ルカ(65) 今の時代の人々の責任を問うイエス

ルカによる福音書11章45〜54節

今回の学びは、前回のルカによる福音書11章37節から44節からの続きです。イエス様は、ファリサイ派の人々と今回登場する律法の専門家たちの生き様を非難します。外面は良いけれども内面は最悪で、内実の伴わない律法主義、祭儀主義、形式主義だと痛烈に批判します。内実が伴わないとは、ファリサイ派の人たちと律法の専門家たちが人々に教え、守りなさいと強いている事と彼らが実際に行っている事は真逆だという事です。もっと簡単にいうと、イエス様は彼らを偽善者だと厳しく非難しているのです。

 

この37節から54節の箇所でわたしたちが心に留めなければならないイエス様からの問いかけは、わたしたちも律法主義的で形式的な歩み、偽善的な歩みを送っていないかということであり、よく吟味してみなさいという注意だと思います。信仰者のバロメーターは、喜びです。感謝です。神様に愛され、日々生かされていることを喜び、感謝しているかどうか、当たり前のように受け取り、喜びも感謝もなく今ここに居るのではないか。もしそうであれば、それはもうすでに信仰生活が形式化し、礼拝も祭儀化してしまっている症状と言えるのではないかと思います。信仰生活の落とし穴はそういう所にあります。

 

イエス様は、ファリサイ派の人たちと律法の専門家たちのことを「愚かな者たち」と40節で呼びます。その前の39節では、彼らの内側・心の中は「強欲と悪意で満ちている」と厳しく指摘しています。この愚かな者とは、「神を忘れた者」という意味です。神様を忘れ、自分たちが神のように振る舞っている者、だから愚かだとイエス様は言います。

 

もう一つの角度から言いますと、「神を忘れた者」とは、そもそも律法は何のために神様から人々に与えられたのかを忘れている者たちという言い方ができます。シナイ山で神様がモーセを通してイスラエルの民に与えられた十の戒め・十戒は、神様を心から愛し、隣人を愛して生きるための平和の戒めです。しかし、ファリサイ派の人たちと律法の専門家たちは歴史の中でその十の戒めを細分化し、安息日に関わること、食べ物に関わること、汚れと清めに関わることなどの決め事を613個(248は何々しなさい、365は何々してはならない)まで増やし、人を裁くための基準・道具にしました。神様の思い、願いをまったく忘れた本末転倒の行為、偽善をしているわけで、その間違いをはっきり指摘し、人々を回心させるためにイエス様は教えるのです。

 

イエス様は、ファリサイ派の人々が犯している基本的な間違いは三つある指摘し、それは「不幸だ」と言われます。1)律法によって規定されていない庭草(ミントなどの薬草)も穀物や家畜と同じように十分の一を神様に納めなければならないと民衆に押し付け、不必要で過度なストレスを与え、自分たちはそんな事は一切しない。2)彼らは会堂などで上座へと案内される特別扱いを受け、それが当たり前だと思い込み、虚栄に走って、謙遜に生きることを忘れ、いつも偉そうに振る舞うことが多い。3)「人目につかない墓のように」という意味は難しいですが、つまり自分たちの偽善的振る舞い、形式的な生き様があたかも正当だというように人々に見せつけ、困惑させ、神に対して無意識のうちに罪を犯す悪い模範を示している。これらの行為は「災いだ」とイエス様はおっしゃるのです。

 

さて、ファリサイ派の人々に対してイエス様が言っていた事が律法の専門家たちの鼻にも付いたのでしょう、その一人がイエス様に45節でこう言うのです。「そこで、律法の専門家の一人が、『先生、そんなことをおっしゃれば、わたしたちをも侮辱することになります』と言った」とあります。イエス様はファリサイ派の人々の間違いを指摘していたのですが、それを「侮辱」だと捉えるわけです。傲慢な人は自分を絶対化しますので、そのようなリアクシションになるのだと思いますが、律法の専門家たちも傲慢であることを自分たちの言葉で証明していることになります。

 

ですから、イエス様は続く46節、47節、52節で、「あなたたち律法の専門家も不幸だ」と3回言われます。ファリサイ派の人たち同様、ここでもイエス様は律法の専門家たちの間違いを3つ指摘しています。まず46節であなたがたは「人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしない」と指摘します。これはどういうことかと言うと、荷物イコール学者たちの律法解釈です。十のシンプルな戒めを613まで増やし、とても難しい、人々が負いきれないほどの重荷を負わせているのに、自分たちは何一つ助けようとせず、ただ単に人々が律法を守れない弱さを傍観し、罪人だと裁いてしまう、そう言う間違いを律法の専門家たちはしていると言うのです。人々には律法を守らせ、自分たちは専門的知識を利用して、律法や規則の網の目をくぐり抜ける。今の時代も、国民に負担を負わせ、権力を持つ者たちが平気で同じことをしています。

 

しかし、神様の愛、キリストの福音は、そのような律法の重荷がイエス様によって取り除かれ、しがらみから解放されて自由に生きられるということです。613ある律法を「神様を愛しなさい。自分を愛するように隣人を愛しなさい。わたしがあなたがたを愛したように互いに愛し合いなさい」という3つのシンプルな戒めにイエス様はされたのです。マタイ28章の大宣教命令は、この三つの愛の戒めをさらに具体化したものなのです。

 

もう一つ関連したことをお話しします。マタイ福音書11章28節から30節(p21)で、イエス様が「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」と言われた言葉には、613の律法を守るという重荷を負わされ、心も体も疲弊している人たちに対して、わたしのもとにきて重荷をおろし、身も心も軽く自由になって安らぎを得なさいという救いへの招きがあるのです。三つのシンプルな愛に生きるのです。

 

さて、二つ目の問題の指摘は47節から51節になります。47節に、「自分の先祖が殺した預言者たちの墓を建てているから、あなたたちは不幸だ」と難しいことをイエス様はおっしゃられますが、一番簡単な言い方をすると、自分たちの信仰、神学、考え、思想にそぐわない者たち(預言者たち)をこれまで消し去ってきたように、これからもそうするような排他性があると言うことです。「これからもそうするような排他性」とは、神様から遣わされた救い主さえも消し去ろうとすると人間の愚行です。すなわち、53節と54節にある通り「イエスがそこを出て行かれると、律法学者やファリサイ派の人々は激しい敵意を抱き、いろいろの問題でイエスに質問を浴びせ始め、何か言葉尻をとらえようとねらっていた」とあるように、イエス様の言葉通り、彼らはイエス様を排除しようとします。

 

49節の「だから、神の知恵もこう言っている。『わたしは預言者や使徒たちを遣わすが、人々はその中のある者を殺し、ある者を迫害する。』」というのは、イエス様ご自身の身の上に起こることだけではなく、イエス様の弟子として歩んでゆく弟子たちも厳しい迫害を受けるということを暗示していると言えます。しかし、その時は、復活の主イエス様の励ましと聖霊のお守りとお導きがあるので、イエス様に信頼してゆけば良いのです。

 

さて、50節と51節に「こうして、天地創造の時から流されたすべての預言者の血について、今の時代の者たちが責任を問われることになる。それは、アベルの血から、祭壇と聖所の間で殺されたゼカルヤの血にまで及ぶ。そうだ。言っておくが、今の時代の者たちはその責任を問われる」とあります。アダムとイブの息子アベルが預言者の一人とされていることに非常に大きな関心がありますが、ユダヤ人たちがこれまで迫害し、殺してきた神様からの使い、預言者たちの血の責任はあなたがたにあるとイエス様はここで言います。

 

イスラエルの長い歴史の中で、アベルまでさかのぼってその犠牲になった血の責任、先人たちの間違いの代償まで負わせられるのは理不尽だと大抵の人は思うことでしょう。しかし、ここでイエス様が言っておられることは、恐怖や不安を与えることではなくて、自分の罪・間違いを悔い改めなさい、回心(心を入れ換える)して神様に立ち返って、謙遜に生きなさい、先ほどの3つの愛(神を愛し、隣人を愛し、イエス様のように互いに愛し合う)に生きなさいという招きであると聴こえてきます。

 

ユダヤ人の先人たちの罪、今の時代に生きるわたしたちの罪・間違いの数は、数え切れない程ですが、その罪の責任をイエス様がすべて担ってくださる、イエス様が十字架へ向かって歩んでくださり、十字架で贖ってくださる、罪の負債・代償のすべてを十字架での死によって支払ってくださる。だから、これまでの自分の間違い・罪を正直に認め、悔い改めて、イエス様を救い主と信じなさいと招いてくださっているように聴こえてきます。この救いへの招きを拒み、イエス様の救いの手を握り締めないと、わたしたちは自分の罪の責任を自分で負わなければならなくなるのです。これは脅迫ではなく、愛の招きです。

 

最後に52節にある三つ目の問題指摘を見てみましょう。「あなたたち律法の専門家は不幸だ。知識の鍵を取り上げ、自分が入らないばかりか、入ろうとする人々をも妨げてきたからだ」とあります。ここでイエス様が言われる「知識の鍵を取り上げ、自分が入らないばかりか、入ろうとする人々をも妨げてきた」とは、どういう意味なのでしょうか。

 

まず「知識の鍵」という言葉です。これは簡単にいうと、神様のことをより良く知るための知識です。最初に与えられた律法は、神様に対してどのように忠実に生きるかを示し、隣人に対してどのように誠実に生きるかを示しています。すなわち、神様とどのように平和に生き、周りの人々とどのように平和に生きるかの知恵と知識が詰まった戒めでしたが、それを彼らが歪曲化し、より複雑にし、神様との平和、祝福に自分たちだけでなく、神の愛する人々をもその祝福を享受できなくしてしまった。律法を人を裁く道具にしてしまった、だからあなたがたは不幸だと言われ、人々も不幸になったとイエス様は律法の専門家たちを非難するのです。

 

しかし、イエス・キリストが神様の言葉として、この地上に来られたのです。このイエス様がわたしたちに神様の愛と赦しと救いの言葉を語ってくださり、わたしのもとに来て神の言葉に聴きなさい、今までの頑なな心を悔い改め、心をイエス様に委ねて変えていただき、今までの偏見で満ちた聴き方を改めなさいと招かれているのです。すべてをイエス様に委ねれば、神様の御言葉の聴き方も劇的に変わり、神様の御心がより近く、広く、深く、理解することが出来るようになるというのです。つまり、イエス様が、神様の御心を知るための「知識の鍵」なのです。