ルカによる福音書 1章67節〜80節
前回は、後に「バプテスマのヨハネ」と呼ばれるヨハネの誕生の次第の部分を聞きましたが、今回は、そのヨハネの父となったザカリアが、「父ザカリアは聖霊に満たされ、こう預言した」と67節にありますように、「ザカリアの預言」という箇所に聴きます。しかし、わたしは、この部分はザカリアの「信仰の言葉」、あるいは彼の「信仰からくる賛美」と捉えたほうが良いのではないかと感じています。
何故かと申しますと、この箇所は76節と77節以外は、旧約聖書に記されている神様の約束に基づいているからで、ザカリアが旧約聖書に記されている神様の約束をしっかり読みこみ、信じ、覚えていたことが、息子の誕生という不可能に思えていた大きな出来事を通して、自分の目の前で現実となってゆくという前兆を感じ取り、大きな感動と神様の霊である聖霊に満たされる中で放った信仰による喜びの言葉となったのではないかと感じるからです。
ちょっと難しいかと思いますので、少しずつ説明して行きたいと思いますが、その前に「では、そうであるならば、聖書には記されていないけれども、ザカリアはいつ、どこで聖書を読み込み、祈り、御言葉を心に留めたのか」という素朴な疑問を考えるのですが、口が利けなくなる中で、妊娠した妻のエリサベトと共に約10ヶ月間静かに過ごす中で、彼は出エジプト記、ヨシュア記、詩編、預言書のイザヤ書などを読んだのではないかと思います。そういうことを考えますと、聖書を日々読むこと、心に蓄えることの大切さを強く感じます。
さて、この箇所は、大きく三つに区分することができます。まず68節から75節までは旧約聖書における「神の約束」が記され、76節から77節は救い主イエスの先駆者となった「ヨハネ(のちのバプテスマのヨハネ)」のことが記され、78節から79節は「救い主イエス・キリスト」のことが記されていると読み取ることができます。
また、この箇所の鍵となる言葉ですが、今回は68節と78節に記されている「訪れ」という言葉がそれになります。68節の「主はその民を『訪れて』解放し」という言葉と78節の「高い所からあけぼのの光が我らを『訪れ』」という言葉にこのザカリアの信仰の言葉ははさまれ、サンドイッチされた形になっています。もう少し踏み込んだ言い方をしますと、神様の憐れみによって救い主がこの地上に訪れるということが賛美されています。
さて、最初の区分である68節から75節は、旧約聖書の出エジプト記と詩編からザカリアは影響を受けていることが分かります。
まず68節に「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。 主はその民を訪れて解放し」とありますが、主なる神様がその民を「訪れる」ということが出エジプト記3章にあり、特に16節周辺では、主なる神がモーセに現れて、主が民を顧みるということが記されています。また、「解放し」という部分ですが、出エジプト記6章6節には「わたしは主である。わたしはエジプトの重労働の下からあなたたちを導き出し、奴隷の身分から救い出す。腕を伸ばし、大いなる審判によってあなたたちを贖う」とあります。
69節の「我らのために救いの角を、 僕ダビデの家から起こされた」という言葉は、救い主がダビデの家系から生まれ、その民を訪れる・到来するということですが、詩編18編3節には「救いの角」という言葉があります。
70節の「昔から聖なる預言者たちの口を通して 語られたとおりに」というのは、旧約の時代に神様が預言者たちを通して約束された通り、たとえばイザヤ書で約束されたことが成就する時が間近に迫っていることを言っている言葉です。
71節に「それは、我らの敵、 すべて我らを憎む者の手からの救い」とありますが、これはダビデが出エジプトの出来事を思いながら歌った詩編106編10節にある言葉であると考えられています。すなわち、「主は憎む者の手から彼らを救い、敵の手から贖われた」ということが救い主によって行われるということです。
では、なぜ救ってくださるのか。それは72節にあるように「主は我らの先祖を憐れみ、 その聖なる契約を覚えていてくださる」、つまり、神様の愛は、神様に従うと約束した先祖たちとの契約がずっと守られ、その憐れみは子孫にまでずっと及ぶほど大きく深い愛であることが記されていると思います。
この72節と73節は、詩編105編8節から9節の「主はとこしえに契約を御心に留められる。千代に及ぼすように命じられた御言葉を。アブラハムと結ばれた契約、イサクに対する誓いを」という箇所から来ていると考えられます。
主なる神様から救い主が与えられるのは、神様がアブラハムと交わされた契約を覚え、その契約を守り続けてくださっているからということは分かりますが、では、「なぜ救い主が与えられ、敵から救い出されるのか」という神様の意図、目的を知る必要が出てきます。その目的は、73節の後半から75節にあるように、「こうして我らは、敵の手から救われ、 恐れなく主に仕える、生涯、主の御前に清く正しく」生きるためであるということが分かると思います。
これはヨシュア記24章に関連していると考えられています。すなわち、40年の荒野の旅を終え、ヨルダン川を越えて約束の地に入る前に、ヨシュアがイスラエルの民に対してチャレンジしたことがあると考えられます。すなわち、こうヨシュアは言っています。「あなたたちはだから、主を畏れ、真心を込め、真実をもって彼(神)に仕え、あなたたちの先祖が川の向こう側やエジプトで仕えていた神々を除き去って、主に仕えなさい」と言い、「向こう側に渡る前に、今日、自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます」と言っています。(ヨシュア記24章14節15節)
神様が救い主イエス・キリストを通してわたしたちに求めておられるのは、神様と救い主イエス様を信じて、心から神様と人々に仕えてゆく、賛美と礼拝、平和を地上にもたらすために生きる、主のご用のために生きるということ、生涯に渡って、残された人生を神様の御前に清く正しく生きるためであるということがここから聞き取れると思います。しかし、それを選び取る自由も与えられていて、神様は強制されず、わたしたちの応答を待たれる神であられるということだと示されます。
さて次の76節と77節だけは、旧約聖書に基づいてはおらず、父親が自分の息子に「あなたの地上での役割・役目はこれですよ」と言っている言葉になっていて、ザカリアにとってヨハネがいかに愛おしい存在、頼りになる者、誇りに思う息子であったのかが分かる内容になっています。「幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである。」と言っています。
この77節に、「主の民に罪の赦しによる救いを知らせる」という言葉を直訳しますと、ザカリアの息子ヨハネの働きは「主の民に罪の赦しによる救いを体験させる」となります。ヨハネはただ救いを知らせたのではなくて、実際に神様の愛とイエス様の救いを民たちに体験させるために生まれてきて、働くということが父親によって預言され、ザカリアはそのように自分の息子の役割を捉えています。わたしたちは自分の子がどのように生きて欲しいかという思いはありますが、神様のため、人のために生きる者となるように祈り、信じ、主に期待する者でありたいと思わされます。
さて最後の78節と79節には、先ほども申しましたように、「救い主イエス・キリスト」のことが記されています。この救い主誕生の出来事、ザカリア夫婦が体験していること、これから息子ヨハネが体験すること、イスラエルの民、全世界の人々が体験するのは「神様の憐れみによる救いの出来事であるということが、78節の「これは我らの神の憐れみの心による」という言葉から分かります。
この神様の愛と憐れみによって、「高い所からあけぼのの光が我らを訪れる」とあります。「高い所から」、つまり神様から、夜の闇から昼を迎えるあけぼのの光が訪れる、救い主が遣わされるということです。闇の時代が終わって、光の時代になるという希望に満ちた言葉があります。
79節には「暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、 我らの歩みを平和の道に導く」とあります。「暗闇と死の陰に座している者たちを照らし」という言葉は、イザヤ書9章1節、58章8節、60章1〜2節からきていると考えられます。後半の「我らの歩みを平和の道に導く」はイザヤ書9章5節と6節の預言の言葉を思い起こさせ、イエス・キリストが救い主であると告白していると示されます。
80節の「幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた。」というのはヨハネのことですが、彼がザカリアとエリサベトの愛と信仰と祈りによって神様の御用をするために立派に育てられたこと、救い主の道を備える先駆者とされていったことが分かる言葉です。
この箇所から、すべては神様の憐れみの心から開始された救いの業であることを覚えたいと思いますし、またわたしたちも自分のためだけに生きるのではなく、神様とイエス様、そして隣人のために生きることを日々選び取って行く者とされて行きたいと思います。