ルカ(41) ともし火のたとえを語るイエス

ルカによる福音書8章16〜22節

今回の学びは、前回の4節から15節に関連しますので、少しだけ前回の学びの振り返りをしたいと思います。4節から15節には、イエス様が語られた「種を畑に蒔く人のたとえ」が記され、その説明がされています。「種」は、神の言葉であり、畑には4種類の土壌があって、それらの土壌に種が落ちたら、どうなったかというのが、このたとえの主要な部分です。畑の4種類の土壌とは、わたしたちの心の状態であり、その心の移り変わりによって、その都度、御言葉の受け止め方が違うことを聴きました。

 

このたとえを語ったイエス様は、8節で「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われました。なぜ大声で言われたのか。それは、このたとえが重要な教え、神様からの御言葉であるからです。このたとえは福音であり、福音を聞くとはわたしたちの心に神様の言葉が蒔かれることです。ですから、しっかり聞きなさい、受け止めなさいということです。

 

このたとえの説明部分を読んでおきましょう。12節、「道端に落ちた種とは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである」。13節、「石地に落ちた種とは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである」。14節、「茨の中に落ちた種とは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである」とおっしゃいます。最後の15節、「良い土地に落ちた種とは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである」とイエス様はおっしゃいます。

 

神様の素晴らしさは、わたしたちの心がどのような状態であっても、いつも絶えず語りかけてくださり、常に愛が注がれ続けることにあります。神様の愛の中へ絶えず招かれています。神様の御心、願いは、わたしたちがいつも神様の愛の中で、健康な心の状態で、御言葉に聞き、御言葉を守って生きてほしいということです。何故ならば、そこに人生の祝福があるからです。神様の言葉であるイエス・キリストに聞き従う時、様々な所から引き離そうとする圧力が確かにかかります。しかし、忍耐しつつ、イエス様の言葉を行う時、神様が望まれる実を結ぶことができます。それが、良い地に落ちた種が生え出て、100倍の実を結ぶという祝福なのです。神様の祝福の中で100倍の実を結ぶことができれば、わたしたちの心はどのような感情で満たされるでしょうか。喜びで満たされると思います。

 

さて、16節から18節には、イエス様が語られた「ともし火」のたとえが記されています。聖書訳によって言葉が違いますので、16節の部分だけ紹介したいと思います。まず新共同訳聖書では、「ともし火をともして、それを器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く」とあります。

 

口語訳聖書では、「だれもあかりをともして、それを何かの器でおおいかぶせたり、寝台の下に置いたりはしない。燭台の上に置いて、はいって来る人たちに光が見えるようにするのである」となり、新改訳2017では、「明かりをつけてから、それを器で隠したり、寝台の下に置いたりする人はいません。燭台の上に置いて、入って来た人たちに光が見えるようにします」となっています。リビングバイブルは現代的表現で訳されていますが、「ランプをつけてから、すっぽりおおいをかけ、光をさえぎる人がいるでしょうか。ランプはあたりを照らすように台の上に置くものです」と訳されています。

 

「ともし火」という言葉が、「あかり、ランプ」と訳されていますが、共通点は「光」です。そして、イエス様は、この「光」を救いの「喜び」を表現する言葉として用いられます。良い地に落ちた種は成長し、100倍単位の収穫を得る。大きな「喜び」ではないでしょうか。神様の愛を受けられる、イエス様を通して救いを受けるとは、心が喜びで満たされるということです。神様に愛されていること、救いを得ていること以上の大きな喜びはどこにあるでしょうか。恐れも、不安も、妬みも、悔いもすべて取り去られるのです。

 

与えられた大きな喜びを器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりする人はいないでしょう。入って来る人たちに光を見せるように、燭台の上に置くのではないでしょうか。さて、ここにあなたの人生という「部屋」があるとします。その人生の部屋に灯りがつき、喜びが満ち溢れます。はたして、あなたはこの喜びを隠すでしょうか。そうでなく、自分の部屋に大勢を招き入れ、共に喜び祝うのではないでしょうか。隠してしまったり、燭台よりも下に置くことは、神様から受ける愛、救いを喜んでいないことを表します。

 

心にともし火が灯ること、それは大きな喜びで満たされるということで、その喜びを「入って来る人たち」、つまり日々の生活の中でわたしたちが出会っていく人たち、家族や友人や関わる人たちに喜びを分かち合うということです。ともし火は、部屋を照らす生活の一部です。ごく自然なもので、何か特別なものではありません。ですから、喜びを分かち合うということも自然に出て来ることではないでしょうか。笑顔や優しい言葉や挨拶や心遣いなど、いろいろあると思います。神様の愛とイエス様による救いの喜びを隠すことなく、自然体で表すこと、それが神様の願い、御心ではないでしょうか。

 

17節に、「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない」とあります。分かりにくいと思われるでしょうが、これは明かりや光の性質、強いて言えば、神の言葉、キリストの福音の性質を表す言葉としてここに記されています。つまり、神の言葉・福音は、まず神の子イエス・キリストによって明かられました。そしてその言葉・福音は、次にイエス様の弟子たちによってこの地上で明かされてゆき、人々に知らされるようになるということなのです。イエス様の弟子たちが世界のいたる所へ出て行って、神様の愛を宣教してゆくという事です。一箇所に隠されたり、とどまる事を知らないのが、神様の言葉であり、キリストの福音なのです。

 

「だから、どう聞くべきかに注意しなさい」と18節前半にあります。これは、神様の御心・願いを、イエス・キリストの言葉を正確に捉えなさいという事です。正しく捉えないと、どうなってしまうのでしょうか。それが16節にある「器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりして、来る人々に見せない」という事になるのです。喜びを隠すということ。それは神様の御心ではありません。では、喜びを分かち合わなければ、どうなってしまうでしょうか。18節の後半です。「(喜びを)持っている人は更に(喜びが)与えられ、(喜びを)持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる」とあります。

 

ここに「持っていると思うものまでも取り上げられる」とありますが、重要な言葉です。「持っていると思うもの」とは、「持っていると思い込んでいる」ということでもあります。つまり、わたしは聖書を読み、イエス様を信じている、信仰生活、教会生活を送っていると思っていても、思い込んでいても、それは勘違いであって、主イエス様の言葉を行わないのであれば、宝の持ち腐れであって、その宝さえも取り去られるということです。

 

つまり、神の御言葉に聞き、イエス様を信じて、独りで喜ぶだけでは不十分なのです。分かち合う時にそれが何倍にもなるのです。主の言葉を聞いて、それを行わなければ、喜びは消え失せてしまうということ、つまり神様に愛され、イエス様によって救われているという喜びを人々と分かち合わなければ、自分に与えられた喜びも取り上げられてしまう。いえ、取り去られる前に、自分から喜びを捨ててしまうことになるかもしれないのです。

 

さて、19節から21節にも興味深いことが記されています。「イエスのところに母と兄弟たちが来た」と19節にありますが、あまりにも群衆がイエス様を取り囲んでいるので、肉親たちは近づけなかったのです。肉親とは、血縁関係にある人たちです。つまり、イエス様にもっとも近い人たちです。わたしたちもそのような人たちを大切にします。

 

しかし、「母上と御兄弟たちが、お会いしたいと外に立っておられます」との知らせがあっても、イエス様はすぐに会いに行こうとはされません。イエス様は逆に、21節でこのような事をおっしゃいます。「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」と。ある人には、なんとも冷たい言葉に聞こえるでしょう。

 

しかし、イエス様が実の母や兄弟姉妹たちを愛していなかった訳ではありません。ここでイエス様がわたしたちにおっしゃっておられること、それは神の国、神の家族とは、イエス様との血縁関係によるもの、血縁によって結ばれるものではなく、血縁を超えた「神の御言葉」によって結ばれる中で与えられる祝福であり、恵みであるということをイエス様はここでおっしゃりたいのです。

 

ここで大切なのは、「神の言葉を聞いて行う」ということ、ただ恵みとして聞くだけでなく、その言葉を実生活の中で行うということ、イエス様が愛してくださったように周りの人々を愛し、イエス様が祈ってくださったように人々の祝福を祈り、イエス様がわたしを忍耐してくださったように人々との関係性の中でも忍耐する。それが神様に愛され、イエス様によって罪赦され、神の家族の一員とされている喜びを分かち合う人の生き方、それが15節でイエス様がおっしゃる「立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐する」という生き方であるのではないでしょうか。そう言っても、難しいですね。ですから、喜びの源である神様の御言葉が記されている聖書を読み続けること、そして「愛と喜びを分かち合う人にしてください」と祈り続けるが重要になるのではないでしょうか。