ルカによる福音書8章26〜39節
ルカによる福音書8章の後半である22節から56節には、イエス・キリストの言葉と行いには「力」あるという共通するテーマで記されています。前回聴いた22節から25節には、自然界を支配するイエスの力が記されています。今回の26節から39節には、悪霊を支配するイエスの力が記されています。そして次回聴く40節から56節には、病と死の力を支配するイエス様の力が記されています。このイエス様の力を目の当たりにした弟子たちやわたしたちに対して、「この方はあなたにとってどういう方であるか」という問いかけがされています。
今回は、ご一緒にイエス様が一人の人から悪霊を追い出す箇所から大切なことを聴いてまいりたいと思いますが、本題に入る前に、一つの観点から見えることをお話しします。コロナ・パンデミックの中で、大久保教会の礼拝ライブ配信を通して礼拝をささげ、聖書の御言葉を聴いていた一人の女性がご自宅の近くにある教会で信仰を表し、今度の26日にバプテスマを受けられます。わたしはこの方と何十回もメールのやり取りをして励ましてきましたし、祈ってきましたので、とても喜ばしく、本当に嬉しいことです。
この方がもう3年ほど前に「イエス様を信じてバプテスマを受けるためには何をしたら良いでしょうか」と尋ねられたので、まず神様にお祈りをして、心にイエス様をお迎えし、信仰を言い表す「信仰告白」を書いてゆくことをお勧めしました。そして信仰告白という文章をどのように構成してゆくかを丁寧に説明しました。
わたしがお勧めする信仰告白の構成は、次の通りです。まず、自分の過去を振り返る、つまり、イエス様に出会う前、教会に来る前の自分の生活を振り返る、たぶんこの部分が信仰告白の中で長い部分になるでしょう。次に自分の現状について分かち合ってみる、つまり、イエス様と出会って、イエス様が自分に対して何をしてくださったか、この出会いを通してどのように自分は変えられたのか、イエス様を救い主と信じたこと、信じて歩んでゆきたいということを記す、この部分が一番重要な箇所になるでしょう。そして最後はこれからの将来の事、イエス様と共に歩んでゆきたいと表明すること、イエス様のためにどのように生きてゆきたいかを言い表すことが良いと考えています。つまり、信仰告白は、自分の過去、現在、そして未来という構成で記すと良いとわたしは考えています。
なぜこのようなお話をするのかというと、今回のルカ福音書8章26節から39節に記されている出来事は、この信仰告白の構成と非常に似通っていると思うからです。後から詳しく聴いて行きますが、27節は悪霊に取りつかれていた人の状態、どのような生活をしてきていたのかが記されています。つまり過去からイエス様に出会う直前のことです。次の28節から33節は、この悪霊に取りつかれた人がイエス様と出会って、どのように変えられたのかという現在のことが記されています。そして少し飛びますが、38節と39節には、イエス様によって救われた人がどのようなことを願い、どのように生きていったのかという未来に向かってゆくことが記されています。そのように読むと面白いと思いますし、次回の40節から56節に学びにも共通することが記されていると思います。
それでは、今回の箇所をもう少し丁寧に読んでゆきましょう。まず26節にはガリラヤ湖の厳しい面・突風と荒波を経験して向こう岸に渡り終えたイエス様と弟子たちのことが記されています。「一行は、ガリラヤの向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた」とあります。この「ゲラサ人」とは異邦人、ユダヤ人以外の人を指す言葉です。イエス様たち一行は、異邦人の土地に降り立ったということです。つまり、イエス様は神の国の福音を異邦人にまで拡大して行ったことの表れであり、わたしたち異邦人はすべて、神様の愛の対象、救いの対象であるということです。
もう一つ付け加えて説明しておきますが、新約聖書の時代のパレスチナ地方の地図を見ますと、確かに「ゲラサ」という町がありますが、ガリラヤ湖の南部の岸辺から直線距離で55キロほど南東に入った山間にこの町がありまして、今回のコンテキスト、つまり一人の人から離れた悪霊どもが豚の群れに入り込んで、その豚の群れが崖を下って湖になだれ込んで死ぬという事があり、それが50〜60キロも離れた場所からという事は考えられませんので、ガリラヤ湖の近くのゲラサ地方の町と捉えるほうが良いと思います。
さて、続く27節にイエス様に出会う前の一人の人の過去から現在までのことが記されています。「イエスが陸に上がられると、この町の者で、悪霊に取りつかれている男がやって来た。この男は長い間、衣服を身に着けず、家に住まないで墓場を住まいとしていた」とあります。この部分だけを読むと悪霊に取りつかれている男がイエス様の所へやって来たという印象を与えますが、後の箇所を読んでゆくと彼がイエス様に気付く前に、イエス様が彼をご覧になって、彼に取りついている悪霊に彼から出てゆくように命じていたことが分かりますので、順番としては、イエス様が彼に目をとめて、イエス様のほうから積極的に出会って行かれたことが分かります。
さて、この人がイエス様と出会う前の状況がここに記されています。「この男は長い間、衣服を身に着けず、家に住まないで墓場を住まいとしていた」とあります。「長い間」という言葉は、一人の人が悪霊に取りつかれていた期間の長さを強調しつつも、その悪霊を一言で追い出してしまうイエス・キリストの言葉の威力を対比させるものとなっています。「衣服を身に着けず」というのは、素っ裸のままの状態でありましょう。これは素っ裸の人の精神状態を表し、正気を失っていたということを表す言葉です。「墓場を住まいとしていた」というのはユダヤ人にとっては汚れた場所で、墓場は荒れ野にあります。そのような場所には汚れた霊が住むと考えられていましたので、つまり、この人は家族からも、社会からも完全に切り離された状況の中に置かれていたことを表しています。
少し飛びますが、29節に「この人は何回も汚れた霊に取りつかれたので、鎖でつながれ、足枷をはめられて監視されていたが、それを引きちぎっては、悪霊によって荒れ野へと駆り立てられていた」とあります。これもこの男性の置かれていた状況を表す言葉です。この地方には、彼を制御する人も、彼をつなぎ止めるものも一切なかったということです。しかし、イエス様は、そのような人に出会って行かれ、彼を悪霊・汚れた霊の世界から救い出そうと試みたのではなく、完全に救い出すのです。29節に「イエスが、汚れた霊に男から出るように命じられた」とあります。ここに主イエスの言葉の威力があります。
28節に「イエスを見ると、わめきながらひれ伏し、大声で言った。『いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい。』」とあります。この叫びは、男性の言葉ではなく、悪霊の言葉です。この箇所には「悪霊」が単数形であったり、「悪霊ども」と複数形で記されていますが、どちらであっても人を支配し、苦しめる存在に変わりはありませんので、そこまで気にかける必要はないと思います。
ここで注目したいのは、この悪霊がまずイエス様のことを「いと高き神の子イエス」と叫んでいることです。悪霊はイエス様を神の子と認めています。「かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい」という叫びは、イエス様には悪霊を追放する力があることが分かっていて、神の愛と真、正義で自分たちが滅ぶことを分かっていたということです。しかし、悪魔に対してイエス様は愛を示しません。悪霊は、悪霊であるからです。
30節で、イエス様は悪霊に向かって「『名は何というか』とお尋ねに」なったとありますが、悪霊は「レギオン」と答えます。「レギオン」とは「大勢」という意味です。「たくさんの悪霊がこの男に入っていたから」とあります。ここで重要なのは悪霊の名前ではなく、悪霊が自分の名を自白するということです。これはつまり、イエス様に対して悪霊が屈服したということ、屈服とはイエス様の力を恐れて従うということです。
31節を見ますと、イエス様は悪霊どもに向かって「底なしの淵へ行け」と命じます。「底なしの淵」とは、神様が悪霊を永久に閉じ込める場所のことです。ヨハネ黙示録17章や20章にそのことが記されています。そのような所に入れられたくないので、32節をご覧ください。「ところで、その辺りの山で、たくさんの豚の群れがえさをあさっていた。悪霊どもが豚の中に入る許しを」願ったとあります。そして「イエスはお許しになった」とあります。ユダヤ人にとって「豚」は不浄の動物です。
だからと言って、33節、「悪霊どもはその人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れは崖を下って湖になだれ込み、おぼれ死んだ」とあるのは、どうかと感じる人もいると思います。一人の人を悪霊から救い出すために豚の群れが死にます。豚飼いたちと豚の飼育をその町の事業としているのですから、その地方の人々はたまったものではありません。しかし、わたしたちを罪の支配から、罪を犯したがゆえに死を恐れるわたしたちをその恐怖から救い出すために「神の御子」がその命を十字架上で捨ててくださったということが救いを受ける犠牲になったことを覚える必要があります。
次に注目すべき点は、35節の後半の「悪霊どもを追い出してもらった人が、服を着、正気になってイエスの足もとに座っていた」という部分です。悪霊に支配されていた人がイエス様の力、愛の力によって悪霊から解放され、「服を着、正気になってイエスの足もとに座っていた」とあります。正気に戻って衣服を着て、イエス様の足もとに座っている。これがイエス様によって救われた状態です。ここまでがイエス様の力が働いた部分です。
しかし、この状態を目の当たりにした人々は喜んだのではなく、「恐ろしくなった」とありますが、残念ながらその恐れはイエス様を受け入れない力になります。「そこで、ゲラサ地方の人々は皆、自分たちのところから出て行ってもらいたいと、イエスに願った。彼らはすっかり恐れに取りつかれていたのである。そこで、イエスは舟に乗って帰ろうとされた」と37節にあります。
さて、38節から39節は、イエス様によって救われた人のこれからの歩み方が記されています。悪霊どもを追い出してもらった人はイエス様に「お供をしたい」としきりに願ったと38節に記されていますが、イエス様は彼にこう言います。39節、「自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい」と。このイエス様の言葉にどのように反応したでしょうか。「その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとく町中に言い広めた」とあります。彼には家があったこと、帰るべき場所があった事、そこで誠実にすべきことがあったことが記されています。
イエス・キリストを信じて従う者のなすべきこと、それはイエス・キリストを通して神様がなしてくださった素晴らしい救いの業を自分の家の者たち、そして町中に言い広めるということです。イエス様がなしてくださったことは、神様がなしてくださったことです。わたしたちが救われるのは、救われているのは、ただただ、神様の憐れみであり、イエス様の救いの御業によるものなのです。ただただ、イエス様を見上げて、イエス様の言葉どおりに生きてゆきましょう。そこにわたしたちの人生の喜びと平安と祝福があります。