ルカ(64) 内側を清めよというイエス

ルカによる福音書11章37〜44節

今回は、ルカによる福音書11章37節から44節の部分からイエス様の言葉を聴きたいと思いますが、37節に「イエスはこのように話しておられたとき」とありますので、何を話しておられたのか、つまり33節から36節の部分を再確認する必要があると思います。

 

端的に言いますと、イエス様を救い主と信じて救われた者は、その喜びと感謝・「ともし火を灯す」を大ぴらに人々に表しなさい(33節)とイエス様に励まされるのですが、そのお言葉に反し、ともし火を隠してしまうのは、「あなたの目が濁っているからだ」(34節)とイエス様は指摘されます。信仰の目が濁っている、すなわち目が澄んでいないとは、「イエス様をちゃんと見ていない、信仰のピントがズレている、見ていたとしても自分の都合の良い部分だけを見て、都合の悪いところはまったく見ようともしないから」と前回申しましたが、もっと具体的に言うと、「イエス様を救い主としてはっきり見ていない、捉えていない、信じていないので、その不信仰さが信仰の目を濁らせ、神様の恵みによって救われ、生かされている幸いを喜べない、感謝できないでいる」、だからイエス様は「あなたの中にある光が消えていないか調べなさい」(35節)と命じておられると申しました。

 

それではわたしたちが澄んだ目をもってイエス様を見てゆくためには何が必要なのかと言う問いかけが浮上してきますが、イエス様がその答えを教えてくださいます。まず祈りが必要であると9節から10節で教えてくださいます。何を求めて祈るべきかも、「聖霊」を切に求めなさいと13節で教えてくださいました。なぜ聖霊なのか。それは、自分たちの知恵と力だけでは悪霊との戦いに勝てないから、聖霊の助けがなければイエス様の言葉を聴いて理解することも、イエス様の業を見て神様の愛を理解することもできないから、聖霊だけがわたしたちの心を新しい心のようにきれいにしてくださるからということを聴いてきました。神様に愛され、救われ、生かされている喜びも、感謝も、すべて聖霊の励ましの中で与えられている。そのことを認める素直さも聖霊が与えてくださる。

 

すなわち、澄んだ目とは幼な子のような純真な心を持つ、与えられるという事になるのだと思います。ユダヤ文学における「目が澄んでいる」という表現は「心の目が単純であり、二心を持たないこと」を意味するそうです。そのような単純な目だけが唯一の神を見ることができ、一つの心(澄んだ目)のみが一つの神を見ることができるという思想があるのだそうです。ですので、イエス様がこの11章でわたしたちに教えたいこと、それはイエス様とその福音を受け入れることが可能なのは、澄んだ目をもつ人、二心でない人、すなわち幼な子のようなピュアな心を持つ者だけであり、そのような心に作り変えることができるのは、神様の霊、聖霊のみというお話をされていたのです。

 

さて37節に、「イエスはこのように話しておられたとき、ファリサイ派の人から食事の招待を受けたので、その家に入って食事の席に着かれた」とあります。次回の学びで聴く45節以降では律法の専門家が登場しますが、福音書ではファリサイ派の人と律法の専門家は「律法主義」に立つ人たちとして記されています。そしてイエス様は、この「律法主義」に生きる人たちを「人々の目に見えるように表面的に律法を守っている人たちで、中身の伴わない形式的なことを行っている偽善的な人たち」と厳しく批判してゆきます。

 

38節をご覧ください。「ところがその人は、イエスが食事の前にまず身を清められなかったのを見て、不審に思った」とあります。ファリサイ派の人は、イエス様を試みるために食事に招いた訳ではないようですが、ファリサイ派の食前の習慣である手洗いをイエス様もして自分の身を清めると思っていたでしょう。そのための水も準備しておいたのに、身を清めなかったイエス様に驚き、不審に思ったようです。つい先程まで「神の指」で悪霊を追い出していたのですから、さすがに手先まで入念に洗い、身を清めると思っていたのでしょうが見事に裏切られました。イエス様はそのような思いをすぐに察知されます。

 

今回の箇所は、食事に招待された客人でありながら、招待した側のファリサイ派の人があまりにも形式的律法主義に立つので、なんの遠慮もためらいもなく、その間違いを指摘し、そのような考え方を持ちながら偽善的に生きることは実に「不幸だ」と警告するのです。この警告は、わたしたちにも及んでいることは言うまでもありません。

 

39節を読みましょう。「主は言われた。『実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。』」とあります。食事に招待してくれた人に対してこういう言い方はわたしにはできませんが、イエス様の口調はなかなか厳しいです。しかし、内側と外側があまりにもアンバランスなので、そのバランスを正常に戻すためには生やさしい言葉ではダメで、間違いを自覚させ、注意を促すためには、どうしても厳しい口調が必要であったと思われます。

 

ファリサイ派の人たちの間違いは何であったでしょうか。それは神様に見られていることよりも、人によく見られたい、思われたいと思ったことです。つまり、神様の御心に従って生きるよりも、人々に見栄を張って生きることを喜びとしていたのです。ですから、心の中には自己中心的強欲や悪意があるのに、外見だけは神様に忠実に従っているようにパフォーマンスしていた道化師のようであったということです。神様とイエス様は、内側も外側も、神様とイエス様には忠実で、人々には誠実な人を求めています。わたしたち人間は、自分以外の人の外側は見て分かっても、心の中は見通せません、分かりません。しかしイエス様は、わたしたちが心の中で何を考えているのかお分かりになるのです。

 

次の40節で、イエス様は「愚かな者たち、外側を造られた神は、内側もお造りになったではないか。」と言われます。食事に招いてくれた人に対して「愚かな者たち」と呼んでいます。それだけでなく、「不幸だ」とも言われてしまいます。ファリサイ派の人はどのような心持ちになったでしょうか。怒りが込み上げてきたでしょうか。自分の弱さをはっきり指摘されて切なく感じたでしょうか。強欲で悪意のある人は怒りが込み上げてくるでしょう。53節と54節を見ると、「律法学者やファリサイ派の人々は激しい敵意を抱き、いろいろの問題でイエスに質問を浴びせ始め、何か言葉じりをとらえようとねらっていた。」とあります。わたしたちはこれを反面教師としてしっかり学ぶ必要があります。

 

しかし、イエス様の言葉には福音があります。バランスを失っている人に対して、「外側を造られた神は、内側もお造りになったではないか」と言うのです。自分ではなく、神様にフォーカスしなさいと招くのです。神様に集中する時に、まずわたしたちの心が神様の霊・聖霊によって新しくされ、そして体も、生活もバランスが保たれるようになり、祝福されてゆくのです。この祝福の鍵は、イエス・キリストの言葉に聴き、そしてその言葉を守ること、それが祝福のスタートなのです。

 

もう一つ大切なことが41節でイエス様から命じられています。「ただ、器の中にある物を人に施せ。そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる」とあります。「器の中にある物」とは食べ物、生きるための糧です。自分だけが食べて生きるのではなく、必要としている人たちに与え、共に生きなさい、そのように生きる人の心は清くされ、その生活・生き様も清くされるという招きです。神様からいただく命の糧を独占しようとする強欲さがさらなる悪い思いを抱かせ、愚かで、哀れで、孤独で、不幸な人生を送らせるのです。ファリサイ派の人にそのことを警告し、悔い改めて、心から神様に立ち返って、神様からまず憐れみを受けて、そしてその憐れみをもって生きるように促し、招くのです。

 

しかし、人の強情さというのはなかなか手強いですね。なかなか自分の弱さを認めようとしません。自分の弱さを素直に認めて神様に立ち返る人は幸いを得て光の内を歩みますが、そうでない強情な人は闇の中で歩み続けることになります。イエス様は、次の42節から44節で、「あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ」と3回言います。この「不幸」という言葉、ギリシャ語では「ウーアイ」という嘆きの言葉が使われ、「ああ悲しいかな」という意味になります。なぜ嘆かわしいのかの理由をイエス様は三つ言います。

 

まず42節。「それにしても、あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。薄荷や芸香やあらゆる野菜の十分の一は献げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もおろそかにしてはならないが」とあります。神殿での十分の一の献げ物については、旧約聖書の申命記14章22節とレビ記27章30節以降に記され、ファリサイ派の人たちもしっかり守ってはいるが、聖書に記されていないことまで守り、肝心なことはおそろかにしているとイエス様は言います。すなわち、聖書には「薄荷や芸香やあらゆる野菜の十分の一は献げ」よとは記されていません。しかし律法を細分化し、それを事細かに守れと人々にも強要します。しかし、肝心の「正義の実行と神への愛」をおろそかにしているとイエス様は指摘します。

 

わたしたちに対する神様の願い、御心は「正義の実行と神への愛」を行うことです。「正義を実行する」とは、人間関係の中で分け隔てのない関係性を構築し、平等の中で共に生きるということです。「神への愛」とは神様を愛し、第一にして生きるということです。

 

なぜそのようにイエス様が言われるのかというと、43節で「あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。会堂では上席に着くこと、広場では挨拶されることを好むからだ」と彼らが謙遜を忘れ、虚栄を喜んでいるからです。神様を心の中心に常に置かないと、わたしたちはすぐに傲慢になり、差別や争いを起こし、闇の中に逆戻りし、不幸になるからです。

 

44節に、「あなたたちは不幸だ。人目につかない墓のようなものである。その上を歩く人は気づかない」とあります。ユダヤ社会では墓は汚れの場所で誰も近づきません。汚れると思い込んでいるからです。しかし、わたしたち人間というのは、傲慢になって歩むので、人目につかない墓の上を知らないうちに歩き、無意識のうちに罪を犯している、そういう存在なのです。ファリサイ派の人たちは、自分はいつも正しい、自分は律法を守り、神に対しても忠実であると豪語するのですが、実際は神様の御心を無視した自分勝手な、律法主義的な、実に形式的な生き方、形骸化した生活を歩んでいるとイエス様はおっしゃり、そのような人たちは不幸だ、神様に立ち返りなさいというのです。

 

わたしたちも、表面的には良い人に見えるかもしれませんが、内側は果たしてどうでしょうか。ファリサイ派の人と同じ内実を伴わない、形骸化した教会生活、信仰生活を送ってはいないでしょうか。イエス様の忠告を聞き入れ、悔い改め、正義の実行と神様への愛に生きる者とされていきましょう。そのためには、まず主イエス様の言葉と聖霊が必要です。