ルカによる福音書13章10〜17節
引き続きルカによる福音書13章に聴いてゆきます。前回の1節から9節までのイエス様の教えは、神の裁きの時が近づく中で、まだ救われる道がある、それは悔い改めてイエス・キリストを救い主と信じることであるということでした。災害や事故に遭って不慮の死を経験した人たちは他の人たち以上に罪深かったから死んだのではないし、罰(ばち)が当たったのでもないとイエス様は言われ、「事件に巻き込まれた人、事故や災難に遭った人は、あなたより罪深いから死んだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と2度も警告しています。イエス様を救い主と信じ、改心する、その助けも聖霊を通して神様から来ます。
さて、今回の箇所では、安息日に、イエス様が腰の曲がった女性を癒されることによって、イエス様に対する批判と会堂長、すなわちユダヤ教リーダーとの論争が起こってしまいます。ここまでは終末・神の裁きの時が来ることへの警告と悔い改めへの勧告が続いていましたが、ここに来て急に癒しの奇跡が記されていることにこれまでのテーマとの関連性のなさを感じる方もおられるかもしれませんが、その反対でけっこう関連があります。
神の裁きの日が来る前に、人はなぜ悔い改めなければならないのでしょうか。答えは簡単です。それは、神様の愛・憐れみを受けて救われ、これまでの考え方、行動、生活を一新する必要があるからです。これまで罪に縛られ、この世の律法・習慣・慣例・価値観などに縛られて生きていましたが、それらから完全に解放され、自由にされる必要があり、その自由のために悔い改め・心の向きの180度の方向転換が必要だからです。今までは無意識のうちに死に向かって歩んでいましたが、悔い改めることによって、意識的に神様に向かって、永遠の命と祝福に向かって歩むようになります。そこに大きな違いがあります。
さて、10節から読み進めて行きましょう。最初に「安息日に、イエスはある会堂で教えておられた」とあります。わたしたちが心に留めるべき大切なことがここに二つあります。一つは「安息日」について、もう一つは「イエス様は会堂で礼拝をささげておられた」ということです。ひっくるめて言うと、安息日は神様に礼拝をおささげする大切な日であるということです。なぜ安息日が大切であり、必要なのでしょうか。
その理由が旧約聖書の出エジプト記20章10〜11節と申命記5章14〜15節に記されていますが、この二つの箇所は安息日を守る根拠がそれぞれ違っています。出エジプト記では、「主なる神が天地万物を創造された後、七日目に休まれ、安息日を祝福して聖別されたから」とありますが、申命記では「あなたがたはかつてエジプトの奴隷であったが、主なる神が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたがたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのため、あなたの神、主は安息日を守るように命じられた」とあります。
一つは、神様が天地創造の業を6日間で終えられて、7日目を休まれたからという理由です。もう一つは、主なる神様がイスラエルの民をエジプトの苦役から救い出された日を覚えるためにという理由になっています。どちらも重要な理由です。
では、今日を神様の愛と憐れみの中で生かされているわたしたちが安息日を守る理由は何でしょうか。セブンスデーアドベンティスト教会以外のプロテスタント教会は日曜日に礼拝をささげますが、その理由は、わたしたちの罪を贖うために十字架で死んでくださったイエス様が神様の御力によって日曜日の朝に甦られたことを覚え、感謝と喜びを表すためです。
他にも安息日を守る理由が旧約聖書には記されています。第一に、先ほども言いましたように、安息日は創造主なる神様を覚える日です。第二に、安息日はすべての人が休むためです。第三に、すべての人が、主人も僕も、男も女も、年配も若者も、富む者も貧しい者も、みんなが神様に愛されている存在で、神の御前において平等であることを覚える日です。第四は、神様との約束、すなわち「人は神を神として信頼して生きる」という約束をもう一度確認する日です。第五の理由、それは安息日は神様の愛と憐れみを知る日であるから、これが今回のテーマです。
第一から第四の安息日を守る理由は傲慢な人たち、ユダヤ教のリーダーたちによって歪曲されてゆきました。
例えば、安息日を守る理由にすべての人が休むということがありますが、クリスマスの時に最初に救い主の誕生を知らされた羊飼いたちは生き物を扱う仕事であり、羊や牛に水や餌を毎日与えなければなりませんから安息日を守れません、神様との約束が守れません。ですから、金持ちや普通の生活をしている人たちは、自分たちの代わりとなって働いてくれている羊飼いや農業の仕事に就く人たちを一方的に差別し、見下すわけです。そこには「平等」がまったくないのです。そのような差別され、人の目にも付かない人たちに救い主の誕生が真っ先に知らされたのは、神様は羊飼いたちを愛し、大切に思っている証拠であったわけです。
前置きがだいぶ長くなりはしましたが、非常に重要なポイントです。安息日に18年も苦しみの中にあった一人の女性がイエス様によって癒されるというのは、この彼女も神様に愛されている存在であり、アブラハムの子の一人であることの証明です。つまり、安息日を大切に守る第五の理由である「神様の愛と憐れみを知る日」ということをイエス様は群衆に伝えたかった。ですから、イエス様は「この女は(神に愛されている)アブラハムの娘」だと16節で言っているのです。ですから、安息日を守るとは、神様の愛、イエス・キリストによってすべての苦しみ・しがらみから完全に解放されたことを喜ぶということになります。
お話しが前後しますが、11節から読んでゆきましょう。「そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった」とあります。この箇所をよく理解するためにはいくつかの事を知っておく必要があります。
まず、この女性は安息日に神様を礼拝する場所にいたということ、つまり礼拝者であったということです。18年もの間、ずっと病の霊に取りつかれて苦しんでいたのに、それでも主なる神様を礼拝するためにシナゴーグという礼拝堂に来たということです。凄いことです。しかし、その一方で、その病の霊に取りつかれた彼女を会堂司・会堂長という宗教のリーダーたちはずっと癒せなかった、彼女から病の霊を追い出せなかったということです。何もしなかった。どちらかといえば、彼女を差別的に見ていたのだと思います。
「腰が曲がったまま」という言葉の原文は、「体全体」が硬直して伸ばすことができないとなっていて、とても不自由な生活を送っていたというが分かります。その病の霊に取りつかれた彼女をそのまま放っておいて、汚れた者として差別していた会堂長たちの傲慢さにイエス様は怒りを覚えられたはずです。
12節と13節には、「イエスはその女を見て呼び寄せ、『婦人よ、病気は治った』と言って、その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した」とあります。「病気は治った」という言葉の原文は、「病気から解かれた、解放された」という言葉になっています。イエス様は彼女を憐れまれて、一瞬でこの女性を苦しみと不自由さと差別の辱めから解放したのです。この苦しみから解放された人の最初のリアクションは「神様を賛美した」、すなわち礼拝です。
しかし、すべての人が同じリアクションをした訳でなく、正反対のリアクションをした人が14節に登場します。「ところが会堂長は、イエスが安息日に病人をいやされたことに腹を立て、群衆に言った。『働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。』」とあります。なぜ彼は腹を立てたのでしょうか。イエス様が平気で安息日の規則を破ったからでしょうか。もしそうであれば、イエス様に直接意見すれば良いだけだと思うのですが、彼は「群衆に言った」と記録されています。なぜ群衆に向かって言う必要があるのでしょうか。
あるいは、ユダヤ教指導者として神の戒めを守る必要性を群衆に強調する責任が自分にあると思ったかもしれません。しかし、たぶん、これはわたしの考えるところですが、自分の面目を守るためであった、自己弁護のためであると考えます。何故ならば、彼は病の霊によって18年間ずっと苦しんできた女性から悪い霊を追い出すことができなかったのに、イエス様は一瞬で彼女を病の霊から解放してしまったからです。
単純計算をすると、1年から安息日の52日を引いた304日を18年でかけると5,472日になります。すなわち、祈りをもって悪霊を彼女から追い出すチャンスがあったのに、それをして来なかった、あえて臭いものに蓋をして来たのかもしれませんが、イエス様は一瞬で彼女から病の霊を追い出し、恥と苦しみ、不安と恐れから解放して、自由を与えられ、その自由はずっと続くのです。もう少し言葉を変えていうならば、彼女は神様に憐れまれて救われ、本来のあるべき姿へ戻されたということです。
「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない」と言う言葉は、会堂長が一種の白旗を挙げた言葉にも聞こえます。つまり、「安息日以外であれば、イエスのところへ行って治してもらえ。あいにく自分には悪霊を追い出す力はないから。しかし安息日だけは決して許されない」とも聞こえてきます。
物事を自分の都合の良いように理解し、自分の弱さや恥を怒り(腹を立てること)で懸命に覆い隠し、責任逃れをしている人、ダブルスタンダードな人がここにいます。わたしたちも同じようなことをしていないか、ダブル・トリプルスタンダードをもって生きていないかのチェックをする必要があるのではないかと思います。
次の15節をご覧ください。「しかし、主は彼に答えて言われた。『偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか』」とあります。まずイエス様は会堂長や律法に縛られている人たちに対して「偽善者たちよ」と呼んでいます。いくつものスタンダードを自分たちの都合の良いように使い分けている人たち、それによって人々を差別的に扱っている人たちです。
ここで福音書の記者ルカはイエス様のことを「主」と言い換えています。これは非常に重要なポイントです。イエス様はただの人、教師ではありません。イエス様は神様から遣わされた救い主であり、その言葉と行いに絶大なる力と権威、すべてに対して主権を持たれた方であるということをルカはイエス様を「主」という呼び方で示そうとしています。
この主イエス様が偽善者や反対者に対して3つの比較をして問いかけるのです。
1)家畜が小屋で縛られている状態と人が汚れた霊・病の霊に縛られている状態、どちらが悲惨な状況か。
2)喉が渇いて水が飲めない一時的な苦しみと18年も病の霊に苦しめられて来た苦しみ、どちらが耐え難いか。
3)「牛やろば」と「アブラハムの娘」、どちらが大切であるのか。
こう言って、16節、「この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか」と問うて、安息日とは救いの日であり、恵みを喜ぶ日であり、互いに裁き合って生きるのではなく、愛し合って生きることが神様の御心ではないか、いや、それこそが御心だと主イエス様がわたしたちに教えているように聞こえてきます。
イエス様の言葉と行いに権威があり、神様の愛と憐れみがあったので、「反対者は皆恥じ入ったが、群衆はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ」と17節にあります。
安息日は、神様に愛されていることを喜ぶ日であり、愛してくださる神様を心を尽くして愛する、礼拝を捧げることで感謝を表す日であるということができると思います。それは日曜日に限定されたことではなく、毎日が礼拝をささげ、喜びと感謝を持って生きる日です。神様とイエス様に愛されているように、家族や隣人を愛して心から仕えることを確認する日でもあると感じます。