ルカ(57) 永遠の命を受ける方法を示すイエス

ルカによる福音書 10章25〜37節

今回の箇所は、有名な「善いサマリア人の譬え」です。律法の専門家からの質問に対して主イエスご自身が返答するのではなく、専門家自身に答えさせて、その後に主が具体的なことを教えられ、教えられたように生きなさいと招かれる箇所です。しかし、わたしたちには主の教えのように実際に生きられない弱さがあるので、イエス様を信じて、イエス様に助けられて生きてゆくことを選びなさいという招きであると思います。何度もお聞きになられた箇所かもしれませんが、今日、わたしたちに必要なことを聴いてゆきましょう。

 

25節に、「すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。『先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。』」と質問したことが記されていますが、最初に「すると」とあります。これはこの箇所の前の21節から24節の内容が今回にも関連があるということを示しています。すなわち、イエス・キリストを通して神から与えられる神の国の福音を「知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。」とイエス様は神様に祈られましたが、早速、今回の箇所に「知恵ある者・賢い者」の典型が登場します。それが律法を熟知した「律法の専門家」です。

 

しかし、この人にはイエス様が神様から遣わされたメシア・救い主であることが隠されていました。自分は律法の専門家という自負心からくる傲慢さゆえにイエス様をメシアと認めることができないのです。そういう人がイエス様に「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と質問するのです。「イエスを試そうとして」とありますから、この人物がイエス様のことを「先生」と認めていたとは到底考えられません。

 

さて、「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」という質問は、「何をしたら、神の国で生きられるでしょうか」という問いかけと同じです。ここでの注目点は、「何をしたら」という人間の「行い」に力点が置かれていることです。人は、その人生の中で何をすれば神の国、天国へ入れられ、永遠の命を得られるのか。ユダヤ人たちはいつもそのことだけを考え、律法を守れば、永遠の命を受け継ぐことができると信じ、日夜そのことに努力を重ねて生きていました。

 

その中心的リーダーの一人が「律法の専門家」であったわけです。この人は、永遠の命を受け継ぐ方法を持っていなかったから、イエス様に質問したわけではありません。彼なりに律法に基づく答えをしっかりと持っていました。ですから、そのことを知っておられるイエス様は、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と逆に質問し、彼自身に「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」と回答させます。

 

それに対してイエス様は、「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」と言われます。「律法を基とする完璧で模範的回答、理想的回答だ。それを実行しなさい。そうすればあなたが望む永遠の命が得られる。」と言われます。

 

「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」は、旧約聖書・申命記6章5節にある律法ですが、4節から読みますと、「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」とあります。興味深いのは、オリジナルの申命記にはない「思いを尽くして」という言葉がルカ福音書には記されていることです。

 

当時のユダヤ社会では、「心を尽くして」とは感情を尽くして、「魂・精神を尽くして」とは命を尽くして、「力を尽くして」とは財力を尽くして神様を愛し、仕えるべきと捉えられていたようです。しかし、感情は浮き沈みなど不安定さがあります。命には限りがあり、すべての人が健康とは限りません。また、みんなが財力を等しく持っている訳ではありません。良い時も悪い時もあります。

 

しかし、神様を愛する「思い」はみんな平等に神様から与えられています。その思いをもって生きてゆく時に、主が寄り添って助けてくださり、思いを尽くして神様を愛することができ、人の思いを遥かに超えた仕え方が主の励ましの中で出来るようになります。

 

少し横道に逸れますが、ユダヤ人の大半は律法を守ることは実行可能と考えていますが、それはただの「理想」だと思います。律法学者たちは、自分たちは律法を落ち度なくしっかり守っていると主張しますが、彼らは理想的な律法の表面だけを守っているだけにすぎないとイエス様は捉えます。確かに、神様に対して祭儀的には律法をしっかり守っていたでしょう。そのことを通して神様を愛していると思っていたでしょう。しかし、表面的な意味合いは正確に理解していても、律法の奥義、神様の御心をしっかり理解していなかったのです。それがユダヤ人以外の隣人に対する差別意識に表れています。

 

「律法には何と書いているか」というイエス様の問いかけに対して、律法の専門家は、「また、隣人を自分のように愛しなさいと書いてあります」と答えます。これはレビ記19章18節の戒めを持ってきています。しかし、この戒めを自分たちの都合の良いように解釈していたと思われます。

 

何故ならば、レビ記19章全体を読みますと、隣人とはユダヤ人のみならず、パレスチナ地方に生きる異邦人たちも入っていたことが分かります。しかし、その後のユダヤの民族主義の高まりと共に、最初は含まれていた他民族を「隣人」という枠組みから排除してゆく過程をたどったようです。ですので、イエス様の時代には、隣人はユダヤ社会の人々のみという考えがユダヤ社会では当たり前になっていました。

 

この律法の専門家は「自分は主なる神のみを存在をかけて愛し、隣人を自分のように愛している」と思い込んでいたのでしょう。そういう人に対して、イエス様が「それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」というので、彼はイエス様から「あなたは律法を守っているようで実際は守っていない」と嫌味を言われたと感じたのでしょう。29節にあるように、「彼は自分を正当化しようとして、『では、わたしの隣人とはだれですか』と言った」のです。

 

さて、ここからが譬えを用いたイエス様の教えです。「イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。

 

ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』」と語ります。

 

「ある人」とはユダヤ人と考えるのが自然でしょう。その人がエルサレムからエリコまでの20数キロの砂漠同然の荒れ地で追いはぎにあい、持ち物をぶん取られるだけでなく、半殺しのような状態にされて地面に横たわっています。エリコという町は神殿で神に仕える祭司やレビ人たちが多く住むベッドタウンであったと言われています。

 

祭司とレビ人は追いはぎにあった人のそばを通りかかりますが、その人を見ると道の向こう側を通って過ぎ去ってしまいます。彼らは、律法を守る人々の良き模範と自負する人々でありましたが、見て見ぬ振りをしてその場を去ったとイエス様は言うのです。

 

しかし、次にそこを通りかかった人は違いました。この人は「サマリア人」、いわゆるユダヤ人の仇と目される民族の一人ですが、この人は地面に横たわって苦しんでいる人を見て憐れに思って、近寄り、応急処置を施し、自分のろばに乗せ、宿屋へ連れて行って介抱をし、翌日には宿屋の主人にお金を渡して介抱の依頼をしたとイエス様は言うのです。

 

これはイエス様が語られた譬えで、フィクションですが、重要な指摘と教えが含まれています。イエス様を試みようとした者に対して、イエス様は「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と尋ねます。ユダヤ人はユダヤ人の隣人にならなかったのです。異邦人がユダヤ人の隣人になっていったのです。

 

イエス様がここではっきりさせて、わたしたちにしっかり教えたかったことが幾つかあります。まず律法を守っていると自負する人に限って律法を守っていない、自分の都合を優先し、自分によって好都合の人だけを自分の隣人とし、都合の悪い人、関心のない人たちを排除している。そう言う考え方は間違いをしている、「あなたの隣人を愛せよ」という戒めは、敵も味方も関係なく、分け隔てなく愛せよという神様の思いであり、御心である。そもそも「誰がわたしの愛すべき隣人か」と考え、そのように問うことも間違っているとイエス様は指摘するのです。

 

イエス様に、「あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と尋ねられた人は何と答えたでしょうか。37節に「律法の専門家は言った。『その人を助けた人です。』」とあります。この答えは正しいのです。ですからイエス様は、「行って、あなたも同じようにしなさい。」と促します。

 

しかし、この人はイエス様の促しに素直に従ったでしょうか。多分、従わなかった、従えなかったでしょう。異邦人に対する「憐れみ」の心、痛みや苦しみや悲しみに共感する心がなかったと思われます。

 

わたしたちにも同じような弱さがあります。ですから、永遠の命への道を示すためにイエス様はこの地上に遣わされました。この譬えのサマリア人は救い主イエス・キリストです。人間の罪の狭間で傷つき、希望もなく、息絶えそうになっているわたしたちに歩み寄り、その命を犠牲にして救ってくださるのです。

 

わたしたちは、自分の傲慢さを悔い改め、イエス様を信じて、イエス様と聖霊にいつも助けられて、神を愛し、隣人を愛して生きてゆく人生を選びなさいと招かれています。神様はわたしたちを分け隔てなく、平等に愛してくださいます。わたしたちも神様を愛し、隣人を愛する者へと造り替えていただきましょう。