ルカ(72) 悔い改めを励ますイエス

ルカによる福音書13章1〜9節

ルカによる福音書の学びも13章に入り、24章ある福音書の後半に入ってゆきます。今回を含めてこれまで学んできた回数は72回になりますが、果たして後半は何回の学びになるでしょうか。とても楽しみですが、まだ先は長いです。最後まで集中して、根気よく主の言葉を聴いて行きたいと思います。特に19章後半からは、イエス様の受難と十字架の死、復活、そして昇天という大切な学びになりますので、ご一緒に聴いてゆきましょう。

 

さて、この13章は1節の「ちょうどそのとき」という言葉から始まります。これは、12章後半に記されているイエス様が群衆に教えておられる「ちょうどそのとき」ということになります。つまり13章は「世の終わり・終末における神の裁き」という12章のテーマが継続していることが分かります。

 

ほんの少しだけ前回の学びを振り返りたいと思いますが、イエス様は、群衆に対して、「あなたがたは義なる神様の裁きに向かう『途中』にあるから、その途中で神様との和解を求めなさい、罪の赦しを求めてくる者の罪を神様は赦してくださる」というイエス様の警告を聴きました。しかし、イエス様はどのように神様と和解すべきなのかまでお話になりませんでしたので、今回の13章1節から5節で、神様と和解し、関係性を正しくするためには、まず神様に対して悔い改めることが必要であるとイエス様は教えられます。それでは、「悔い改める」とはどういう事なのか、どのように悔い改めるのか、ということになるかと思いますが、それについては後ほどお話ししたいと思います。

 

さて、今回共に聴く13章1節から9節は、二つのお話から成り立っています。最初の1節から5節までは、実際にあった事件と事故について語らえており、6節から9節は譬え話となっています。この二つは一見すると別々のお話しのように聴こえますが、悔い改めなさいという2度にわたる警告と悔い改めた人が、悔い改めにふさわしい実を結ぶことを忍耐して待たれる神様の憐れみという深い関係があるメッセージとなっています。

 

さて、13章は非常に血なまぐさい事件と事故の話から始まり、少し説明が必要となります。1節を読みます。「ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた」とあり、4節では「また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人」とあります。

 

イエス・キリストがこの地上を歩まれた時代は、ローマ帝国の皇帝がユダヤ地方を支配し、その地の統治を皇帝から任せられていたのはピラトという総督でした。このピラトは皇帝に気に入られようとしていたのでしょう、非常に強権的な政治をし、任せられたユダヤ地方を支配した様ですのでユダヤ社会から強い反感・反発を買いました。その反対勢力の先頭に立ったのが「ガリラヤ人」という過激派のような人たちです。ローマと過激派の間には何度も抗争があったようで、圧倒的な軍事力を持つローマ軍によって「ガリラヤ人」の多くが殺されました。ピラトが彼らを血祭りにあげたと、イエス様のところに報告に来た人たちがいました。

 

もう一つの事件、それは事故でしたが、シロアムの塔が倒れ、18人がその事故で亡くなったというものです。総督ピラトは、高所にあって水の少ないエルサレムに水を引こうという大規模な水道工事を計画し、その工事資金を神殿にささげられた、つまり神様にささげられた献金を使おうとしましたが、ユダヤ人たちは猛反対し、ピラトを猛非難しました。しかし、ローマ帝国とピラトの力に及ぶ者は誰一人いません。先ほどの「ガリラヤ人」たちは、この強引であり、ユダヤ社会を無視した計画への怒りの反対活動をしていたのかも知れませんが、ピラトはこの水道工事を強行に始めます。

 

ただ、その工事で働く人員はほぼユダヤ人です。何百人ものユダヤ人男性が働いたと考えられますが、そのうちの18人が事故で亡くなりました。民衆は、神殿の献金を不正に使ってしまうピラトに不満を募らせ、雇われて働いた人々を裏切り者だと捉え、怒りを感じていたかもしれません。悲惨な事故が起こったのは、神の裁きを受けたことだろうと思ったかもしれません。日本では、そういうことに対して、「ばちが当たった」とよく言いますが、そうなると「因果応報」と仏教的な教えになってしまいます。

 

しかし、イエス様は、その「因果応報」的な考え方を否定します。では、どのように否定されたでしょうか。2節と3節前半の部分と4節と5節前半の部分を読みたいと思います。「イエスはお答えになった。『そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない』」、「また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない」と。イエス様はすべてイエス様の言葉に耳を傾けている人たちに宣言します。「事件に巻き込まれた人、事故や災難に遭った人は、あなたより罪深いから死んだと思うのか。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と同じ言葉で2度も警告しています。

 

死の形、つまりどのように死を迎えるのか、その方法は数え切れないほどあります。一番理想的な死の迎え方は、ピンピンコロリ、死の直前まで元気に生きて、最後は眠るかのように布団やベッドの上で息を引き取るという形ですが、自死以外は死に方をわたしたちは選ぶことはできません。生まれてきた時も、死を迎える時も、すべて神様の御手の中で命は取り扱われます。なぜ人は死を迎えるのか。聖書には、人は神との平和の中で永遠に生きる存在として創造されたけれども、人が神のような知恵と知識を得ようとして神様の命令を無視して犯したために、その罪のために神の裁きを受け、死という報いを受けることになった。だから、人は死を迎えるのだと記されています。

 

けれども、憐れみ深い神様は人間に滅ばないで永遠の命を得られる道を与えてくださった。それがイエス・キリストを救い主と信じる道です。イエス様を信じて救いを与えられるために人が最初にしなければならないことがあります。それはこれまで犯してきた間違いや罪を神様に謝るということで、それが「悔い改め」ということです。

 

「悔い改める」とは、簡単にいうと「心を変える」ということです。今まで向いていた心の方向性を変えて、まったく正反対の方へ心を向けるという意味があります。この心を変えるということには三つの要素があります。1)自分の罪、間違い、弱さを自覚するということ、2)その罪を犯してきたことを悲しむ・痛む・申し訳なく思うこと、3)そして神様のほうへ心を向けて生きてゆく意志を持つこと、決意するということです。キリスト教においては、悔い改めるとは、単に悪いことをすべて捨て去るということだけではなく、神様に向かう意志を持つということ、すなわち生活態度を変えようとする意志があるかないかが問われているということです。

 

神様の御前で罪のない、間違いのない人は一人もいません。すべての人は何かしらの罪を持っていて、「悔い改めない人は永遠の死を迎え、悔い改めて神様に立ち返る人は永遠の命が与えられる」、そのためにイエス・キリストがこの地上に生まれて、悪霊を追い出し、病人を癒し、神の国について教え、神の裁きについて教え、その末に、わたしたちが負うべき罪の報酬をすべてその身に負って、肩代わりして十字架で苦しんで死んでくださったのです。神の裁きの前に、救い主がわたしたちのもとに来て仕えてくださり、神様の憐れみを示し、その愛を注いでくださったのです。その良き知らせが福音です。この神様の愛を受けるためには、まず悔い改めて、神様に立ち返り、イエス様を救い主と信じてイエス様につながらなければなりません。

 

それでは、イエス様が次に語られた譬え話に注目しましょう。この譬え話は、神様がいかに憐れみに満ちた、恵み深い、忍耐のあるお方かが表されています。日本のことわざに「桃栗3年、柿8年」と良く聞きますが、桃と栗は苗木を植えてから3年で、柿は8年で実を結ぶと言われていて、いちじくは3年で実をつけるということです。そのことを念頭に入れて6節から9節を読んでみましょう。

 

「6そして、イエスは次のたとえを話された。『ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。7そこで、園丁に言った。「もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。」8園丁は答えた。「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。9そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。」』」と。

 

つまり、こういうことが言えます。成長のためにまず3年待った、それから実を結ぶだろうと期待してさらに3年待った、しかし6年経っても実を結ばない、だから切り倒してしまおうというのは、成果や効率を考えれば正しい判断です。ところが、園丁が「もう1年待ってみましょう」と主人に直談判するのです。園丁は主人にただお願いしたのではなく、「木の周りを掘って、肥やしをやってみます」と最大限の努力を注いでみますからと約束をするのです。これは執りなしです。いちじくの木は、実を結ぶチャンスをもう一度与えてくださいと主人の憐れみをお願いするのです。合計7年、それは完全数です。

 

この譬えのぶどう園の主人は神様であり、園丁はイエス様です。そしていちじくの木はわたしたちです。このわたしたちは神様の願いに背いて、神様の期待をずっと裏切り続け、神様が望む実を結んで来ませんでした。わたしたちは神様の喜ぶ実を結ぶことが生きる目的であるのに、自分の好きな実を結ぶことばかりに集中して生きてきました。そのままでは切り倒されてもおかしくない状態であったわけです。

 

しかし、イエス様がわたしたちのところまで来て下さり、悔い改めて神様に立ち返りなさいと警告し、救いへと招き続けてくださるのです。このイエス様の愛と神様の憐れみに応える方法はただ一つ、それは救い主イエス様を信じてこの方につながり、イエス様の助けと聖霊に満たされて、神様の期待される実を豊かに結ぶということです。その実とは、ガラテヤの信徒への手紙5章22節と23節に記されている、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。この9つの実を結ぶことが神様との平和に生きる証しであり、平和への道となるのです。