ルカ(69) 主人の帰りに備えよというイエス

ルカによる福音書12章35〜48節

今回の学びの内容は、少々難しく、皆さんにとってあまり耳にしたくない内容かもしれません。何故ならば、「終末・世の終わり」ということがテーマであるからです。新約聖書では、「終末」イコール「キリストの再臨」ということになりますが、イエス・キリストという救い主を知らない・信じない人々にとって、「終末」イコール「ザ・裁き」、「ジ・エンド」という意味合いになり、縁起でもないという内容でしょう。

 

確かに、多くの人々にとって、「終末」は神様による「裁きの完成」となりますが、イエス様を救い主と信じる者たちにとっては、「終末」とは神様の「裁きの完成」と同時に、「救いの完成」という意味合いがあります。救いの業が完結するということですが、そこに至るまでの期間、わたしたちは万全の準備をすべきというイエス様からの警告、教えが今回の箇所に記されていて、決して読み飛ばしてはならない重要な部分になります。

 

さて、そういうことを耳にすると不安を抱いて、すぐに終末の兆候・徴は何だろうか、どのようなことが起こるのかという動きを知りたがると思いますが、それもイエス様から聴くべきです。終末の兆候・徴について、イエス様の弟子たちへの言葉がマタイ24章3節以降、マルコ13章3節以降、ルカ21章7節以降に記されています。

 

しかし、そこでイエス様は最初に「人に惑わされるな」と弟子たちに注意しています。「とにかく人の言葉や操作に惑わされるな」と警告するのです。現代ではSNSの投稿やライブ投稿がありますが、恣意的・意図的に操作されたりします。また、偏りのある報道もあります。そのような言葉や操作に注意しなさいということになると思いますが、とにかく、人ではなく、イエス様の言葉をいつも思い出してイエス様に聞く、それが最も重要になり、十分な心の備えをすることが常に重要だとイエス様は教えてくださいます。

 

さて、今回の箇所には3つの譬えがイエス様によって語られています。これらの譬えは、救いの完成と裁きの完成の二つの面をよく表していますので、そのことを今回はお話ししてゆきたいと思います。

 

第一の譬えは35節から38節にありますが、婚礼に出かけた主人の帰りを待つ僕たちのことが言われています。ユダヤの婚礼式は夜に始まり、祝宴が三日間昼夜を通して、あるいは長くて一週間続くこともあったそうで、僕たちはいつ戻るかわからない主人の帰りを「目を覚まして」待っていなければなりません。

 

第二の譬えは39節にありますが、泥棒の侵入を防ぐ家の備えについて言われています。不意に泥棒・強盗が忍び込むように、突然イエス様の再臨があるというお話しです。

 

第三の譬えは42節から48節にありますが、長期にわたって遠方に出かけてゆく主人からその財産を預かった僕のお話しです。主人から預かった財産の管理を忠実に行っていれば大きな報いがあるが、不誠実であれば主人が戻った時に厳罰に処せられるというお話しです。

 

この三つの譬えを通して、わたしたちも主イエス様の再臨のために備えをしっかりしてゆかなければならないということを教えられます。

 

さて、この箇所を読んでゆく中で、主人に対して忠実な良い僕と不忠実な悪い僕がいることが明らかですが、イエス様はこの忠実で良い僕のように神様に対しても忠実に生きなさいということをわたしたちに教えていることが分かります。

 

イエス様は、ここで良い忠実な僕の特色を三つ挙げていますが、その最初の二つが35節にある1)腰に帯を締め、2)ともし火をともしていなさい、ということです。

 

まず「腰に帯を締め」ということですが、当時、ユダヤの人々が着ていたのは布をつなぎ合わせ、首からすっぽり着るような丈の長い服でした。仕事をする時は着物をたくし上げて紐で腰のあたりで縛り、身動きがとりやすく、仕事が機敏にしやすくしました。ですので、「腰に帯を締める」とは、最善を尽くそうとする気持ちの表れで、主人のために懸命に働く姿勢を表しています。

 

忠実な僕の二つ目の特色は、「ともし火をともす」ということです。腰の帯を締めるのは主人に対する僕の内面的な姿勢を示すと申しましたが、ともし火をともすというのは外に向かうもの、つまり外の人々に対するわたしたちの生活のあり方を示すことです。

 

これまでにも何回も聴いてきましたように、「ともし火をともす」とは、イエス様の福音、神様の愛を知り、その愛に生かされている喜びを隠さずに高く掲げて生きるということです。暗い闇の中を帰ってゆき中で唯一の目印となり、励ましとなり、慰めとなるのが、主人の帰りを待つ僕のともす「ともし火」です。

 

三つ目の特色は、少し後になりますが42節にある「忠実で賢い管理人」です。主人に対しては忠実で、人々に対して偏見なく誠実に生きる人です。物事を深く考え、思慮に満ち、自分に委ねられた仕事をきっちりこなす人、つまり何事においても真剣な向き合い方をする人です。そのような人が主人に最も喜ばれる僕だとイエス様は弟子たちに教えています。

 

35節から40節までのイエス様の言葉は、すべての人に対する言葉です。すべての人が主人である神様に対していつも忠実に生き、人々に対して誠実に生きることが求められています。36節でイエス様は、「主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい」と言われますが、すぐに扉を開けて主人に家に入ってもらえるように準備することが大切だという教えです。

 

今の時代、銀行でも、どこでもアポイントメント・予約を求められる時代です。時間が分かるほうが気持ちも楽です。アポなしの突然の訪問は迷惑とも取られる時代です。しかし、主人と僕の関係性という中で、僕がいつも主人の帰りの準備しておくことの重要性が教えられます。救い主の再臨なのですから、準備万端でなければなりません。

 

さて、ユダヤ社会では夜は3区分されています。第一が午後6時から午後10時、第二が午後10時から午前2時、第三が午前2時から午前6時までです。38節の「主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ」とありますが、油が切れないように十分に油を準備し、ともし火を灯して主人の帰りを待ち続ける、そういう者が「忠実な僕」として主人に、神様に喜ばれます。

 

そのような忠実な僕に対して、主人はどうしてくれると37節にあるでしょうか。「主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる」とあります。主人が僕に仕えてくれるということは常識からしたらありえないことです。

 

しかし、救いの業が完成する時、そのような神様主催の祝宴が天国で用意されているということを先取りしてイエス様は伝えているのです。これを楽しみに望むことが、僕たちが「目を覚ましていられる」大きな励ましの力となります。地上での限定的な忠実な働きが、神様のもとで永遠に報われるのです。つまり、忠実な僕と不忠実な僕の報いは、天と地の差ほどの大きな違いがあるということです。

 

39節と40節に「このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」とあります。これは、主イエスの再臨のタイミングは、推測することも計算することも不可能であるから、とにかく常に用意をしておきなさいということです。備えていないと、果たしてどうなるのでしょうか。今まで苦労して働いて得てきた富や持ち物も、命も、死をもってすべて失うことになります。ですから、信仰の目をいつも覚まして備える必要があります。

 

ここでもう一つ注目しておきたいのは、「あなたがたも用意していなさい」という言葉です。「あなたも」ではなく、「あなたがたも」と複数形になっています。一人で目を覚ましているのは肉体的にも困難です。しかし、そのような困難さに対してチームで取り組んでゆく知恵と協力と一致が重要です。主の再臨がいつあっても良いように、一緒に助け合って、祈りあって、共に歩んでゆく、それが教会であり、大切にすべき事だと思います。

 

41節でペトロが「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」と尋ねます。彼には区別できなかったのです。しかし、主の答えは明らかです。弟子たちにも、群衆にも重要なことをイエス様は話されたのです。しかし、続く42節からは、イエス様は、主の再臨までの期間、教会のリーダーとなってゆく弟子たちに対して話しをしてゆきます。

 

その内容は、良いリーダー、いわゆる忠実で賢い管理者とは何者なのか、悪いリーダー、いわゆる怠惰な管理者とは何者なのかということです。2000年にもわたるキリスト教会の長い歴史の中には、良いリーダーシップを取る忠実で堅実な人たちもたくさんいましたが、信徒を、そうでない人たちをもつまずかせてしまうような悪いリーダーシップを取った人たちも確かにいました。教会内の権威を握りたいという傲慢な人もいたわけです。

 

それでは「忠実で賢い管理人」とはどういう人でしょうか。42節と43節を読みますと、「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである」とあります。「主人の命じたとおりにしている人」が忠実で賢い管理人なのです。命じられたことをしっかり行なって、知恵を用いてさらに良く管理する人は最高の僕・管理者です。そういう人は主人に高く評価され、主人の全財産を管理させるだろうとイエス様はおっしゃいます。

 

しかし、45節以降では怠惰な僕のことが言われています。これは「主の裁きの完成」を意味します。怠惰な僕とは、主人の帰りは遅くなるだろうと勝手に思い込み、自分よりも下の人たちをこき使い、暴力をふるい、パワハラ・モラハラ・セクハラを行い、自分は食べたり飲んだり、酔っ払っている始末の人です。

 

46節に「その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰する」とあります。「厳しく罰する」という言葉のギリシャ語は、「真っ二つに切り裂く」という意味や「切り捨てる」という厳しい意味の言葉が用いられています。

 

47節に「主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる」とあります。神様から委ねられた働きをしない人、責任を果たさない人は、主イエス様が再び来られる時に裁かれるのです。警告があるのも関わらず、それを無視して自由気ままに生きるのですがから自業自得です。

 

ましてや、48節、主イエスの弟子として、イエス様から多くの賜物を与えられた者たちはイエス様から多くを求められ、多くを託された者たちは、主から多くを要求されることを心に刻んで歩みなさいと言われています。

 

主に信頼する腰に帯を締め、福音というともし火をともし続けて生きなさいというイエス様の言葉をしっかり受け止めて、いつも神様には忠実に、人々には常に誠実に生きる者とされてゆきたいと願います。そのために、互いを覚えて祈り合い、支え合いましょう。それがキリストのからだなる教会の在り方です。