ってくださるために生まれてくださり、近寄ってくださり、わたしに従いなさいと招いてくださる。その愛に溢れた招きに応えて生きる者とされたいと願い、祈ります。互いのために祈り合ってゆきましょう。