ルカによる福音書7章18節〜23節
ルカ福音書7章18節から35節には、バプテスマのヨハネのことが取り上げられていますが、一回のお話で終わりそうにないので、3回に分けてお話ししようと思います。ですので、今回は最初の18節から23節までの部分を取り上げたいと思います。ここには、バプテスマのヨハネからの問いかけに対するイエス様の答え、つまりご自分が何者であるのかの証言とイエス様を信じなさいという招きが記されていると思います。
バプテスマのヨハネについて、福音書の記者であるルカは、ヨハネの出生の秘話、つまり神様が父ザカリアと母エリサベトにどのように関わってくださり、両親がどのように神様の働きかけにリアクションしたのか(1:5-25)、また母の胎内にいる時からヨハネがイエス様のことを救い主と認めて喜んだこと(1:39-45)、ヨハネ誕生の出来事(1:57-66)、父ザカリアの預言(1:67-79)、ヨハネの成長期から成人になった時のこと(1:80)、バプテスマのヨハネとしての宣教活動(3:1-18)について、他の3つの福音書よりもより詳しく記録しています。
特に、3章の19節から20節には、ヨハネが当時の領主ヘロデに捕まり、投獄されていたことが記されています。「領主ヘロデは、自分の兄弟の妻へロディアとのことについて、また、自分の行ったあらゆる悪事について、ヨハネに責められたので、ヨハネを牢に閉じ込めた。こうしてヘロデは、それまでの悪事にもう一つの悪事を加えた」とあります。
ですので、今回の箇所である7章18節から35節の事柄の背景には、ヨハネが投獄されていて、いつヘロデに処刑されてもおかしくない、そのような厳しい状況にあったことを覚える必要があります。つまり、ヨハネとその弟子たちは本当に切羽詰まった状況の中にいたということです。
しかし、もう一つ覚えなければならないことがあります。それはバプテスマのヨハネは、イエス様が誰であるのかを知っており、そのイエス様を信じていたということです。今回はあえて他の福音書に記されていることをお話ししますが、マルコによる福音書1章7節から8節でイエス様のことをこのように言っています。すなわち、「彼はこう述べ伝えた。『わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちにバプテスマを授けたが、その方は聖霊でバプテスマをお授けになる』」と言っています。
マタイ福音書3章13節から15節には、イエス様がバプテスマのヨハネからバプテスマを受ける時のことが記されています。「そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼からバプテスマを受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った、「わたしこそ、あなたからバプテスマを受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした」とあります。「我々にふさわしいこと」というイエス様の言葉から、イエス様とヨハネは神様からそれぞれに大切な役割が与えられていたことをしっかり認識していたという事が分かります。
ヨハネによる福音書1章26節から27節にも同じ内容ですが、バプテスマのヨハネがイエス様のことを何と言っているかが記されています。しかし、続く29節ではイエス様が自分の方へ来られるのを見て、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである」と言い、34節では「この方こそ神の子であると証ししたのである」と言っています。
また、続く35節から37節にはヨハネが彼の弟子二人にイエス様のことを指し示す言葉が記録されています。「その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを見つめて、『見よ、神の小羊だ』と言った。二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った」ということが記され、その従った一人がシモン・ペトロの兄弟アンデレであり、このアンデレがシモン・ペトロに「わたしたちはメシア、『油を注がれた者』という意味―に出会った」と言って、シモンをイエス様のところへ連れてくるということが記されています。これらの事から、バプテスマのヨハネの弟子たちとイエス様の弟子たちには以前から接点があったということが分かります。とても興味深いです。
さて、マルコ福音書の1章14節とマタイ福音書の4章12〜17節を読みますと、バプテスマのヨハネがヘロデに捕えられてから、イエス様は福音を宣べ伝える活動を開始されたということが記されています。このような背景があることを知った上で、今回の箇所を読んでゆくと面白いと思います。
それでは、ルカ福音書7章に戻りましょう。18節の前半に、「ヨハネの弟子たちが、これらすべてのことについてヨハネに知らせた」とあります。「これらすべてのこと」とは、ヨハネが捕えられた後のこと、つまり4章から始まったイエス様の宣教の働きであったのか、6章にある山の麓の宣教の部分からなのか、あるいは7章にある百人隊長の僕を癒し、やもめの一人息子を生き返らせるという直近の出来事であるのか、詳細は分かりません。しかし、それらすべてのことにヨハネとその弟子たちは興味があったと思います。
けれども、彼らにとって最も直近の問題は、捕えられているヨハネは今後どうなってしまうのかということであったと思います。ヘロデはヨハネに興味があり、彼の命を奪うつもりはありませんでしたが、彼の妻となったヘロディアはヨハネに対して憎しみを持っていました。それをヨハネはよくわきまえていたと思います。ですから、ヨハネは自分が助かる方法を、彼の弟子たちは師ヨハネを助け出す方法を探していたと思います。わたしがヨハネの弟子であったならば、そう考えたと思います。皆さんは、どうでしょうか。
18節の後半から19節前半にこうあります。「そこで、ヨハネは弟子の中から二人を呼んで、主のもとに送り、こう言わせた」とあります。この言葉からも、ヨハネはそこまで厳しい扱いをヘロデから受けていなかったということが分かります。さて、ヨハネは弟子にこのように尋ねさせます。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」と。従順な弟子たちはヨハネの言った通りにしたことが20節に記されています。
ここに出てくる「来るべき方」とは、ヨハネが「来る」と信じていたメシア・救い主です。たぶん、投獄されているヨハネにとっては死の恐怖から解放する救い主、その弟子たちにとっては師匠を救い出してくださる救い主を指して言っているのかも知れません。
さて、ヨハネの弟子たちがイエス様のところに来た時、イエス様が為しておられたことが21節に記されています。「そのとき、イエスは病気や苦しみや悪霊に悩んでいる多くの人々をいやし、大勢の盲人を見えるようにしておられた」とあります。ヨハネが捕えられたと聞いて、イエス様は宣教活動を本格的に始動したのですから、イエス様はとっくのとうにヨハネが捕えられたことは熟知しておられたわけです。
しかし、イエス様はヨハネを救い出すことを最優先にはしないで、ガリラヤ地方で宣教の業を始められました。知っているのに、なにも動かない。どうしてでしょうか。イエス様のことを薄情で、冷血な人だと思うでしょうか。いいえ、イエス様は薄情な方ではありません。ヨハネとイエス様はそれぞれの地上での使命・役割が分かっていたと先ほど言いましたが、使命と役割が分かっているということは、つまり第一に優先すべきことを知っていたということです。ですので、イエス様はご自分が第一に優先すべきことを選び取っていた、つまり神様の御心を従順に為していたのです。
それを薄情と思ってしまうのは、わたしたちが人間の感情にだけとらわれ、神様のお考え、御心、自分の役割を見失ってしまっているからなのではないかとわたしはそう思います。なぜそのように思うのかというと、高校生であったわたしと弟には、牧師であった父が、成長期真っ盛りでお腹をすぐに空かせるようなわたしたち高校生の食費よりも、教会員の家を訪問するために必要な車のガソリン代に5ドルほどのわずかなお金を使ったという経験があるからです。しかし、わたしの父はわたしたち兄弟をネグレクトしたのではありません。子どもたちの一食分の飢えよりも、訪問することで神様の愛を必要としている人の「心の飢え」を満たすことを優先させたのです。わたしと弟は、その時は父を恨みましたが、今は父のしたことを誇りに思います。なぜ誇りに思うのか。それは、父はイエス様であったらそうしたであろうと思えることをイエス様に倣ってしたと思うからです。
イエス様は、バプテスマのヨハネの弟子たちにこうお答えになりました。「行って、(あなたがたが)見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」と。「あなたがたが見聞きしたことをその通りヨハネに伝えなさい。あなたがたの師匠は真理を理解するとわたしは信じます」ということをイエス様はおっしゃりたかったのではないかとわたしはそう思います。
イエス様が神様からこの地上に派遣され、この地上を歩まれた目的は何であったでしょうか。イエス様は「目の見えない人は見える自由が、足の不自由な人は歩く自由が、重い皮膚病を患っている人は清くなって生きる自由が、耳の聞こえない人は聞こえる自由が、死者は生き返って生きる自由が、貧しい人は福音を告げ知らされて信じる自由が与えられている」と言っています。
この救い主イエス様は、わたしたちの身代わりとなって十字架で死ぬことによって、わたしたちを罪と死の恐怖から解放し、神様の愛の中で自由に生きさせ、永遠の命を与えるためにこの地上に来られました。それがイエス様のこの地上での使命であり、役割でした。
わたしたちが心の中に抱く私情よりも、父であり、愛の神様の想い、御心を第一にしたのです。このイエス様が、23節で「わたしにつまずかない人は幸いである。」とおっしゃいます。私的感情に支配されてイエス様につまずくのではなく、神様の大いなるご計画とご配慮があることを信じて御心を行うイエス様を信じる者は幸いである。「イエス様を救い主と信じる人は幸いです。信じなさい」とわたしたちは招かれているのではないでしょうか。「わたしにつまずかない人は幸いです」とは「わたしを信じなさい」という招きであり、イエス様を信じる者はお金では買えない幸いを得ることができ、まことの幸いに生きる人とされ、祝福されます。わたしは、そのように信じて、主に仕えさせていただいています。皆さんは、どうでしょうか。イエス様につまずかないで、信じて、幸いを得てください。