ルカ(40) 種を蒔くたとえを話すイエス

ルカによる福音書8章4〜15節

今回の8章4節から15節は、新共同訳聖書のように、大きく3つに区分することができます。4節から8節はイエス様が群衆に語られた種を蒔く人の「たとえ」、9節から10節はイエス様が弟子たちに話されたたとえを用いて話す「理由」、11節から15節はイエス様によるたとえの「解き明かし」が記されています。

 

それぞれの箇所に記されているイエス様の言葉に耳を傾けてゆきたいと思いますが、今回は少し順序を変えて、二番目のたとえを用いて話される「理由」から聞いてゆきたいと思います。その理由は何かと言いますと、9節に、「弟子たちは、このたとえはどんな意味かと尋ねた」とありますように、弟子たちはたとえの「意味」とイエス様がたとえをもって語られるその「目的」を理解していなかったということが明白であり、たとえを話す理由を最初に分かっていれば、イエス様のたとえに集中することができると思うからです。

 

さて、弟子たちからの質問に対してイエス様は10節で、「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、『彼らが見ても見えず、 聞いても理解できない』 ようになるためである。」と言われています。けっこう難解な言葉です。まず「あなたがた」とはイエス様の弟子たちで、その弟子たちとはイエス様ご自身が選ばれた人たちです。その選ばれた「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されている」とありますが、「神の国の秘密を悟ることが許されている」とは、いったいどういうことでしょうか。

 

「神の国」とは、神のご支配の中に置かれて生かされるということ、つまり神様によって、神様の憐れみによって救われている状態、「救い」という意味です。なぜ私が救われるのか、救われて良いのか、なぜ私が神様に愛されるのか、私のような者が愛されても良いのかと戸惑うことがあります。その戸惑いや救いの不思議さがここでイエス様が言われる「秘密」です。この救いの秘密はイエス様の言葉によらなければ理解できません。人間の理性や一般常識では理解できないことなのです。イエス様につながれている弟子たちにだけ、イエス様を通して理解する・悟ることが許されている「恵み」であり、イエス様につながれていない、信じていない人には聞いたり、見たりしても分からないので、そのような「他の人々」にはたとえをもって分かりやすく話すのだとイエス様は言われます。

 

10節後半の「それは、『彼らが見ても見えず、 聞いても理解できない』 ようになるためである。」も分かりにくい箇所ですが、これは旧約聖書のイザヤ書6章9〜10節の部分的引用です。「彼らが見ても見えず、聞いても理解できない」とあるこの「彼ら」という言葉を聞いて、皆さんはいったい誰を思い浮かべるでしょうか。そうです。ファリサイ派の人たち、律法学者たちを思い浮かべるのではないでしょうか。神の子イエス・キリストが誠心誠意で福音を語っても、たくさんの奇跡を行っても、聞こえない、見えない、はなからイエス様を認めない人たち、拒絶する人たち、そのような人たちは自分たちの理性と知恵と律法を行うという行為で救いを得られると思い込んでいる人たちです。しかし、人から出るものではなく、イエス様を通して神様から与えられる「信仰」、つまりイエス様を信じて、主イエス様につながることによってのみ、神様の愛に生かされている幸いと救いの確かさを実感できる「恵み」を受けることができる。だから、それを人々に理解し、信じてもらうために、イエス様はたとえをもって分かりやすくお話しされるのです。

 

それでは4節から8節を見てゆきましょう。最初に、イエス様がたとえをもってお話をされた対象者が「方々の町からイエス様のもとに集まってきた大勢の群衆」であったことが4節に記されています。なぜ方々の町から群衆がイエス様のもとに押し寄せてきたのでしょうか。それはイエス様の権威ある言葉、福音を聞きたかったからでしょう。先ほど申しましたように、この人々はまだイエス様につながっていないのでイエス様は「たとえを用いてお話しになった」のです。それでは、どのようなたとえを主イエスは語られたでしょうか。

 

「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」と話されます。

 

まず「種を蒔く人」とありますが、「種」とは11節にあるように「神の言葉」です。ゆえに、今日において「種を蒔く人」とは、神様の言葉を語る人、宣教をする人、その言葉を分かち合う人ですが、最初に種を蒔いてくださったのはイエス・キリストであることを覚えましょう。

 

神の言葉であるイエス様が、ご自分を地上に蒔いて、罪の贖いの死を遂げてくださった。その種に新しい命を神様が与えて甦らせてくださった。その復活のイエス・キリストを信じる者たちが世界中に出ていって、福音の種蒔きをすることによって、百倍、千倍、何万倍と実を結んでいる。結び続けることがわたしたちの使命であり、福音宣教は教会の重要な使命であるわけで、それをなおざりに、いい加減には出来ないのです。

 

さて、イエス様が畑に種を蒔いた時、4つの土地・土壌に種が落ちたと記されています。良い土地だけに効率良く蒔くのではなく、むしろ良い地・悪い地という差別意識を持たずに、満遍なくどの地にも種を蒔かれます。なぜでしょうか。神様はすべての土地を愛で祝福し、豊かに実を結ぶ土地にしたいと願っておられるからです。しかし、いかに種が神様の愛であったとしても、その種を受け止める土壌の状態が悪ければ、その種がその地で芽を出し、成長し、良い実を結ぶことは非常に困難です。土の状態が悪いとは、わたしたちの心の状態が悪いということです。

 

ここで「たとえ」として語られている4種の土壌は、わたしたちの心の状態を表していますが、わたしたちの心が常に良い状態であるとは限りません。道端のような状態もあれば、石地のような状態もあるでしょうし、茨が生い茂っている状態もあります。心がころころ変化するのがわたしたちの弱さです。しかし、わたしたちの心がどのような状態でもイエス様は常に神様の言葉を語ってくださるのです。なんという幸い、恵みでしょう。

 

5節に「蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった」とありますが、12節でこのように解き明かしてくださいます。「道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである」とあります。

 

御言葉を聞くと心が柔らかくなるのではなく、反対に頑なになってしまって拒絶するようになってします。その原因は悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去るからとあります。このことについてもっと詳しく知りたい方は、使徒言行録13章7節から10節(p238)を読まれることをお勧めします。

 

神様の霊に満たされるとより良く神様の御心を知ることができて、喜びに満たされますが、悪い霊はわたしたちを神様から引き離し、信仰を奪い去ろうとします。ですから、絶えず神様の愛に包まれるように求めましょう。

 

6節に「ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった」とある石地について、13節で「石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである」とイエス様は解き明かしてくださいます。石地に種が蒔かれ、雨が降って、日が出てきますと芽を出します。しかし、石地に根を張り巡らすことができないので、「試練・迫害」のような苦しみが襲いかかってくると怖気づいて神様から隠れてしまい、その信仰は枯れてなくなってしまうのです。大切なのは、心をしっかりさせ、信仰の根を張り巡らせることです。

 

7節では、「ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった」とおっしゃりましたが、その茨が生い茂る土地について、14節で、「茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである」と説明してくださいます。

 

神様の愛は素晴らしいと感動し、喜びに満たされつつも、様々な課題や問題に日々直面する中で神様の愛から離れてしまったり、富に執着するようになったり、快楽を求めてしまう時に心が塞がれてしまい、光を受けて成長できないので、実を結ぶことができなかったり、実を結んでも未熟なままで、最後は地に堕ちてしまうのです。

 

ルカ福音書では、イエス様がそのような富や快楽に走る危険性を警告している箇所がいくつもあります。ルカ12:13f、16:19f、17:27-28、18:18f、21:34を参照ください。

 

さて、8節と15節です。8節に「ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ」とあり、15節には「良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである」とあります。例外なく、誰もが良い人生を送りたいと願っているでしょう。良い人生とは、良い実を結ぶ人生です。

 

イエス様は、ここで神の言葉、イエス様の福音を聞く人は良い実を結ぶと言っておられます。しかし、ただ聞くだけではダメなのです。イエス様は、「立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐する」中で良い実を結べて、良い人生が歩めると言っておられます。

 

道端、石地、茨の地は自分の思いが先立っている心の状態です。しかし、良い土地は神様の思いを優先させるということ、つまり御言葉に聞き、それを守り、試練があっても忍耐して、主なる神によりすがって歩んでゆくということです。

 

御言葉を聞いて行うことは容易ではありません。しかし、「聞いて行う」というのは、「その言葉を自分の生活に当てはめるということ、つまり適用・応用するということです。聞いたことを自分の実生活の中で実践して行かなければ、内側に主の御力が蓄えられず、根を張り巡らすことも、成長すること、実を結ぶこともできません。良い心でないと、良い実を結べません。

 

ここにある「良い」という言葉は、「アガソス」というギリシャ語で、「善」、そして「益」とも訳されます。ローマ書8章28節に、「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」とあります。この「万事を益となるように」の「益」が「アガソス」なのです。

 

「神様は、イエス様を通して、わたしに最善を行ってくださる」と信じる信仰、主に対する変わらない信頼の心を持つことが、善い心を持つことであり、良い地に生かされて実を結ぶことであり、本当に素晴らしい祝福なのです。信じて、感謝し、喜びましょう。