ルカ(33) 異邦人の信仰を喜ぶイエス

ルカによる福音書7章1〜10節

ルカによる福音書の学びも7章に入ります。1節に「イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた」とありますように、「平地での説教」を語り終えた後も大切なテーマが継続していることが分かります。イエス様の説教の根底には、神様の憐れみがあると云うことを前回お話ししましたが、これまでのイエス様の教え、言葉は「愛と憐れみ」に満ち、何よりも「権威」があることを聞いてきました。

 

ルカによる福音書の学びを進めてゆく中で気付かされるのは、この福音書は神様の憐れみとイエス様の権威の言葉で満ちていると云うことです。そのような学びの中で重要なのは、主イエスの権威ある言葉・教えは、神の言葉であると信じることです。また、主イエスの言葉がわたしたちに対する神の豊かな憐れみで満ちていると云うことを喜び、感謝することです。イエス様の言葉を素直に聞き、その聞いた言葉を信じ、そして従う、つまり心から行う・実践するということです。聞いたら、信じて、行う、という3点セットです。聞いても、信じなければ、なにも行えないのです。信仰が大切だということです。

 

イエス様の言葉を聞くだけならば、誰でもできます。ですが、本物の祝福を神様から与るためには、聞いたことを信じて、そして行うと云うこと、信仰をもって一歩前に前進するということです。神様に「そこに宝が埋もれているよ」と言われて、その言葉を信じて、掘り返したら宝がある。聞いても、信じないで、行わないのは、もったいないことです。

 

主イエス様の権威ある言葉を聞いて、信じて、行ってゆく時に、扉が開き、祝福への道が広がるからです。この神様の祝福は、ユダヤ人だけでなく、それ以外のすべての人々に、つまりわたしたちにも、もれなく豊かに与えられると云うことが今回のテーマです。

 

さて、ガリラヤ地方のカファルナウムという町が今回の舞台です。イエス様はガリラヤ地方をメインの宣教活動の場としていましたが、そこにはローマ帝国の部隊が駐屯していました。多くの異邦人たちがその地方で生活していたということです。今、「ロシア」と聞くと悪いイメージが先立ち、ロシア人は悪いというイメージになりがちですが、ロシアにも素晴らしい人たち、人格者はいるわけです。同じように、ローマ帝国の部隊と聞くと「制圧者」という悪いイメージが先立ちますが、すべての兵士が悪いわけではありません。ユダヤ人とユダヤのコミュニティーに対して敬意を持つ人も確かにいたわけです。

 

2節から5節までを読みたいと思います。「ところで、ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた。3イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ。4長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。『あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。5わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。』」とあります。ユダヤ人を愛し、ユダヤの神を礼拝する会堂・シナゴーグを建ててくれるローマ軍の百人隊長・異邦人が、名前も記録されていませんが、実在していたのです。

 

さて、ユダヤコミュニティーの重鎮をはじめ、人々から尊敬されていた百人隊長の家庭で深刻な問題が発生しました。この隊長が信頼していた大切な部下が病気になり、瀕死の状態に陥ったのです。この今にも死にそうな人は隊長の右腕のような存在であったと読み取れますが、良い評判のイエス様がカファルナウムに滞在されていることを聞きつけた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちに依頼して、部下を助けに来てほしいと願い出てきます。

 

なぜユダヤの長老たちを派遣したのか。それは、ユダヤ人は異邦人のことを、律法を知らず、罪に汚れていると考えていたので、接点を避け、異邦人の家に行くことなど決してなく、異邦人もユダヤ人の家に行くこともなかったからです。しかし、大切な部下が瀕死の状態に陥り、何としても助けて欲しかったので、ユダヤ人に依頼したのです。長老たちは、「あの百人隊長は実に素晴らしい人物ですから助けてあげてください。イエス様の助けを受けるのに相応しい人ですから」と自分たちのことのように熱心に懇願します。

 

その懇願に応える形で、「そこで、イエスは一緒に出かけられた」と6節最初にあります。どうでしょうか。イエス様は、評判の良い百人隊長の家に行って彼と出会うことを楽しみにし、瀕死の部下を助けてあげたいと準備しておられたでしょうか。しかし、思いがけない展開が起こります。6節と7節に「ところが、百人隊長の家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって言わせた。『主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。7ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました』」とあります。

 

多くの方は、ここに矛盾を感じると思います。長老を通して「家に来てください」と頼んだのに、今度は友達を通して「あなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者では私はありません」と言わせるのです。理由として色々考えられますが、わたしは、単に、かけがえのない部下が死に直面している様子を見て、最初、彼は気が動転していたのだと思います。しかし、時間が少し経過し、落ち着いてよく考えてみると、異邦人である自分はイエス様をお迎えできるような者ではなく、まかり間違えれば、イエス様にユダヤの律法を破らせ、迷惑をおかけすることになりかねないと考えて方向転換したのかしれません。

 

しかし、この部分で重要なのは、百人隊長は、イエス様を「主よ」と呼びかけている部分です。これは、イエス様を「神」と信じ、そのように告白する呼びかけです。つまり、異邦人でも、百人隊長にとって、イエス様は「主なる神」であり、その権威ある言葉は神の言葉であると信じていたことの表れです。主イエスの言葉は、わたしたち人間を罪と死の支配から解放し、圧力から救い出す神の言葉であると完全に信頼しているのです。百人隊長は、イエス様を神から遣わされたキリスト(メシア)であると信じていたのです。

 

ですから、百人隊長は「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください」と友達に言わせます。彼は、イエス様のたった「ひと言」で大切な人が救われると信じ、絶対的な信頼をイエス様に寄せています。イエス様が驚き、非常に感心したのは百人隊長の次の8節の言葉です。「わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします」とあります。

 

彼の上には、千人隊長、将軍、はたまた皇帝まで権威を持つ者がいて、その命令に服従しなければなりません。「わたしにも『行け、来い、こうしろ』という命令ができる権威があり、部下は命令どおりにします。しかし、わたしにも、皇帝にもできないことが一つあり、わたしが求めていることを唯一できる方はあなただけです」と言わんばかりです。さて、皇帝ができなくて、イエス様にできる命令はいったい何でしょうか。それは、瀕死の状態にいる部下に対して「生きよ」という命令、「生きなさい」という救いの招きです。

 

ギリシャ語の「権威」という言葉について少しお話しします。ギリシャ語の権威という言葉は、1)妨げなく成し遂げられること、2)法律の権限と王の後押しを受けて成し遂げられること、3)何者にも束縛されずに自由に行動できること、という意味があります。

 

イエス・キリストという救い主は、罪という大きな力・妨害を受ける事なく、生きよと命じて、「命」を与えることができる救い主です。父なる神の憐れみの言葉、神様の後押しを受けて、「生きなさい」と新しい命に招いてくださるメシアです。唯一無二にして、誰からも束縛されずに、自由に、神様の御言葉を語り、救いを宣言してくださるお方です。

 

このイエス・キリストの権威に満ちた癒し、赦し、解放、救いの宣言、「生きよ」という言葉が主の口から発せられると、イエス様がそこに居なくても、場所も、距離も、時間も越えて、何ものも阻止できない力が弱き人に臨み、その人は救われるのです。10節に、「使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた」とあります。百人隊長は、イエス様はこの力をもっておられると信じていたので、主に信頼していたので、「ただひと言ください」とお願いしたのだと、わたしは信じます。彼の信仰が大切な人の命が守られ、彼自身も、その家族も、救いの恵みに与ることができたと信じます。

 

大切なのは、イエス・キリストを救い主として信じる信仰です。この信仰こそ、場所も、時代も、人種も、性別も、すべて隔てられていた異邦人が、わたしたちが(も)救われる根拠を与える力となるのです。イエスは百人隊長の言葉を聞いて感心し、喜び、イエス様のあとに従っていた群衆の方を振り返り、「言っておくが、あなたがたイスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と言われ、あなたがたも「ただひと言ください。それだけで十分です」という信仰を持ちなさいと招かれているのだと感じます。

 

百人隊長は部下の病気が治ることを願いましたが、イエス様の憐れみと権威ある言葉を信じた信仰により、結果として、隊長、その家族、僕たちに素晴らしい「救い」が与えられたのです。確かに病気が治ることを求めることも大切です。しかしそれ以上に、まず心が救われ、癒され、平安と希望が与えられ、愛で満たされることを求めることが先決です。

 

イエス・キリストという救い主、神の御子はわたしたちを闇の中から光の中へと移すために来てくださったお方です。この救い主を全能なる神の子、権威ある救い主であるとの信仰を持ち、主に信頼することによって、「癒し」以上の「救い」が、「救い」以上の「永遠の命」が与えられてゆくのです。そして、それはすべて、神様の憐れみから一方的に迫ってくる驚くべき「恵み」なのです。この神様の愛と憐れみを恵みとして喜び、感謝することが、信仰であり、信仰者の真の生き方なのではないでしょうか。