ルカ(70) 分裂をもたらすために来たイエス?

ルカによる福音書12章49節〜53節

これまでのルカによる福音書の学びにも、難解な箇所がいくつかありましたが、今回はその中でもトップクラスの難しさだと思います。何故ならば、イエス様らしからぬ言葉が連続して発せられているからです。テーマは、前回と同じく「終末・世の終わり」ですが、前回はイエス様の再臨がいつあっても良いように、目を覚まし、腰に帯を締め、ともし火をともし、良き管理者として、その時に備えて日々生きることの大切さを群衆と弟子たちに語られましたが、今回は終末における神の裁きへの警告です。

 

最初の49節で、イエス様は「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである」という衝撃的な言葉を発せられます。ギリシャ語の原典では、言葉の順番は「火、わたしは来た、投げ込むために、地上に」となっています。つまり、「火」という言葉がこの一文の強調点となっているのです。

 

しかし、わたしたちの多くは、イエス様がこの地上に来られた目的は、地上に火を投げ込むためではなくて、神の平和を与えるためではなかったのかと考えてしまうのですが、そうではないらしく、イエス様は51節で、「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ」と言われます。ここでの強調点は、「そうではない・いいえ」という言葉になっていて、「分裂」は次の強調点になっています。

 

しかしながら、主イエス様は、この地上に火を投ずるために、分裂をもたらすために来られたということには変わりありません。では、この「火」と「分裂」は、何を表しているのでしょうか。今回は、この二つの言葉にスポットライトを当てながら、神様の御心を知りたいと思います。

 

まず「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである」とイエス様が言う「火」の部分ですが、これはバプテスマのヨハネが生前に言った言葉に関連していると考えられます。

 

ルカによる福音書3章9節(p.105)に、「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」とあります。また3章16節(p.106)には、「そこで、ヨハネは皆に向かって言った。『わたしはあなたたちに水でバプテスマを授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしはその方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は聖霊と火であなたたちにバプテスマをお授けになる』」とあります。

 

3章のヨハネの言葉と12章のイエス様の言葉のどちらにも「火」を表す「プル」というギリシャ語が使われています。すなわち、この「火」という言葉には、二つの異なった意味があるということが分かります。

 

最初の3章9節の場合は「神の裁きの火」であり、もう一つの3章16節は「イエス・キリストによる罪の赦し・清めの火」となります。つまり、イエス様がこの地に来られた目的は、神の火によってこの地上に「神の裁き」と「神の罪の赦し」をもたらすためであったことが分かります。あのソドムとゴモラの時のように、全面的に破滅させる裁きの火も確かにありますが、もう一方で、神様の憐れみと言って良いと思いますが、人の心の中にある不純物を焼き尽くして良いものだけを取り出し、良いものを残す火があります。

 

そのことが良く分かる神様の御言葉が旧約聖書のマラキ書にあります。マラキ書3章1節後半から3節前半(p.1499)には、「あなたたちが待望している主は突如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者 / 見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる。だが、彼の来る日に誰が身を支えうるか。彼の現れるとき、誰が耐えうるか。彼は精錬する者の火、洗う者の灰汁のようだ。彼は精錬する者、銀を清める者として座し、レビの子らを清め、金と銀のように彼らの汚れを除く」とあります。神様の裁きの火は、すべてを焼き尽くして滅ぼしてしまう火というよりも、不純物だけを焼き尽くして良いものを残す火という意味合いがあり、その動機は神様の愛であることが分かります。

 

神様は、火を用いて、どのような方法で、わたしたちの中から不純物を取り除き、わたしたちを救い、清めてくださるのでしょうか。ここでは三つの方法をあげたいと思います。

 

第一の方法は、御言葉によってです。エレミヤ書23章29節に「わたしの言葉は火に似ていないか、岩を打ち砕く槌のようではないか、と主は言われる」という言葉があります。聖書には、わたしたちを優しく包み込み、慰め、励ましてくれる御言葉が記されていますが、わたしたちの心に鋭く突き刺さる厳しい御言葉も確かにあります。

 

御言葉が「火」という時、確かに御言葉にはわたしたちの心を暖かくし、燃え上がらせ、立ち上がらせるという部分がありますが、他方では、わたしたちを厳しく諭す言葉もあります。御言葉がわたしたちを精錬し、清めるというわけです。

 

第二の方法は、試練によってです。ペトロの手紙一1章6節から7節に「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちる他ない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには称賛と光栄と誉れとをもたらすのです」とあります。

 

試練というものは歓迎しがたいものですが、試練にあうとき、わたしたちは自分の弱さ・無力さを知り、神様の前にひざまずいて真剣に祈り、そこから真剣な信仰が生まれてゆきます。試練の時、それは、自分は独りではなく愛の神様が共にいてくれることを強く感じられる幸いな時にもなります。

 

第三の方法は、聖霊によってです。49節の後半に「その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」というイエス様の願いの言葉がありますが、「聖霊がすでにこの地に遣わされていたら、どんなによかったであろうか」という言葉にも聞こえてきます。けれども、聖霊が先に来ることは神様の御心ではなかったのです。神様のご計画の順番は、イエス様の誕生、宣教、十字架、復活、昇天、そしてその後に聖霊が弟子たちの上に注がれ、与えられてゆく中で教会が形作られるということになっていたからです。

 

この御心の順番を知っていたイエス様は50節で、「しかし、わたしには受けねばならないバプテスマがある」と言っておられます。この「バプテスマ」とは、先ほど言いましたように、十字架の苦しみと死を指しています。「それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう」という主の言葉がありますが、イエス様の十字架への歩みがどれだけ耐え難い苦難であったのかが分かる言葉です。そしてこの苦しむイエス様を助けたのは、他でもない聖霊なのです。

 

弟子たちにはまだ聖霊は与えられていませんが、イエス様には父なる神様も、聖霊もいつも共におられまして、この聖霊が受難を受けて肉体的にも精神的にも苦しんでいるイエス様と共にいてイエス様を力づけ、耐える力を注いで与える中で、イエス様は全人類の罪を贖うという救いの御業を十字架上で成し遂げてくださいました。

 

このイエス・キリストが三日後に甦られ、弟子たちの見ている前で天に昇られ、そして再びこの地上に来られる。その時、「彼(イエス様)の来る日に誰が身を支えうるか。彼の現れるとき、誰が耐えうるか」とのマラキ書の疑問が残ります。わたしたちにはそのような力はありませんが、聖霊がわたしたちと共にいて、わたしたちを支え、神の裁きを耐えうる力を与えてくださるのです。

 

聖霊が、わたしたちの心から不純物をすべて取り除いて清めてくださり、神様が最初に備えてくださった真の人間性を与えてくださり、神様の御前に立つために聖なる者として整えてくださり、そして神様の御前に立たせてくださる力を与えてくださるのです。それが聖霊という火です。

 

終末、世の終わり、それは主イエス様の再臨の時であり、わたしたちが神様の御前に立たされ、この地上での歩みが神様の御心に沿っていた歩みであったか、そうでなかったかを判断される時でもあります。わたしたちはその審判の部分だけをフォーカスして恐れますが、神様の御心はそこにはありません。

 

イエス様がこのルカ福音書12章で弟子たちに、群衆たちに言われたことは、神様の愛が込められた警告であって、ファイナルではないということ、つまり悔い改めて神様に立ち返るチャンスが残されているという恵みへの招きであるのです。ですから、日々の生活にあぐらをかいて、満足してしまって自分勝手な生き方を止めて、愛の神様にわたしたちが立ち返って生きることが神様の御心なのです。

 

イエス様は、強烈な言葉でわたしたちの心に葉っぱをかけて神様へ立ち返らせようとするのです。「わたしには受けねばならないバプテスマがある」と言い、「それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう」とあり、聖霊の助けもありました。受けねばならない、どんなに苦しむだろう、聖霊の助け、これはすべて受け身の言葉です。つまり、わたしたちが救われるための業はすべて神様の愛と憐れみから始まったということです。この愛を受け取ることが神様の御心であることを覚えて感謝したいと思います。

 

さて、次に51節の「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ」という言葉に注目しましょう。名詞の「分裂(ディアメリスモス)」は、新約聖書の中でここだけに用いられる言葉です。動詞の「分裂する(ディアメリゾー)」は、52・53節で、対立して分かれると訳されています。この動詞は、新約聖書に12回登場しますが、そのうちの8回はルカ福音書とルカが記した使徒言行録に集中しています。

 

もう一つ特徴的なのは、ルカ福音書以外の福音書で「分裂する(ディアメリゾー)」という動詞が用いられるのはイエス様の十字架の場面だけです。マタイ27章35節、マルコ15章24節、ルカ23章34節、ヨハネ19章23節でローマ兵たちがイエス様の服をくじ引きで分け合う場面です。死刑囚の服さえ奪い合う貪欲という罪が批判されています。

 

ルカ福音書では、11章17節と18節で、イエス様が悪霊の頭だと言われたところで、「内輪で争えば荒れ果て、倒れる」と言った「内輪で争う」という意味で、二回ディアメリゾーが使われています。これは否定的な「分裂する」という意味です。

 

もう一つ、22章17節の弟子たちとの最後の晩餐の場面で、一つの杯を回し飲みする際に、「各人に分けよ」とイエスは命じている所です。一つの杯はそれ以上分裂することがありえないからです。ここでは、イエス・キリストを中心とした交わりにおいて一切の分裂はなく、「分かち合う」という中で神様の恵みがあるという肯定的な意味で用いられています。それは使徒言行録の初代教会の交わりの中でも表れている「分かち合い」です。

 

最後に52節と53節の言葉ですが、一人の人がイエス様を救い主と信じる決心をするとその人の家族間に分裂が確かに起こることをイエス様は指摘します。家族がこれまで大切にしてきた価値観と神様の愛を基本とした価値観のぶつかり合いが生じます。それの衝突が嫌だから、イエス様を信じていても、クリスチャンにはなりませんという人もたくさんおられます。しかし、イエス様はその考えは間違っていると指摘されたいのではないでしょうか。各個人が神様の愛を信じられる「自由」を与えるために、イエス様はまず「分裂」が必要といわれるのだと思います。

 

家族の中の誰かが最初にイエス様につながり、イエス様を通して神様の愛を受けると、その愛は聖霊の助けを通して家族へと注がれてゆくのです。確かに、同じ家族でも福音を受け入れる人と受け入れない人が出てくるでしょう。だからと言って、神様の愛を諦めても良いでしょうか。サタンの誘惑に負けても良いでしょうか。まずあなたが神様の愛を受け取らなければ、家族のみんなは神様の愛を受け取ることはできないのです。

 

「救われるためにはどうすれば良いでしょうか」と尋ねた人に対して、使徒パウロとシラスは「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」と励ましました。まず、あなたが、わたしがイエス・キリストを救い主と信じること救いの業が神様から始まっていることを信じ、その愛を受け取りましょう。罪の悔い改めと信じることから神様の赦しと救いと祝福の業が聖霊を通して始まっていることを喜び感謝しましょう。