ルカ(47) 弟子たちのために祈るイエス

ルカによる福音書9章18〜22節

今回の箇所ですが、当初、わたしは18節から27節に聴くことを考えていましたが、準備している段階で、一回の学びでは終える事は難しいと判断しました。ですので、今回は18節から22節まで聴く事とし、次回は23節から27節に聴きたいと思います。

この9章は、イエス様と弟子たちとの関わりがテーマであり、イエス様が弟子たちに神の国の福音を伝えさせるための力を与え、地域の町々、村々へ派遣することを通して彼らを訓練し、整えてゆくことが記されています。

そのような中で、前回聴きました「5000人の給食」も、「あなたがたの手で食べ物を与えなさい」と弟子たちが仕える者として仕えることを教え、その責任を持つことのチャレンジをしつつ、イエス様が祈って祝福して分け与える奇蹟を体験させ、イエス様から受け取ったパンと魚を配餐することを通してイエス様の凄さを感じ、イエス様をさらに強く信じるようにさせられ、弟子として主と人々に仕えるという精神が培われたと思います。

これまでの約2年間にわたってイエス様に従い、イエス様の言葉には愛と権威があり、成すすべての業に救いの力があるという奇蹟・御業を何度も体験してきましたが、そのような中で彼らの信仰も徐々に確立し、弟子としてのアイデンティティーも確立していったと思われます。しかし、彼らの信仰も、アイデンティティーも、自分たちが確立していったものではありません。イエス様の愛と忍耐と祈りがあったことを覚える必要があります。

そういう意味においても、18節前半の「イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた」という言葉、わたしたちが何気なく読み過ごしてしまうようなこの言葉には、大きな意味と目的があると今回読みました。すなわち、イエス様がひとりで祈っておられた時、何を祈っておられたのか。それは続く「弟子たちは共にいた」という言葉から、イエス様は「弟子たちのために」、ひとりで祈られていたという事が示されていると思います。このことをもう少し具体的にお話ししたいと思います。

ルカ福音書においてイエス様が祈られる時というのは、すべて重大なステージに上がる前の準備の段階、あるいはステージに上がった直後に必ずあると言って良いほどです。それらを列挙してみたいと思いますが、まずご自分がバプテスマを受ける前(3:21)、巡回伝道を本格的に始める前(4:42)、最初の罪の赦しを宣言する前(5:16)、十二弟子を選び出す前(6:12)、弟子たちの前でイエス様の姿が変貌する前(9:28-29)、弟子たちに祈り(主の祈り)を教える前(11:1)、十字架の受難を受ける前(22:41)、十字架上で息を引き取る直前(23:46)には神様に祈られます。

ですので、この18節において、イエス様がひとりで祈られるということは、重大な段階に上がる前の準備の時であったということが分かると思います。そして、「弟子たちも共にいた」ということは、つまりイエス様の祈りは弟子たちの信仰がさらに前進するための祈りであったと考えてもおかしくないと思います。

では、このイエス様の祈りの次に何が来るでしょうか。そうです、「イエス様を誰と言うか」という弟子たちの告白の箇所が来ます。ここには弟子たちを代表するペトロの信仰の表明があります。

要するに、ペトロと弟子たちの信仰告白、信仰の表明は、彼らの思い、信仰だけからくるものではなく、彼らのために祈るイエス様の祈り、執りなしの祈りが背後にあったということを表しています。もう少し突っ込んだ話をすると、コリントの信徒への手紙一の12章3節に「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である」』とは言えないのです」とあるように、弟子たちがイエス様を誰としっかり正確に告白できるように、聖霊の助けを神様に祈り求めたということが言えます。

では、福音書の記者ルカは、何故このような記し方をするのでしょうか。それは、弟子たちが傲慢にならないようにするためであったと考えられます。すなわち、弟子たちが、そしてわたしたちが、自分から救いを求めて、自分の決断でイエス様を信じるようになって、自分の意思でイエス様に従っていると言う傲慢な思いにならず、いつもイエス様の祈りが自分の信仰生活の背後にあるということを覚えさせて、いつも謙遜に歩ませるためであったと考えられます。

弟子たちが、そしてわたしたち一人ひとりが、主に日々信頼して歩み、主の憐れみと恵みのうちに歩めることができている事を喜び、感謝、絶えず恵みを受けて生きることが重要なのだと感じさせられます。わたしたちの日々の生活も、信仰も、祝福も、イエス様とイエス様を信じる人々(兄弟姉妹)の祈りに支えられ、聖霊によって守られているということをいつも覚えて歩み続けたいと思います。

さて、そのようなイエス様の祈りの後、弟子たちに対して「『群衆は、わたしのことを何者だと言っているか』とお尋ねになった。」とあります。弟子たちは、ヘロデが噂で聞いた通りのこと(9:7-8)を19節で言います。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」と。

バプテスマのヨハネはイエス様の先駆者であり、この時にはすでにヘロデによって処刑されていましたが、イエス様の働きがあまりにも素晴らしかったので、ヨハネが生き返ったという噂があったのでしょう。他の人々は、イエス様のことを預言者エリヤの再来だと言っていると言います。エリヤは紀元前9世紀ぐらいに神様に仕えた預言者で、イスラエルに社会的、そして宗教的革命を起こした人です。イエス様がローマからイスラエルを解放し、革命を与えてくれる預言者と捉えていたことが分かります。それ以外の人々はイエス様のことを「『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』」と言います。これらが、群衆がイエス様に対して抱いていたイメージ、願い、期待であったと思われます。

しかし、あれだけイエス様の権威ある言葉・教えを聴いて感動し、数々の癒しや悪霊が追い出されるイエス様の力を目にして驚嘆し、またわずかなパンと魚で腹いっぱいに満たされても、群衆はイエス様を「わたしたちのメシアだ」とは言いません。何故でしょうか。自分たちが抱くメシアに対するイメージや期待とイエス様の名さることが異なっていて、イエス様に自分たちの願いを満たすものを見出せなかったからです。イエス様を信じるという恵みは、自分の思い、願い、期待、求めを捨てることなしには与えられない神様からの賜物であると思わされます。

しかし、そういう中で、イエス様は次に「弟子たち」に尋ねられます。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」と。イエス様に対して弟子たちがもっているイメージとか、願いとか、期待を言うのではなく、彼らのイエス様に対する信仰を言い表すことを求めます。そのことを引き出すためにも、聖霊の励ましがあるようにイエス様は祈られたのです。

その主イエス様の祈りに神様が答えてくださる形で、ペトロはイエス様を「神からのメシア(キリスト)です。」と信仰の表明をします。マルコでは「あなたは、メシア(キリスト)です」としっかり主語をつけて、イエス様が「メシア・キリスト」であると告白します。このように信仰を告白できたのは、イエス様の祈りと聖霊の励ましがあったからです。

信仰告白とは、「わたしにとってイエス様はどのようなお方であるのか」を告白することです。ペトロは、イエス様に対して「あなたは神からのメシア・キリスト」と告白します。「イエス様、あなたは神様から遣わされたわたしの主であり、救い主、贖い主です」と告白します。わたしたちはイエス様に対して、どのように告白するでしょうか。キリストのからだなる教会も、「イエス・キリストこそ神から遣わされた救い主です」という信仰の告白の上に建てられている教会であることを覚えて、そのように告白し続けて行きたいと願います。

さて、イエス様は弟子たちにそのようにご自分への信仰を言い表すように求めますが、21節をみますと、「イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じ」た、とあります。何故でしょうか。何故ならば、この信仰告白は神様からいただいた恵みであり、イエス様の祈りに励まされて与えられた告白であって、イエス様を救い主と信じない人たちには分からないからです。

さて、続く22節には、「神から遣わされたメシア・キリスト」についての真実が記されています。すなわち、メシアはどのような目的を持ってこの地上に神から派遣されたのかが記されています。イエス様は次のように弟子たちにおっしゃいます。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」と。

「人の子、つまり神から遣わされたメシア・キリストは、必ず多くの苦しみを受ける」、もうこれだけでも群衆が抱く期待と真っ向に反しています。ここにある「必ず」という言葉と最後の「ことになっている」という言葉は、これが神様のご計画であり、神様のご意志は必ず実現するという意味です。このご計画は、旧約の時代にすでに約束され、予告されていたことでもあることが詩編22編、イザヤ書53章から分かります。

次に「長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され」るとイエス様は予告されます。長老は政治を司り、祭司長は宗教を司り、律法学者は法律を司る権力者です。彼らの総力で神様から遣わされたメシア・キリストが排斥されて殺される。なぜ排斥されるのか、それはイエス様が彼らの期待にそぐわず、彼らの意に反し、都合の悪いことを教えて、自分たちの影響力を弱めようとする者に見えたからです。

しかし、イエス様は「三日目に復活することになっている」と言われます。先ほど申しましたように、イエス様の復活は神様のご計画にあることで、神様がイエス様を確実に甦らせられるという信頼が述べられています。旧約聖書で「三日」とい言葉がある所では、苦難にある義人の状態を神様はそのままにしておかず、苦しみから救いへと移し出す時に用いられます。(ホセア6:2、列王下20:5,8、エステル5:1など)イエス様の神様に対する信頼がご自分の死と復活の予告をする中でもあるのです。わたしたちも常に神様に信頼し、祈る者と作り変えていただきましょう。