ルカ(71) 今の時を見分けよと言うイエス

ルカによる福音書 12章54〜59節

神様の恵みとお導きの中、ルカによる福音書の学びをずっと続けさせていただいて感謝です。今回は12章の最後の部分に記録されているイエス様の言葉に聴きたいと思いますが、この12章全体の内容を一言でお願いしますと言われると、どのような要約になるでしょうか。おそらく、「クリスチャン、すなわちイエス・キリストを救い主と信じる者は、この世において偽善者のように生きるなとイエス様は教える」となるでしょうか。

 

なぜそのような要約になるかと言いますと、すでに11章後半からイエス様のファリサイ派の人々や律法の専門家への非難は始まってはおり、彼らのような偽善者たちに気を付けなさいと注意されてきましたが、12章では偽善的に生きてはならないということがさらに強調され、12章1節で、イエス様は開口一番、「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい。それは偽善である」と言っておられ、12章の最後の部分になる56節でも「偽善者よ」と呼ばれるイエス様の言葉があることがその理由です。

 

しかし、興味深いのは、今回の56節でイエス様が「偽善者よ」と呼んでいるのは、ファリサイ派の人々や律法の専門家たちではなく、群衆に向かってそう呼んでいる点です。では、群衆は何をもって偽善者と呼ばれているのでしょうか。とても興味深いことですが、それは後ほど触れてゆきたいと思います。

 

さて、前回は、ルカ福音書の中でもトップクラスの難解な箇所に聴きました。テーマは、「終末、世の終わり」、つまりイエス様の再臨です。12章後半の学びは、このテーマでつながっています。前々回の学び(35〜48節)は、弟子たちに対してイエス様の再臨がいつあっても良いように、目を覚まし、腰に帯を締め、ともし火をともし、良き管理者として、その時に備えて日々生きることの大切さが語られました。前回の学び(49〜53節)では、終末における神の裁きに備えなさいとの警告を弟子たちに語られました。イエス様は、弟子たちにもっと切迫感、緊張感を持って歩みなさいと言っておられるのだと思います。

 

それでは、イエス様は今回どのような事を教えられるのでしょうか。それは、「終末、世の終わり、イエス・キリストの再臨が間近に迫っている中で、日々、正しい判断をなして生きなさい」と言うことを伝えようとしています。この教えというか、警告の対象者は、54節の「イエスはまた群衆にも言われた」という言葉からも分かるように群衆、つまりすべての人ということになります。イエス様はここで二つの譬えを話されます。

 

イエス様は54節と55節で一つ目の譬えを話されます。「あなたがたは、雲が西に出るのを見るとすぐに、『にわか雨になる』と言う。実際そのとおりになる。また、南風が吹いているのを見ると、『暑くなる』と言う。事実そうなる」と。パレスチナ・イスラエル地域の西側は地中海に面していて、その西側の地中海の方角から雲が出るのを見ると雨が降ると誰もが分かるそうです。またパレスチナの南側はシナイ半島の砂漠地域ですが、そこから南風が吹いてくるのを感じると猛暑になるとすぐに分かるそうです。

 

日本に生きるわたしたちは、どのような自然現象を通して次に来る自然現象・季節の変わり目などが分かるでしょうか。例えば、金木犀の匂いが街に漂ったら、秋が来たことを感じます。喘息や体の節々に痛みのある人たちは、気圧の劇的変化で台風が近づいていることを体で感じます。他にどのようなことがあるでしょうか、教えてください。兎にも角にも、わたしたちは視覚、聴覚、嗅覚、また肌に感じることで、周りで何が起こっているのか、これから何が起こるのかが分かるわけです。

 

そういう群衆に、わたしたちに「このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか、偽善者よ」と言われるのです。このことをもう少し分かりやすくお話しすると、これまでの期間、群衆はイエス様の宣教を聞き、イエス様が悪霊を追い出すところを見て、病人が癒されて喜びの叫びを聞き、心にたくさんの刺激・揺さぶりを受けてきたはずです。

 

このお方は今までの預言者とは違い、その言葉と行いに権威があると誰もが感じたはずです。ファリサイ派の人々や律法の専門家たちはイエス様に恐れをなし、敵意を感じたほどです。このイエス様の言葉と行いを自分の目と耳で見聞きし、体全体で感じたはずなのに、イエス様が神から遣わされた救い主・メシアであること、今が罪を悔い改める時、救いの時、神様の愛を受ける時であることがなぜ分からないのか、なぜ素直になれないのか、偽善者たちよとイエス様は言うのです。

 

イエス様のおっしゃる偽善者には2パターンあるようです。一つ目は、神という存在を認めていながら自分が神のようになろうとする人、つまり人々から認められたくて偽りの自分を演じてしまう人。二つ目は、神という存在がその人の人生に必要であり、恐れや不安、罪からの救いが必要であると心のどこかで分かって求めているのに、そして今その救い主が目の前にいるのに、救いの時、恵みの時が来ているのに、その救いを受け取ろうとしないのであれば、その意味においてその人は偽善者・愚か者となりうるわけです。

 

さて、続く57節に「あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか」というイエス様からの問いかけがあります。ここに重要な着目点があります。イエス様は「あなたがたは」と言っていますが、これは群衆のことです。しかし、「どうして自分で判断しないのか」と言って「自分・個人」で判断すべきだと言います。つまり、この問題は、群衆の波になびかずに、自分で責任を持って判断すべきことだと言っています。

 

イエス様を信じて従うか否かの判断は、みんなで一緒にするものではなく、各自が自己判断で決意すべきことなのだと言っているわけです。イエス様を信じるか信じないかは自分の事柄であって、周りの人の顔色を気にする必要はありません。伴侶とか、家族とか、友人とか、周りの人達から勧められて、背中を押されるということがないとなかなか信じないという人もいるかもしれませんし、その反対に家族から反対されて信じることを躊躇するということがあります。

 

英語では外的圧力を”peer pressure”と言いますが、周囲の人がどのように感じようが、圧力をかけようが、これはあなたと神様との関係性の問題でありますから、最終的な判断、つまりイエス様を信じて従うか、従わないかの判断は自分で神様に祈り求め、自分で決意しなければならないということです。何が正しく、何が正しくないのか、霊の神様が判断を助けてくださるはずです。

 

さて、続く58節と59節にはイエス様の二つ目の譬えが記されています。「あなたを訴える人と一緒に役人のところに行くときには、途中でその人と仲直りするように努めなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官のもとに連れて行き、裁判官は看守に引き渡し、看守は牢に投げ込む。言っておくが、最後の一レプトンを返すまで、決してそこから出ることはできない」とあります。ここにたくさんの示唆が富んでいます。

 

「あなたを訴える人」がいると。皆さんは誰かから訴えられたことはあるでしょうか。事故や怪我のこと、治療費のことなどもあるでしょう。また、他にも親しかったはずの兄妹との遺産相続のことで、最初は愛を約束して結婚したはずの人との離婚のことで、訴えたり、訴えられたり、いろいろなことがあります。そういう人と役人のところに行くときには、「途中で」、その人と仲直りするように努めなさいとイエス様は言われます。

 

当時のユダヤ社会は、役所と裁判所の機能はくっ付いていたそうで、役人と裁判官の癒着とまでは言いませんが、訴えられるとかなりの確率で有罪になってしまい、一度下された判決はくつがることはない。ですから、そのような判決が下る前に、役所・裁判所に到着するまでに、相手と和解するように最大限の努力を惜しんではならないという事です。ですから、58節の中頃からあるように、「さもないと、その人はあなたを裁判官のもとに連れて行き、裁判官は看守に引き渡し、看守は牢に投げ込む」とイエス様は言っています。「裁判官のもとに連れて行く」というギリシャ語は「力づくで引っ張って行く」です。

 

さて、これはイエス様が群衆に語った譬えです。イエス様が言いたかった事、それは、「あなたは神に対して罪を犯した者で、そのために神の裁きの場にいま向かっている。しかし、このまま行けば確実に罪に定められて投獄されてしまう。だから裁きの場に向かう『途中で』、神と和解しなさい」とイエス様はすべての罪にある者にそう言うのです。イエス様が言われる「途中」とは、イエス様が十字架の贖いの死と甦りの後、天に昇られて、この地上に再び戻って来られるまでの「期間」を表しています。そしてその期間がいつ終わり、イエス様が再び来られるかは誰も分からないのです。ですから、いつイエス様の再臨があっても良いように、遅くなる前に、悔い改めの余地がある間に、神様からの和解の手が差し伸べられている今、神様と和解しなさいという招きなのです。

 

59節の「言っておくが」というイエス様の言葉は、神様の裁きは差し戻しが効かない、控訴できない神様の「終局的決定性」が強調された言葉なのです。神様は愛の神であると同時に正しい神です。罪をそのままにしておかないお方です。ですから、神様の決定的な裁きの前の最後の期間を逃さずに、心を悔い改めて神様と仲直りしなさいという警告です。

 

イエス・キリストの再臨が間近に迫っていることが世界中で起こっている戦争や自然破壊による影響や秩序のない人間の業の繰り返しで分かっているはずではないでしょうか。そういう不確かで不安定な日々の中で、いつも正しい判断をなして生きなさいとイエス様は言われるのです。しかし、この「正しい判断」はどのように下すことができるのでしょうか。はたまた、わたしたちは何が正しく、何が正しくないのか、その基準も分からないのにどう判断できるのか。この正しい判断は、人間の知恵や努力で下すことができません。悔い改めて、イエス・キリストを救い主と信じ、神様につながることで、御言葉を通して物事を判断する基準が与えられるのです。神様への信仰が必要であり、それを求めれば、神様は愛と慈しみをもって信仰を与えてくださるのです。主を信じましょう。