ルカ(37) 嘆かれるイエス

ルカによる福音書7章29〜35節

7章18節から始まったイエス様とバプテスマのヨハネの関連性をテーマとする箇所も、今回の3回目で終わりになります。このイエス・キリストとヨハネの登場は、旧約の時代、つまり預言者の時代は終わり、神様によって新しい時代が始まったことを物語ります。今回の箇所には、まずヨハネと民衆たちの関係性について、ヨハネとファリサイ派を筆頭とする宗教的リーダーたちとの関係性について記され、最後にはイエス様と人々、さらには今日生かされているわたしたちとの関係性に関してイエス様がおっしゃる形となっています。

 

さて、イエス様がバプテスマのヨハネについて人々に語る箇所が28節で終わりますと、今度はヨハネの宣教に対して民衆のとった態度とファリサイ派や律法学者たちのとった態度が記され、それに関する一つの譬えをイエス様が語り始め、イエス・キリストに従う者たちの生き方が告げられます。

 

まず29節に、「民衆は皆ヨハネの教えを聞き、徴税人さえもその洗礼を受け、神の正しさを認めた」と記されています。「民衆」は、救いを求めている心が柔らかな人たちであることを以前お話ししましたが、そのような人々は、バプテスマのヨハネの宣教を聞き、みんなが悔い改めのバプテスマを受けたと記されています。「徴税人さえも」とありますが、人々から軽蔑されていた人々さえも悔い改めたのです。

 

ここに「神の正しさを認めた」とありますが、どういうことでしょうか。これは、すべてを知っておられる神様の前では、自分は罪人であると人々は自らの弱さを認めたということです。自分は様々な面で本当に弱い人間であり、いとも簡単に罪を犯してしまう人間であるという事実を素直に認め、だからこそ神様の愛と憐れみ、魂の救いが必要であることを認めて、自分の救いは憐れみの神のみにあると信じたということです。これがバプテスマのヨハネの宣教を聞いた民衆の態度です。

 

しかし、すべての人が民衆と同じリアクション、態度をとったわけではありません。30節に、「しかし、ファリサイ派の人々や律法の専門家たちは、彼から洗礼を受けないで、自分に対する神の御心を拒んだ」とあります。これは、神様の正しさよりも、自分たちの正しさを主張する人たちがいたということです。つまり、自分は罪人ではない。罪を犯さない強さを兼ね備えた者であり、律法を厳守することによって自分は救われていると自負する人、非常にプライドの高い人たちで、バプテスマのヨハネの悔い改めの宣教を拒み、同時に神様の愛と憐れみ、魂の救いを拒んだ人たちが存在したということです。

 

このような人は、いつの時代にもいます。自分の考えとそこから来る行いはいつも正しい、自分は間違うことはないと自信満々な人。そういう人は、自分の本当の弱さを知らないので、自分を最大限に肯定し、人をいつも見下し、勝手に裁き、否定するのです。自分だけの価値観で視野が狭いので、自分に対する神様の御心を拒絶し、自分の努力と行いで救いを得ようとする態度をとったのです。

 

このことから学ぶべきことがあります。それは正しい人はいないと言うことです。ここで大切なのは、自分はそのような一人ではないかと自問し、そのような傾向があるならば、悔い改めて神様に立ち返ることです。「自分は大丈夫、問題ない」ではなくて、「神様の愛と憐れみが必要で、それによって生かされている」と謙遜に、神様の愛を求めて生きることです。それこそが、「神の御心に生きる」ということなのではないでしょうか。

 

「御心に生きる」とは、どういうことでしょうか。謙遜に生きること? それも一つですが、「御心に生きる」とは、神様を自分の前にいつも置いて、この神様を見上げて、第一にして生きるということです。自分の正しさではなく、神様の正しさの中に生き、生かされるということです。皆さんにも聞いてみたいです。「自分に対する御心に生きる」とは一体どういうことで、「自分に対する御心を拒む」とは一体どういうことと理解しているのか。一緒に悩みたいと思いますが、まず神様を第一にしてゆくことではないでしょうか。

 

イエス様は、31節と32節で面白い例えをお話しします。「では、今の時代の人たちは何にたとえたらよいか。彼らは何に似ているか。広場に座って、互いに呼びかけ、こう言っている子供たちに似ている。 『笛を吹いたのに、 踊ってくれなかった。 葬式の歌をうたったのに、 泣いてくれなかった。』」とあります。

 

「今の時代の人たち」とは、どういう人たちでしょうか。イエス様は、ファリサイ派の人々や律法の専門家たちのことを言っています。すなわち、律法主義で、偏った考え方に囚われている人たちを指しています。今の時代では、プライドばかりが嫌に高くて自己中心的で不寛容な人たちと言えると思います。イエス様はこの「今の時代の人たち」という言い方をルカ11章などでも複数回使っていますが、この用語はそもそも旧約聖書に由来していて、神の御言葉を聞こうとしない頑なで不忠実なイスラエルを意味していることが申命記32章5節(不正を好む曲がった世代)やエレミヤ書2章31節(迷いでた世代)などから分かります。

 

主イエスは、そういう人たちを何に例えよう、何に似ているかと言われ、「広場に座って、互いに呼びかけ、こう言っている子供たちに似ている」と言われます。傲慢な人たちを子供になぞります。「子供」とは、どのような存在でしょうか。成長期にある人たち、未熟であり、独り立ちできない、自分の責任を負えない人たちのことで、わたしもそういう粋がった主張をして間違いを犯した経験が過去に何度もあります。

 

『笛を吹いたのに、 踊ってくれなかった。 葬式の歌をうたったのに、 泣いてくれなかった。』」とあります。これは当時の子供達のお遊びで、「結婚ごっこ」、「お葬式ごっこ」と理解すると良いでしょう。子どもの頃、皆さんはどのような遊びをされたでしょうか。かくれんぼ、大縄跳び、缶けりゲーム、はないちもんめ等。わたしは、メンコ遊びが好きでした。ただ、友達と集まって何をして遊ぶと話し合う時、みんなが「やりたい」と言っても、一人だけ「嫌だ」と言う子はいなかったでしょうか。それが発展して、言い争いになったり、喧嘩別れになってしまう事もありました。自分の思い通りにならないとすぐにつむじを曲げて怒る。自分の思いを他の人たちに押し付けようとする。思い通りになる人が友達で、思い通りにならない人は敵になってしまうことがあります。

 

イエス・キリストは、平等と平和を与え、一致を与えるため、この地上に来てくださいました。わたしたちは罪を犯す弱い者ですが、そのようなわたしたちを主は平等に愛し、罪を贖って救い、神様との平和を与えてくださいました。神様に愛され、赦されていること、それぞれには平和のために生きる大切な役割があることを知らせてくださいました。その恵みを感謝する者たちが一致して共に生きてゆくことができるように愛の戒めと宣教命令を与えられました。

 

しかし、律法に生きる人々は神様から遣わされた預言者以上の者ヨハネを、神様から遣わされた救い主イエス様を受け入れることなく拒みました。33節と34節に、「バプテスマのヨハネが来て、パンも食べずぶどう酒も飲まずにいると、あなたがたは、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。」とあります。ここに神様の救いへの招きを拒み続ける人たちがいます。自分たちの思いが神様の御心よりも前に出てしまっているのです。

 

ですから、わたしたちはそのようなことを反面教師として学ばなければならないのです。まず自分はそうなってはいないだろうか。自分好みのキリストや教会や人々を求めていないだろうか。主イエス様より、自分の思いが先立ち、イエス様を意のままに従わせようとしてはいないだろうか。『あれは悪霊に取りつかれている』と断言し、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と軽蔑と非難と拒否をしていないだろうか。目に見える表面だけで判断していないだろうか、と自己吟味するように促され、そのような間違いを犯さないようにと警告されているのかもしれません。

 

35節に、「しかし、知恵の正しさは、それに従うすべての人によって証明される」とあります。「しかし」と言う主イエス様の言葉は、主の憐れみがまだあると言うことだと思います。「それに従う」の「それ」とは、イエス様であり、イエス様の言葉であり、主の言葉に従うことによって、「正しい知恵が備え付けられる」のではないかと思います。

 

さて、最後にここにある「知恵」とは、何でしょうか。神様の「御心」とも言えますが、ここでは神様の救いの計画を指します。つまり、神様の御心・ご計画は、徴税人や罪びと、汚れた人などを含めた「すべての人」を救うという壮大なご計画です。イエス・キリストを通して神様に愛され、罪赦され、新しい命に生かされていることを喜び、感謝する新しい心が新しい思いと行動を起こさせ、その人の生き方が神様の愛の正しさを証明するとイエス様はおっしゃるのです。ですから、わたしたちに大切なのは、自分は神様に愛され、イエス様によって罪赦され、御霊によって歩まされていることをひたすら喜び、脇目も振らずに(つまり自分と人を比較せずに)感謝して生きることです。そのように生きる人がバプテスマのヨハネが開始し、イエス様が完成してくださる新しい時代に生きる人ではないかと思います。