ルカによる福音書9章10〜17節
ルカによる福音書の9章全体のテーマは「イエス様と弟子たち」ですが、もっと具体的に言いますと、キリストの福音、神の国の福音を拡大させるために、イエス様が弟子たちを訓練し、整えてゆくということです。その最初の訓練が弟子たちの派遣であったことを前回聴きました。イエス様は十二人の弟子たちを呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになり、町々村々へ派遣し、訓練して行きます。
イエス様に派遣され、福音宣教という働きを全うするために弟子たちに必要なのが「信仰」と主に「服従する」ことであるとお話ししましたが、この神様への信仰も、イエス様の言葉に聞き従う力も、すべて神様とイエス様が祝福をもって与えてくださるということも聴きました。この信仰と従う力を養うために、弟子たちの派遣があり、その派遣の際にイエス様から3つの指示が出されました。1)「旅には何も持って行ってはならない」、2)「どこかの家に入ったら、そこにとどまって、その家から旅立ちなさい」、そして3)「だれもあなたがたを迎え入れないなら、その町を出ていくとき、彼らへの証しとして足についた埃を払い落としなさい」というものでした。
特に、「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない」という指示は、神様にだけ信頼し、すべては神様が兼ね備えてくださると信じてゆくことの訓練でありました。何も持って行かない理由は、何も持っていない、あるいは必要最低限の物しか持っていない社会的・宗教的弱者と出会ってゆき、そのような人たちに寄り添い、心から仕え、神の国の福音を分かち合うためです。神様とイエス様にのみ信頼してゆくお手本を弟子たちが人々に見せてゆくことも訓練の一つであったと考えられます。
6節に「十二人は出かけて行き、村から村へと巡り歩きながら、至るところで福音を告げ知らせ、病気をいやした」とあります。イエス様の弟子たちへの信頼と弟子たちのイエス様への信仰に一致がある時に、弟子たちが赴く所々で福音を告げ知らされ、病気をいやす業が行われた。興味深いのは、10節で「使徒たちは帰って来て」とあり、弟子たちは「使徒」と呼ばれている点です。使徒とは、「特別な使命を帯びて派遣された者」という意味ですが、イエス様に忠実に、そして主イエス様と出会ってゆく人々に忠実に仕える者が、本当の意味で「使徒」と呼ばれると思います。イエス様の弟子訓練はまだまだ続きます。
10節前半に、「使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた」とあり、派遣の成果を報告します。弟子たちがイエス様の弟子として、働き人として成長してイエス様のもとへ帰ってきたことが伺えます。この報告の後、「イエスは彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた」とあります。新共同訳聖書では訳されていませんが、「カ・イディアン(ひそかに)」というギリシャ語がこの節には記されています。イエス様と弟子たちは、他の人々に気付かれないように、ひそかに退かれたのです。
では、何故ひそかにベトサイダへと退かれたのでしょうか。確かに、弟子たちに旅の疲れもあり、休息が必要だとイエス様が感じたからかも知れませんが、もう一つの理由として考えられるのが7節から9節の部分です。イエス様の噂が広まり、ヘロデもイエス様に関心を寄せるようになってイエス様に会ってみたいと思うようになり、イエス様はまだその時ではないと考え、一時的にヘロデから身を引こうと考えたとも考えられます。「噂」というものは、正確な情報ではありません。噂を広める人々の主観や偏見や憶測や悪意が入り乱れることが多いです。ですから、大切な宣教の働きを一度リセットするために、人里離れた場所にひそかに赴こうとされたのかも知れません。
しかしながら、イエス様にはもっと違った目的があったかも知れません。キーワードは、9章全体を貫く「弟子訓練」です。イエス様は、強引にというより、意欲的に弟子たちを訓練し、今後の働きのために整えてゆきます。その訓練が11節以降にあると考えられます。今回の「イエス様が5000人に食事を与える」、いわゆる「5000人の給食」の奇蹟は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書に共通して記録されている唯一の御業です。ゆえに、この箇所には弟子訓練に関して重要なことが記されているのだと思います。
さて、イエス様と弟子たちがひそかにベトサイダへと退かれたことを知った群衆は、イエス様の後を追ったと云うことが11節前半にあります。群衆の執念深さはすごいと思います。しかし、それ程までに群衆は主の救い、癒し、平安を心から求めていたのです。マタイ福音書14章14節では、イエス様は「群衆を見て深く憐れ」まれた、とあります。マルコ福音書6章34節では、イエス様は「大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れ」まれた、と記されています。「深く憐れむ」という言葉は、心のうちにある「痛み」を表します。つまり、イエス様は群衆の苦しみを自分のことのように痛まれた、同情されたということです。神様の憐れみを必要としている人々がイエス様の後を必死に追うのです。その必死さにイエス様は愛をもって答えてくださる。それがイエス様の愛の素晴らしさです。
さて、11節後半に「イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた」とあります。憐れみ深いイエス様は、それはそれで良しとしましょう。しかし、この光景を間近で見ていた弟子たちはどのように感じていたでしょうか。「ベトサイダには、先生がしばらく休もうとおっしゃったので来たのではないか。ところがどうだ、イエス様が予定をひっくり返して、群衆に教えはじめ、人々を癒しておられる。あぁ、もう疲れた。群衆を速やかに帰らせて、自分たちも早く食事をとって休みたい」というようなことを感じていたかも知れません。
ですから、12節、「日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。『群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです』」と言ったのだと思います。しかし、ここからイエス様の弟子訓練が始まるのです。
イエス様は13節で、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言うのです。弟子たちは「はぁ?」と思ったでしょう。一瞬、カチンと来たかもしれません。ですから、弟子たちは「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり」と答えます。補足として、14節に「というのは、男が五千人ほどいたからである」とあります。男だけで5千人です。女性や子どもたちの数を合わせれば、1万、1万5千人いてもおかしくありません。それだけの数の人々に食べ物を与えるのは不可能だと弟子たちは思います。
しかし、ついこの前まで弟子たちが町々で、村々で行って来たことすべては一体何であったのでしょうか。自分たちの頑張りようで出来たとでも思っていたのでしょうか。いいえ、違います。すべての業は、イエス様から授けられた信仰と悪霊に打ち勝ち、病気の人々をいやす力と権威が与えられたから成し得たことです。しかし、男だけでも5千人、それ以上の群衆を目の当たりにして、弟子たちは信仰と力と権威を忘れてしまったのでしょうか、その群衆の数の多さに怖気付いたのでしょうか、それとも心身ともに疲れ切ってしまい、主に信頼する力、主に助けを求める信仰心を失ってしまったのでしょうか。
イエス様が弟子たちの目の前にいらっしゃるのに、「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり、不可能、絶対に無理!」と思い込んでしまっている様子です。どうでしょうか、わたしたちにも同じ弱さがあると思います。
しかし、イエス様は弟子たちを叱り飛ばしません。どうしてでしょうか。イエス様は弟子たちに自分たちの無力さをとことん教えたかったのだと思います。町々で、村々であれだけの働きをしてきたのに、イエス様から目を逸らせると、また何も出来ない者になってしまうのです。どこまでもイエス様に信頼することを教えようとされるのだと思います。皆さんは、どのようにお感じになられるでしょうか。
14節ですが、イエス様は愛と忍耐とをもって「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と弟子たちに言われます。ここで大切なことは、イエス様の言葉に聞くと言うことです。15節にあるように「弟子たちは、そのようにして皆を座らせた」とあります。約100組、その倍の200組、250組はあったかもしれません。これだけの数の組を作るだけでもすごい作業です。しかし、イエス様の言葉どおりにするのです。そこに弟子としての大切さが記されていると思います。主の言葉に聞き従うことです。
主イエス様の言葉に聞き従ったら、どういうことが起こったでしょうか。16節と17節に、「すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。すべての人が食べて満腹した」とあります。「天を仰いで」というのは、祝福はすべて神様から来るということです。
もう一つ大切なこと、それはたとえ五つのパンと二匹の魚であっても、わずかであっても、自分の持ち物を主の御用のために、イエス様のもとに携えてきて、心からささげるという信仰を持つことです。イエス様に信頼し、手にしている物をイエス様におささげする時、イエス様はそれらを祝福し、何倍にでもして用いてくださるのです。
さて、最後に難しいことを話すことをお許しください。このいわゆる「5000人の給食」の奇蹟は、イエス様が宣べ伝えている「神の国」での先取りの恵みです。つまり、神様は、イエス・キリストを通して、人には決して出来ない、不可能と思えること、諦めてしまうことを、愛をもって成してくださり、救いを与え、愛で満たしてくださるということを表しています。神様には出来ないことは何一つないのです。主イエス様も然りです。
すなわち、神様は、イエス・キリストを通して何人でも、何千、何万、何億、何兆、何京の数の人にも、命の水、命の糧を与えて永遠に生かすことができるお方であるということです。「すべての人」は、ギリシャ語では「すべての民」と訳せる言葉で、すべての民に救いを与え、霊の糧で満たすことができる神であられるということです。その救いの業を、神様はイエス様を通して行うのです。
この神様から遣わされているイエス様を「あなたは何者と言うのか」という問いかけがわたしたちにされています。あなたは、イエス様を誰と告白するでしょうか。
最後に「残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった」とあります。「十二籠」とは、弟子たちの数と同じですが、つまり弟子たち・教会がイエス様の言葉を携えて世界中に出かけてゆく宣教を意味します。「主イエス様は、わたしの救い主である」と信じる者たちがイエス様の言葉に聞き従い、主と人々に忠実に仕えること、主イエス様への信仰が求められています。
最後にフィリピの信徒への手紙4章13節にある使徒パウロの言葉を読みたいと思います。「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」 アーメン