ルカによる福音書9章37〜43a節
引き続き、ルカによる福音書の9章に聴きます。この9章は、イエス様による弟子訓練の章であると繰り返しお伝えしておりますが、十二人の弟子たちを神の国の宣教のために地方へ派遣する際、イエス様は彼ら一人ひとりに「あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった」のです。そして、「十二人は出かけて行き、村から村へと巡り歩きながら、至るところで福音を告げ知らせ、病気をいやした」と6節に記されています。弟子たちは、イエス様から授かった力と権能をフルに用いることができたのです。
しかし、今回の箇所ではどうでしょうか。彼らはその力を用いることができなかったのです。何故でしょうか。素朴な疑問です。それに対して、イエス様のリアクションはどうでしょうか。非常に興味深いことが多く記されている箇所をご一緒に聴いてゆきます。
まず、37節に「翌日、一同が山を下りると、大勢の群衆がイエスを出迎えた」とあります。「翌日」というのは、その前の28節から36節までの出来事、すなわちヘルモン山に登って祈っていたイエス様の顔の様子が変わり、服は真っ白に輝き、その後、神様の栄光の中で、イエス様とモーセとエリヤの3人がエルサレムでイエス様が遂げようとされている救いの御業、すなわち罪にある人々の救いのために十字架上で贖いの死を迎えることの確認をしていた、その栄光に満ちた光景を弟子のペトロ、ヨハネ、ヤコブの3人が見た日の翌日という意味です。すなわち、前回の箇所と今回の箇所には関係性・関連性があるということを示しています。
少なくとも二つの関連性があると思います。一つは、神様の栄光の一端を垣間見るということです。二つ目は、それを皆が驚くということです。3人の弟子たちは、山の上で神様の栄光に満ちたイエス様を見て驚きます。山の下でも、弟子たちと群衆たちは、イエス様が悪霊に取りつかれて大いに苦しむ一人の人から悪霊を追い出し、その栄光に満ちたイエス様の力を目の当たりにして驚きます。「人々は皆、神の偉大さに心を打たれた。イエスがなさったすべてのことに、皆が驚いていると」と43節に記されているとおりです。
この関連する二つの箇所、28節から34節までのイエス様の変貌の箇所と37節から43節までのイエス様が悪霊に取りつかれた人をいやす箇所のブリッジ・架け橋となっているのが、35節と36節にある、「『これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け』と言う声が雲の中から聞こえた。その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた」という神様の言葉です。神様が雲の中からイエス様の弟子たちにこう言うのです。
「イエスはわたしの子、救い主としてわたしに選ばれて地上へ派遣された者、このキリストにのみ聞き従いなさい」と神様は招きます。このイエス様を信じて従う者は、神様から祝福を受けます。しかし、祝福を受けるためにつながっていなければならないイエス様につながらず、従わないならば、祝福を受けることはできない、だから、イエス様に聴き続ける必要がわたしたちにはあるのです。
さて、この二つの箇所の関連性を分かちましたが、実はこの二つの箇所には大きなコントラスト・対照的なことが一つ記されています。山の上では高く引き上げられた世界が描写されていますが、山の下ではやりきれない現実の苦しみの世界が描写されています。山の上では神様の栄光に包まれていますが、山の下では苦しい現実に包まれ、制御不能な苦しみにのたうち回る人がいます。
しかし、この二つの箇所にもう二つの共通点があります。一つは、どちらにも弟子たちがいるという事、もう一つはイエス様がおられるという事です。この弟子たちとイエス様に共通すること、それは、弟子たちはイエス様によって現在訓練中であるという事です。訓練の中ですから、まだ未完成という事でありますし、失敗はつきものです。
その言葉どおり、九人の弟子たちは、「あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能」をイエス様から授かり、成功例もたくさんあったのに、今回はその力を発揮することができなかったのです。弟子たちにとっては、悔しさや恥ずかしさがあったのではないでしょうか。ですから、イエス様と三人の仲間の弟子たちが山から降りて来た時、彼らを出迎えることができず、「大勢の群衆がイエスを出迎えた」と37節の後半にありますが、群衆の後ろに身を置く、強いて隠すしか方法がなかったのではないかとも考えます。
さて、山の上で、イエス様がエルサレムで成し遂げようとされることをモーセたちと確認している間、麓では何が起こっていたのかが38節から40節に記されています。「そのとき、一人の男が群衆の中から大声で言った。『先生、どうかわたしの子を見てやってください。一人息子です。悪霊が取りつくと、この子は突然叫びだします。悪霊はこの子にけいれんを起こさせて泡を吹かせ、さんざん苦しめて、なかなか離れません。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに頼みましたが、できませんでした。』」とあります。
ここで、「一人息子」であることが強調されています。この父親にとって、息子はかけがえのない存在、宝、希望であったのでしょう。どうにかして救ってほしいと訴え、懇求します。この箇所を読んで、この息子は癲癇(てんかん)、つまり、けいれんや意識を失う発作を繰り返す症状は脳に疾患がある病気と結論づける現代人もいますが、イエス様が地上を歩まれた時代は、悪霊に取りつかれていると考えられ、恐れられていました。
この父親は、イエス様に「先生、どうかわたしの子を見てやってください」と叫びます。この「見てやってください」というギリシャ語は、「顧みてください」という意味の言葉です。すなわち、「気にかけてください、心配してください」という意味で、「憐れんでください」と訳しても良い言葉だと思います。この父親は神様の憐れみを求めたのです。
42節前半に、「その子が来る途中でも、悪霊は投げ倒し、引きつけさせた」とあります。悪霊の凶暴性、悪霊の抵抗力の大きさがここで強調されています。だから、麓にいた九人の弟子たちは、この子から悪霊を追い出せなかった、彼の病をいやせなかったのでしょうか。そうではないと思います。もし悪霊の力が強ければ、イエス様が弟子たちに授けた力が弱いということになります。ですので、弟子たちの信仰に課題があったと考えるのが自然でありましょう。では、どのような課題が考えられるのか。それは、イエス様から授かった力であるのに、自分の力のように思い込むおごり高ぶりがあったのだと思います。
父親の叫び、嘆願を聞いたイエス様は、「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか。」とお答えになります。とても衝撃的な言葉であると感じるのは、わたしだけでしょうか。また、ここでイエス様が向かって言われる「あなたがた」とは誰を指すのでしょうか。一方では弟子たちであるように聞こえますし、もう一方では群衆や息子の父親であるようにも聞こえます。どちらでもあると思います。
ただ、イエス様はここで「お前たちはダメだなぁ、信仰がまったく足りないなぁ」とダメ出しをしているのではなく、その時代に生きる人々が神様から離れ、いかに混乱しているかという現状を見て嘆かれた言葉であると思います。「なんと信仰のない」という言葉は、人々がいかに神様から遠く離れて暮らし、その中でもがき苦しんでいるのかという主の憐れみを表す言葉です。
「よこしまな時代」の「よこしま」とは、他の聖書訳では「曲がった」、「歪んだ」と訳されています。リビングバイブルでは「手に負えない」と訳されていますが、神様とイエス様の手に負えないものは何もありません。また、「時代」とは、その時代に生きる人々を指します。ですので、よこしまな時代とは神様に対して歪んだ性格を持った人々、歪んだ信仰を持って生きる人々ということになると思います。
歪んだ性格とは、素直でない、自我が強いということでしょう。曲がった信仰とは、まだどこか自分の知恵や力に頼ってしまっているわたしたちの弱い部分、高ぶりがある、従順でないということです。しかし、そのような弱さを持つわたしたちの只中にイエス様は来てくださり、「わたしを信じなさい」と救いの御手を差し伸べてくださるのです。
次は、「いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか」という主の言葉です。誤解を招くような言葉に聞こえますが、これはイエス様の堪忍袋の緒が切れる、忍耐できなくなる、「もうどうにでもなれ!」という意味の言葉ではありません。その反対です。すなわち、「あなたがたの弱さを我慢しよう」と言われたのです。ですから、41節の後半、「あなたの子供をここに連れて来なさい」と言われ、42節後半、「イエスは汚れた霊を叱り、子供をいやして父親にお返しになった」のです。
「我慢」というギリシャ語には、忍耐するという意味だけでなく、他にも「支える」、「持ち運ぶ」という意味があります。イエス様というお方は、救い主です。すべての人の救い主です。この救い主が、あなたに、わたしに、わたしたちに対して、「あなたの弱さを支え、あなたを持ち運ぶ」と言ってくださるのです。
それは、イザヤ書46章3〜4節の神様の約束がイエス様によって成就したということも言えると思います。すなわち、「あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。(だから、)わたしが(今後もあなたたちを)担い、背負い、救い出す」と約束してくださいます。わたしたちは、それほどまでに神様に愛され、イエス様に大切に思われている存在なのです。嬉しいですね。感謝ですね。