ルカによる福音書 10章38〜42節
ルカ福音書の学びも、今回で10章が終わりますが、前回の学びは、聖書の中でも有名な「善いサマリア人」の譬えをもってイエス様が大切なことを教えられた箇所でした。そして10章最後の学びも教会ではかなり有名な「マルタとマリア」という姉妹に対する重要な教えの箇所です。この二つの教えは関連性が一見ないように思えますが、福音書の記者ルカには、この二つをつなげて記録するはっきりとした意図があったようです。
それでは実際にどのような関連性があるのでしょうか。それは、10章25節にある律法の専門家からのイエス様への質問、「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」という問いかけが事の発端です。この問いというのは、「何をしたら、神の国を受け継ぐことができますか」というものでした。言葉を変えて言いますならば、「主よ、何をしたら、わたしは神の国に入れられ、そこで生きられますか」というものです。
その問いに対してイエス様はご自身でお答えにならず、試みようとしてきた律法の専門家に「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と逆に質問して、彼に答えさせます。彼はすぐに答え、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また隣人を自分のように愛しなさい」と言います。それに対してイエス様は、「あなたの答えは正しい。そのように実行しなさい。そうすれば永遠の命が得られる」と言われます。小馬鹿にされたと感じたのでしょう、律法の専門家は「では、わたしの隣人とは誰ですか」と再質問し、それに対してイエス様が「善いサマリア人」の譬えを語られ、主なる神を愛し、隣人を愛する方法を示します。
神様と隣人を愛することは、永遠の命を得られる唯一の方法、道です。簡単そうに聞こえますが、とても難しいと感じる人は、わたしを含めて多いと思います。神様は愛せるけれど、隣人は愛せないという人もいるでしょうし、その反対に、隣人は愛せるけれど、神様はそこまで愛せないという人もいるでしょう。しかし、神を愛し、隣人を愛することは表裏一体です。神様を愛するとは、隣人を愛することであり、隣人を愛するとは、神様を愛することなのです。神様を愛しているという証明は、隣人を愛して初めて証明できます。
さて、「愛する」というアクションに不可欠なのは「交わり」です。神様と人が交わらないと愛し合う関係性は生まれません。同様に、人と人が出会って、向き合って、交わらない限り、親しい関係性は生まれてきません。すなわち、愛し合うことはできません。律法の専門家のように、「わたしの隣人とは誰ですか」と言って、消極的な人、出会っていかない傲慢な人は、神様を愛していると自負していても、実は神様を愛しておらず、律法を守っている自分はすごいと思い込み、自分を愛しているだけなのです。
「善いサマリア人」の譬えは、人生の中で出会ってゆく人々とどのように交わっていくかをイエス様は教えています。すなわち、自分の都合の良い人たちだけを選んで、そういう人たちとだけ交わってゆくか、それとも目の前に傷ついて倒れている瀕死の状態の人を憐れに感じて歩み寄り、その人のために最善を尽くしてゆくかが各自問われていることを知り、どのように生きるのかを考えさせられました。しかし、その譬えから、神様の御心は明確に示されています。譬えに出てくる祭司、レビ人、サマリア人のうち、傷ついた人に歩み寄り、助け、隣人になっていったのはサマリア人でした。イエス様は、「あなたも行って、同じようにしなさい」と命じられます。
前回の学びの中で、この「善いサマリア人」はイエス様ご自身であるとわたしは申しました。人間の罪ゆえに関連性が断ち切られていた神様とわたしたちの間に立たれ、わたしたちと出会ってくださり、交わってくださり、最後にはその命さえも十字架上で与えてくださったのはイエス・キリストです。このイエス様が心と精神と力と思いを尽くしてわたしたちを愛してくださり、その犠牲を通して神様への愛を示されました。その愛と犠牲によって、わたしたちと神様の関係性が、一つのことを残して、正しい方向へ向かいました。
唯一残されたのは、わたしたちがイエス様の愛と犠牲を信じて受け取るという応答、すなわち、わたしたちの信仰です。この信仰がわたしたちになければ、神様と交わり、響き合うこと、愛し合うことはできません。つまり神の国へと招かれ、永遠の命を受けることはできなくなります。前置きが長くなりましたが、永遠の命を求めるならば、まずイエス・キリストを救い主と信じて、この救い主と深く交わることが大切なのです。
ローマの信徒への手紙10章17節に、「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(p288)とあります。つまり、永遠の命を求めているならば、イエス様を信じ、イエス様と親しく交わり、イエス様に聞いてゆく必要があるのです。そして、このイエス様をわたしたちのもとへ遣わしてくださったのは、神様であることを信じて感謝することです。自分の努力だけでは永遠の命は得られないという事実を認めて、悔い改めて謙遜に生きることです。
罪に打ちひしがれて痛み苦しみ、地面に倒れているわたしたちを憐れんで愛の御手を現在進行形で差し伸べ続けてくださるのは神様であり、イエス・キリストであることを知り、それほどまでにわたしたちは神様に愛されている存在であることを喜び、感謝することが大切であるということ。そのことを知るためには聖書に記されているイエス様の言葉に聞くこと、聞き続けてゆくことが大切であることを「マルタとマリア」の家での出来事は教えている、だから、「善きサマリア人の譬え」とつながっているのです。
ルカ10章38節に、「一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた」とあります。イエス様がお入りになった「ある村」とはベタニアという村であることはヨハネ福音書11章から分かります。イエス様の「一行」とは、イエス様と12弟子の最低でも13人であったでしょう。13人を家に迎えるのは大変であったと思いますが、マルタはどのような目的・意図をもってイエス様を迎え入れたのでしょうか。もう一つ大切な観点は、イエス様はどのような目的・意図をもってマルタの家に入られたのかということです。それが明らかにされてゆきます。
さて、もう一つ大切なことをお話しします。わたしたちは「マルタという女が、イエスを家に迎え入れた」という部分をあまり気にかけずに読み過ごしてしまいますが、そもそも、当時のユダヤ社会においては、女性が男性を家へ招き入れることはあり得ない行為でした。家の主人・男性が招くのが常識と考えられています。また、女性が男性の足元に座って教えを聞くということも男性優位のユダヤ社会ではあり得ない行為でした。それらがここで許されているのは、それだけイエス様とマルタ&マリア姉妹の関係性が良かった、親しい交わりが以前からあったということを暗示しているのでしょう。
さて、マルタとマリアがイエス様を家に招いた目的・意図は、イエス様との親しい交わりを通してイエス様のために仕える弟子となってゆくことにあったと思われます。また、イエス様が彼女たちの招きに応えて家に入ったのは、彼女たちと交わって、彼女たちを弟子として訓練することであったと思います。イエス様と交わる時=弟子訓練の時です。
しかし、マルタはイエス様をもてなさなければという思いが最初に動いてしまったようです。妹のマリアは何もしてこなかったわけではなく、イエス様が来られるまで、姉のマルタと共に食事の準備などお迎えする準備をしていたと思います。二人とも、イエス様を心から尊敬し、愛していたからです。二人とも本当に配慮に満ちた優しい女性であったと思います。
しかし、イエス様が家に入られると、39節にあるように「マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入って」しまいました。マルタは、イエス様とその弟子たち、その他の客人たちをもてなすためにせわしく働き続けますが、マリアはもてなしを忘れ、イエス様の足元に座ってイエス様の教え、言葉に耳を傾けています。マルタはもてなすことに心と時間を割きましたが、マリアはイエス様にべったりです。マルタはストレスを感じ、怒りを抱くようになり、イエス様のそばに近寄ってきて、「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」と不満を漏らし、妹を諭して欲しいとイエス様のアクションを求めます。
わたしたちは、自分の思い通りにならないとストレスを感じ、不満が募り、怒りを抱き、それがある時点で制御できない程の力となって心と口から噴出します。しかし、そういう時に限って、自分の思いが優先して、招いた客人のことは二の次になります。例えば今回の場合では、イエス様をもてなすことで喜んでもらおうとマルタは考えましたが、思い通りにならないので、自分の不満と怒りのただ中にイエス様を巻き込む形になってしまいます。しかし、イエス様の思いは果たして何であるのかを考える必要があると思います。イエス様は、「自分は仕えられるために来たのではなく、仕えるために来た」とおっしゃいます。「もてなされるために来たのではなく、もてなすために来た」ということになります。イエス様側からのもてなし、それは神の愛と神の国について分かち合うことです。
主イエス様はマルタに何とお答えになられたでしょうか。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」と言われます。自分の思いを優先させてしまう時に思い悩み、心を乱してしまう。しかし、重要なことはただ一つ、それは神様の思い・御心を、イエス様を通して聞くこと、主の言葉を聞くことを最優先することです。まずイエス様に聞かなければ、イエス様をもてなす、つまり忠実に従って歩み、主と隣人に仕えることはできない、つまり神と隣人を心から愛することはできないのです。