ルカによる福音書8章22〜25節
ルカによる福音書8章も後半に入ってゆきますが、後半の3つの箇所、つまり今回の22節から25節、26節から39節、40節から56節には、イエス・キリストの力ある言葉と行為にスポットライトが当てられています。もう少し平たく言いますと、22節から25節には海・自然を支配するイエスの力、26節から39節には悪霊を支配するイエスの力、40節から56節には病と死をも支配する力がイエス様にはあるということが記されていて、その力ある言葉と行為を目の当たりにした弟子たちや民衆に対して、そして今日を生かされ聖書を通してイエス様の言葉の力を聞いているわたしたちに対して、「この方はいったいどういう方であるのか」という問いかけがされている箇所です。もっと先の9章20節で、「それでは、あなたがたはわたしを何者だというのか」というイエス様の問いかけに対して、ペトロはなんと答えたか。そしてあなたはなんと答えるかがわたしたちに個人的に問われてゆかれ、あなたは誰に信頼して生きるかが問われています。
22節から読んでゆきましょう。「ある日のこと、イエスが弟子たちと一緒に舟に乗り、『湖の向こう岸に渡ろう』と言われたので、船出した」とあります。舟に乗って湖の向こう岸に渡ろうと最初に言われたのは、イエス様です。そのようにおっしゃった理由、目的は、追々分かるようになりますが、一言で言うならば、先ほど申しましたように、弟子たちにご自分の力を示して、どのような時にもこの主イエスに信頼し、従ってゆく信仰を確立させ、彼らの信仰をより強固なものにしようとされたと考えられます。
さて、23節に興味深いことが記されています。「渡って行くうちに、イエスは眠ってしまわれた」とあります。現代では、船で旅行するよりも、飛行機で旅行しますが、皆さんは飛行機の中、つまり空の上で眠ることができるでしょうか。わたしは問題なく眠れますが、ある人はまったく眠れないそうです。何故でしょうか。やはり「大丈夫かなぁ」と言う不安があるからでしょう。イエス様は、舟に乗り込み、向こう岸に向かっている中で眠ってしまったとあります。当時、船の上で眠れるのは酔っ払いだけと思われていたそうです。ガリラヤ湖は、岸辺の山から吹き下ろされる渦巻きのような突風ですぐに大波になり、小さな舟は波に揺さぶられて転覆する危険といつも隣り合わせであったそうです。案の定、23節後半に「突風が湖に吹き降ろして来て、彼らは水をかぶり、危なくなった」と記されています。
さて、続く24節前半にももう一つ興味深いことが記されています。「弟子たちは近寄ってイエスを起こし、『先生、先生、おぼれそうです』と言った」とあります。ご存知のように、12人いた弟子たちのうち、4人はベテランの漁師です。ガリラヤ湖は、ある意味、彼らの職場であり、湖が荒れることは何百回も経験してきたはずです。他の弟子たちが「先生、おぼれそうです」と言ったとしても、シモン・ペトロ、アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとヨハネは、「いや、大丈夫。心配しなくてもすぐ収まる」と言えたのではないかと感じます。しかし、そのように考えるのはむしろ危険かもしれません。何故なら、同じような危険に何度もさらされても、怖いものは怖いわけで、何度も経験しているから今回は大丈夫とは決して言えない訳です。そう言ってしまう事が傲慢さの表れかもしれません。妻は、出産が近づくたびに、「あぁ、またあの苦痛を味わうのかぁ」と思ったと言っていました。慣れというのは、むしろ危険で怖いものであって、慣れないほうのが、いたって自然なのかもしれません。いつも神様に信頼してゆくことが大切で、自分の勘や経験に頼るのは間違いであり、いつも謙遜に生きることが生活と必要と言えるのでしょう。
さて、「先生、先生、おぼれそうです」の「おぼれそうです」と訳されているギリシャ語アポレサイは、直訳すると「滅びます」という言葉が使用されていて、ルカ4章34節で汚れた悪霊がイエス様に対して「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか」と叫んだ時の「滅ぼしに」という言葉と同じ言葉が使われています。自然界のものはとても美しいですが、自然には想像を絶する大きな力があって、時に鋭い牙をわたしたちに向けます。その巨大な力に対してわたしたちは無力であり、何もできません。自然の力に圧倒される時、命の危険を感じ、「滅びる!死ぬ!」と感じ取り、死を恐れるわけです。それもごく普通のリアクションです。
さて、弟子たちから助けを求められたイエス様は、弟子たちの叫びを聞いて、「起き上がって、風と荒波とをお叱りになると、静まって凪になった」と24節後半に記されています。イエス様の力ある言葉が風と荒波を静め、弟子たちを恐怖から解放するのです。何故そのようなことがイエス様におできになるのでしょうか。理由は簡単です。イエス様は大自然に対しても主権・権威を持たれた「主」であるからです。創世記には、父なる神と子なるイエスと神の霊が天地万物を創造され、支配されていることが記されています。創造主である神が、イエス・キリストが大自然の「主」として君臨する訳ですから、自然界はこの創造主に従うのみなのです。
今回は、詩編に記されている水や海に対して主権を持たれる神様の力について記されている箇所を紹介したいと思います。まず詩編29編3〜4節(p859)に、「主の御声は水の上に響く。栄光の神の雷鳴はとどろく。主は大水の上にいます。主の御声は力を持って響き、主の御声は輝きをもって響く。」とあります。「主の御声は力を持って」いるとあります。詩編65編8節(p897)には、「大海のどよめき、波のどよめき、諸国の民の騒ぎを鎮める方。」とありますが、この箇所は後ほどお話しします。
詩編89編9〜10節(p926)には、「万軍の神、主よ、誰があなたのような威力を持つでしょう。主よ、あなたの真実はあなたを取り囲んでいます。あなたは誇り高い海を支配し、波が高く起これば、それを静められます。」とあります。主なる神が「誇り高い海を支配し、波が高く起これば、それを静められます」と告白されています。詩編93編3〜4節(p932)には、「主よ、潮はあげる。潮は声をあげる。潮は打ち寄せる響きをあげる。大水のとどろく声よりも力強く、海に砕け散る波。さらに力強く、高くいます主。」とあります。「大水のとどろく声よりも、主の声はもっともっと力強く、主の声に勝つ被造物はないということです。
詩編104編6〜9節(p941)に、「深淵は衣となって地を覆い、水は山々の上にとどまっていたが、あなたが叱咤されると散って行き、とどろく御声に驚いて逃げ去った。水は山々を上り、谷を下り、あなたが彼らのために設けられたところに向かった。あなたは境を置き、水に越えることを禁じ、再び地を覆うことを禁じられた。」とありますが、7節の「あなたが叱咤されると散って行き、とどろく御声に驚いて逃げ去った」という言葉が、主イエス様が今回ガリラヤ湖でなさったことです。つまりイエス様には自然を治める力・主権があるということを表しています。
湖・海を静めるとは、秩序を回復するという事です。つまり、イエス様の言葉、主の声には、混沌とした世界に秩序を与える神の愛、神に力があるということです。ここで先ほどの詩編65編8節(p897)に戻りたいと思いますが、後半に「諸国の民の騒ぎを鎮める方」とあります。わたしたちの日常生活にも、時として突風が吹き荒れ、心が不安や恐れに支配されてしまう事があります。何度経験しても、慣れることはなく、毎回のように不安や恐れに押し潰されそうになります。しかし、わたしたちの心の騒ぎを鎮め、平安を与えてくださるのは神様だけであり、主イエス・キリストがそのお方なのです。
どうでしょうか。人生の危機に直面したり、危険を前にすると、神様とイエス様への信頼・信仰がどこかへ置き忘れられてしまい、自分の力でなんとか危機的状況から脱しようとすることがないでしょうか。そうなると、底なし沼に入って身動きが取れなくなります。しかし、すぐに「主よ、助けてください、滅んでしまいそうです!」と叫んで良いと思います。それがわたしたちの弱さであると思うからです。そのような弱さをイエス様は理解されていると信じます。
25節に、イエス様は、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と言われたとあります。この主の言葉は、弟子やわたしたちの不信仰さを嘆いておられる言葉ではなく、「あなたの信仰をわたしの上に置きなさい。置いて良い」という励ましの言葉であると考えられます。ルカ福音書が記された時代、弟子たちはクリスチャンであるがゆえに迫害にさらされていました。湖の上で大嵐に日々さらされている状態でした。弟子たちの心はいつも揺さぶられていました。そういう中にあっても、自然を支配する力と権威を持たれる主イエス様が共にいてくださることを信じて、主に信頼して歩むことを選び取ってゆくことの大切さを教えてくださっていると信じます。
わたしたちに必要なのは、主イエス様の言葉に聞き従い、主イエス様の後を追ってゆくこと、主の力が発揮されることを信じ、主の言葉と御業に驚いて、感動して、主を畏れて生きてゆくことだと思います。イエス・キリストは、「命じれば風も波も従う」力をお持ちのお方であると互いに言い合って、励まし合って、「この方こそ、わたしの救い主」と告白してゆくこと、それが人生の嵐にあっても、平安の中にあっても、いつもわたしたちが心の中心に置いてゆく、主への信頼、信仰ではないでしょうか。わたしたちの信仰をイエス様に置きましょう。主の言葉にわたしたちの生活に秩序を与え、心に平和を与え、生きる力を与える力があるのです。