ルカによる福音書9章28〜36節
ルカ福音書9章をご一緒に読み進めていますが、この9章はルカ福音書に複数ある頂点の一つであると言われ、とても重要な章と位置付けられています。重要な点を少し挙げますと、まずこの9章からイエス様による本格的な弟子訓練が始まります。病気を癒す力と権能を授けて12弟子たちを派遣されたことも、弟子たちで5000人に食べ物を分け与えなさいと言ったことも弟子訓練の一環です。イエス様は、弟子たちの成長のために神様のお守りと聖霊の導きと励ましを絶えず祈り求めました。彼らがイエス様を「(あなたは)神からのメシア・キリストです」と告白できるように聖霊に満たされるように祈られました。
この9章のもう一つの重要な点は、イエス様がご自分の死と復活を予告されたことです。イエス様は、ご自分が苦難を受ける予告を3回しましたが、そのうちの2回がこの9章の22節と44節に記録されています。そして、この9章の51節には、「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」とあります。つまり、この9章からイエス様の足はエルサレムへ向かい、十字架への道が始まったと言うことが記され、その十字架の道を一緒に歩もうと弟子たちを招き、励ますのです。
さて、先週の学びの中で完全にスルーした27節のイエス様の言葉についてお話しします。イエス様は弟子たちに対して「確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまでは決して死なない者がいる」と言われました。この難解な言葉を前回は「難しい」とだけ言い放って触れませんでしたが、その後様々な註解書を読みますと、このイエス様の言葉は、続く28節から36節の出来事への橋渡しの言葉であるようです。
「ここに一緒にいる人々の中には」とある「人々」とは、弟子のペトロ、ヨハネ、ヤコブのことで、彼らはイエス様を通して何度も神の国を垣間見ます。「神の国」とは、「神様の支配のただ中」という意味がありますが、救い主イエス様が弟子たち・わたしたちと共にいてくださっている自体が「神の国の只中にいま生かされる」という意味でもあります。ペトロたちは、28節から起こるイエス様の変貌という出来事を通して、神様の栄光の中に置かれる経験をします。共におられるイエス様がメシア・キリストであることを彼らは実体験し、神様のご臨在の中に自分たちが今いることを体験することで来るべき神の国を垣間見ます。
「神の国を見るまでは決して死なない者」とは、生前からイエス・キリストを救い主と信じ、神様から救いを受ける人々のことです。イエス様による罪の赦しと罪と死からの救いによって、神の国の中へそのまま招き入れられ、大きな希望が与えられるので、死を恐れずに生きられます。そういう弟子たちが、後のペンテコステの時に、聖霊に満たされ、福音を全世界に宣べ伝える者として派遣されてゆきます。確かにイエス様の十字架の死を通してイエス様から離れる人も弟子たちの中にいましたが、復活のイエス様に再び出会わせていただき、生きて主に忠実に仕える人たちに神様の霊であるご聖霊が豊かに注がれ、神の国へと招かれ、魂の死を経験しない人たちがいるとイエス様は27節で言っているようです。まだ分かりづらいと思いますが、27節についてはここで終わりたいと思います。
さて、28節から読み進めてゆきましょう。28節に「この話をしてから八日ほどたったとき、祈るために山に登られた」とあります。「この話」とは、イエス様がご自分の死と復活について最初に話したことです。「八日ほどたったとき」とは、その話をされてから経過した日数です。ここにイエス様は「山に登られた」とあります。そして、その目的は「祈るため」であったと記されています。山は、神様の啓示を受ける場所です。イエス様は神様からの啓示を受けるために、イエス様はしばしば山に登られます。
さて、イエス様が祈られる時は、イエス様の地上での歩みにおいて重大な段階、ステージに上がる前の準備、あるいはその直後であります。そのことについては2回前の学びでもお話ししました。ですので、ここでイエス様が山に登られて祈られたということも重要な段階の手前であったという察しがつくと思います。その重大なステージとは、先ほど申しましたエルサレムへの道、十字架への道が始まるということです。
そのような重要な時に、イエス様は「ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを(山へ)連れて」ゆきます。なぜこの3人なのか。彼らは、8章に記録されているヤイロの娘をイエス様が蘇生させた場にもいました。イエス様は、彼らを弟子たちの中の、そしてその後のキリスト教会のリーダーとして整え、用いるために、神様のすばらしいご臨在の場を体験させるために彼らを選んで連れて行ったと考えられます。
さて、イエス様が「祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」と29節にあります。イエス様のように、神様と祈りを通してつながると、神様の平安が心に与えられますので、顔の表情も穏やかになります。顔の様子、表情が変わらないというのは、神様とまだ戦っているという証拠でありましょう。服が真っ白に輝くとありますが、神様から遣わされた天使たちは真っ白い衣を来ています。真っ白い服は、天国の住民を表すそうですが、イエス様の服が真っ白く輝いたという現象は、イエス様が神様から遣わされた真の救い主であることを指し示していると言えます。しかし、なぜイエス様の顔の様子、服は真っ白に輝いたのでしょうか。それは、この祈りを起点にイエス様の十字架の贖いの死の旅が始まることを強調しているようです。
30節と31節です。祈りの最中か、その後か、モーセとエリヤがイエス様の所へ来て、「イエスと語り合っていた」とあります。何を話し合っていたのか、31節に「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」とあります。モーセを通して神様は律法を民に与えました。エリヤは神様の言葉を取り継いだ預言者の代表格です。すなわち、彼らは旧約全体を代表する者としてここに登場し、旧約の時代に約束された神様のご計画がイエス様によって実現されてゆくことを示し、その最終確認をしていたと捉えることができると思います。イエス様の贖いの死は神様のご計画によるものであり、旧約聖書の時代から続く人間救済の業であるということです。
とても興味深いのは、「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」という中でイエス様の「最期」という言葉がありますが、この「最期」のギリシャ語は「エクソダス」という言葉が使われています。神様がエジプトの苦役からイスラエルの民たちを救済し、約束の地へ導くことを記録した書は、日本語では「出エジプト記」ですが、英語では「エクソダス」です。つまり、新約の次第におけるイエス・キリストの十字架の死というのは、人類を罪の苦しみから解放し、イエス様のご復活というのは、わたしたちに新しい命を与え、神の国に入れるためであることを物語っています。
イスラエルの民をエジプトから導き出す際に、傷のない小羊をほふり、その血を家の玄関に塗ることによって、神様がその家の中にいる者たちを過ぎ越され、エジプトの家の初子を撃たれましたが、イエス様が神様から遣わされて贖いの供物、傷のない小羊として十字架上で死に、その贖いの死とその血潮によってわたしたちの罪は贖われた、神様はわたしたちの罪を過越してくださった。それが救いへの福音なのですが、その最終確認がイエス様とモーセとエリヤで話し合われていたということがここに記されていることです。
十字架の苦難を前にして、イエス様はゲッセマネの園で祈られました。その時もペトロたちを連れて行きましたが、イエス様が祈っておられる時、ペトロたちは完全に眠ってしまいました。しかし、この9章の祈りの時は、「ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえて」いたとあります。「ひどく眠たかった」のギリシャ語を直訳すると「まぶたが重かった」となりますが、それを弟子たちは「じっとこらえていた」のです。直訳は、「じっと目を覚まし続けていた」となります。
わたしたちは、時に肉体的、精神的、信仰的な疲れを日々の生活の中で覚えます。その時に「睡魔」、サタンの誘惑が襲いかかります。しかし、じっと目を覚まし続けると、神様の栄光を拝することができます。確かに一人では寝入ってしまったでしょう。しかし、ペトロたちは互いを励まし合って、互いを突き合って、一緒に目を覚ましていたと思われます。わたしたちも同じように互いに励まし合い、信仰を突き合い、共に信仰の目を覚ましているようにしましょう。
さて、33節にはペトロが突拍子もないことを言っている箇所があります。「その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。『先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。』ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである」とあります。
わたしたちも、目前で現れている神様の栄光の意味が分からないと、とんでもない勘違いをして、ペトロのように「仮小屋を三つ建てる」と言うでしょう。ペトロは、ここでイエス様とモーセとエリアを同等に考えて、仮小屋を三つ建てると言っていますが、それは間違いです。
わたしたちが建てるべき建物は一つだけです。それは救い主イエス・キリストのからだなる教会です。共に神様を礼拝し、共に御言葉に聴き、共に祈り、交わりを通して共に成長してゆく、そしてイエス様を救い主と告白してゆく場所、教会を建てることが大切なのです。
続く34節に、「ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた」とあります。「雲」という言葉が聖書に出てきますと、それは神様が現実に現れる時に用いられる言葉です。例えば、出エジプト記24章15節以降を読みますと「モーセが山に登って行くと、雲は山を覆った。主の栄光がシナイ山の上にとどまり、雲は六日の間、山を覆っていた。七日目に、主は雲の中からモーセに呼びかけられた」とあります。他は、出エジプト記40章34〜35節を参照ください。
雲の中に包まれてゆく弟子たちは恐れます。しかし、その雲の中で神様の言葉がはっきりと伝えられるのです。35節と36節に、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた」とあります。わたしたちが常に聴くべきお方はイエス・キリストだけ、その言葉だけです。
しかし、36節の後半には、「弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった」とあります。神様という存在がはっきりと自分たちに現れ、その神様から直接的な啓示があったことに大きな恐れを抱いたのでありましょう。人生初めての大事件、驚くべき経験ですから、恐れたのは当たり前のリアクションでありましょう。しかし、ペンテコステの時に神様の霊に満たされた彼らは、大胆にイエス・キリストの福音を宣べ伝えます。わたしたちも聖霊に満たされて、イエス様が救い主であることを告白し続けましょう。