ルカ(76) エルサレムのために嘆くイエス

ルカによる福音書13章31〜35節

ルカによる福音書の学びも、今回の箇所で13章が終わります。前回で75回の学びが終わり、今回は76回目の学びになります。福音書の後半は、エルサレムへの旅が続き、イエス様の受難、十字架の死、三日後の復活、そして昇天という流れになって行きます。どんどんエルサレムが近いて来ます。エルサレムが近づくとは、イエス様にとってご自分の受難と死が近づくということです。イエス様は、そのことを重々承知されていました。

 

ですので、イエス様は、緊迫感を持ちつつ、真剣に、神様の御心に従って歩まれたと推測します。エルサレムへの一歩一歩を、日々を踏み締めながら歩まれ、目の前に起こることを神様の御心と信じて向き合い、取り組まれ、言葉を発し、教えられたのだと思います。わたしたちの齢はあとどれだけなのか分かりませんし、主イエス様がいつ再び来られるのか分からない中で、ある程度の緊迫感・緊張感をもって、いつも真剣にというか、いつも誠実に生きることが大切だと感じます。イエス様がエルサレムに向かっておられると同じように、わたしたちもこの地上での終わりに向かっていることを覚えたいと思います。覚えたいというのは、恐れながらという意味ではなく、神様の愛と恵みに感謝しつつ、喜びながら、平安の中で生きるということです。この感謝も、喜びも、平安も、イエス様の十字架の死と復活という救いの業があったからこその恵みであり、その起源は神の愛です。

 

さて、今回の箇所には「二つの事柄」が記されています。最初の31節から33節にはヘロデのイエス様殺害意図の噂とそれに対するイエス様の答えが記され、34節から35節には、エルサレムに対するイエス様の嘆きが記されています。この二つの「事柄」を問題と捉えるか、それとも神様からの愛と捉えるかによってだいぶ変わってくると思います。

 

最初の部分ですが、31節に「ちょうどそのとき、ファリサイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに言った。『ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています。』」とあります。ここで一つの固定観念が崩されます。これまでの学びの中で、ファルサイ派の人々はイエス様の敵、何かとイエス様に噛み付く人々という考えが心に染みついていましたが、すべてのファリサイ派の人々が悪いのではなく、優しい人たちもいたということだと思います。イエス様に近寄ってきて、「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています。」と親切に言ってくれる。

 

皆さんの中には、「いやぁ、その考えは甘すぎる。ファリサイ派には何か他に魂胆があったかもしれない」と勘ぐってしまう人もいるかもしれません。その理由として、イエス様が32節で「行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい」とあり、「行って、あの狐にわたしが言ったと伝えなさい」ということは、ファリサイ派とヘロデとの間に何らかの関係性があったからではないかとも考えられるからです。ちなみに、「狐」には小心者だがずる賢いという意味があるそうです。バプテスマのヨハネを死に追いやる時も確かにそうでした。ヘロデはそういう人であったので、イエス様はヘロデを狐と呼んだのでしょう。

 

さて、確かにヘロデとファリサイ派に癒着があったという考え方にも一理あると思います。しかし、それでは、他の魂胆として何が考えられるでしょうか。例えば、自分たちの手でイエスを殺すつもりであったとも考えられます。そう考えると、非常におぞましいです。しかし、そのようなことは聖書には記されていないので考えすぎも良くありません。

 

さて、しかしここでしっかり把握しておかねばならないことは、ヘロデがイエス様に対して何故殺意を抱いていたのかということです。殺意を抱くとは、憎しみがあるということですが、憎しみを抱くにもいく方向もの理由があります。ヘロデの憎しみは一方的なものであったと考えられます。つまりイエス様には責任がないということです。

 

ヘロデ・アンティパスはユダヤ人ではなく、彼の父親は生まれたばかりのイエス様を殺そうとしたヘロデ大王です。ヘロデ・アンティパスはローマの後押しを受けてガリラヤ地方を治めていた統治者です。イエス様とあまり接点のない人がなぜイエス様を殺そうとしたのか。そこには背景があります。ヘロデは、人々から尊敬を受けていたバプテスマのヨハネを殺した人です。その理由は、自分の妻と一方的に離縁し、兄の妻を奪って彼女と結婚した身勝手さをバプテスマのヨハネから厳しく非難されたからです。このヨハネを殺したすぐ後にイエス様が伝道を始められ、ヨハネよりも素晴らしい業や奇跡を行ったので、人々はバプテスマのヨハネが甦ったのではないかと言い出し、それを聞いたヘロデは「戸惑った」とルカ9章7節にあります。

 

人から伝え聞いたことを確認もせぬまま、ただ信じてしまうと、不確かな情報が心の中で戸惑いとなり、それが恐怖に変わり、恐怖が憎しみに、さらに殺意へと変わっていったと考えられます。なぜそのようなメカニズムになってしまうのでしょうか。それは自分を守ろう、防御しようという気持ちが働くからです。なぜ防御しようとするのか。それは、いま手にしているものを失いたくないと強く思ってしまうからです。

 

イエス様は、バプテスマのヨハネとは違います。イエス様には、父なる神様から託された特別な使命があり、それは人々から悪霊を追い出し、病人をいやし、神の国について語り伝えることだけではなく、究極的にはわたしたちの罪を肩代わりして十字架上で贖いの死を迎えてくださること、その後に父なる神様が自分を死の中から引き上げてくださって甦らせること、それらすべてを分かっておられました。ですから、イエス様は33節で「だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ」と言われるのです。

 

イエス様は十字架の贖いの旅の途中で死ぬことはない、つまりエルサレムへの旅の途中でヘロデの手にかかって死ぬことは決してない、何故ならばそれは神の御心・ご計画ではないとしっかり分かっていたからです。その表れが「預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ」という言葉です。イエス様の受難と贖いの死は、旧約の時代に神様の救いの約束として預言者たちを通して預言されていたからです。

 

32節と33節に同じような言葉があります。32節には「今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える」とあり、33節には「わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない」とあります。悪霊を追い出し、病気をいやすことは救いの業です。究極的には罪の赦しと罪からの解放です。その後、三日目にすべてを終えるとは、死という最大の敵から復活をもって勝利するということを暗示しています。

 

しかし、復活されたイエス様はその後に弟子たちに現れ、神の国についてさらに教えられ、全世界へ出て行って福音を宣べ伝えることを命じられた後、目の前で天に引き上げられます。昇天と呼びます。このイエス様が再び帰って来られる。その日まで、イエス様の弟子たちは、今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならないのです。自分の道、それはイエス様が愛したように神様を愛し、隣人を愛し、互いに愛し合い、支え合い、平和を作り出す道です。神様がイエス様を通して与えてくださっている新しい命を喜び合い、恵みを分かち合って共に生きることです。それが神様の御心です。

 

さて、34節から35節にあるイエス様の言葉に聴きましょう。34節に、「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった」とあります。ここでイエス様が「エルサレム、エルサレム」と呼んでいるのは町ではなく、町に住んでいる人々を指しています。エルサレムの人々とはユダヤ人を指します。そのユダヤ人たちをイエス様は「預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ」と呼び、「わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった」と嘆きます。ご自分がエルサレムでどのような扱いを受けるのかを分かっているので、そのように言われます。

 

しかし、エルサレムは神様にとって大切な存在です。滅びて欲しくない、イエス様を救い主と信じて欲しいという強い願いがあったと思います。その強い思いを表しているのが、「エルサレム、エルサレム」と二度も繰り返している所にあると思われます。例えば、主なる神様がアブラハムを呼ばれた時、創世記22章11節ですが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけました。イエス様がのちのパウロであるサウロを召し出す時も、使徒言行録9章4節ですが、「サウル、サウル」と呼びかけています。大切な人を神様とイエス様が呼ぶ時、名前を繰り返すというところから、エルサレムも神様に愛されている存在であり、その存在が悔い改めて神様に立ち返ることを待っておられるということを感じます。

 

しかしながら、誠に残念ながら、エルサレムはイエス様を受け入れず、イエス様を殺そうとします。その筆頭がユダヤの宗教的リーダーたち、律法の専門家やファリサイ派の人々でした。彼らは律法を守ってさえいれば神様に喜んでいただけると考え、自分たちを正当化し、律法を守れない人たちを断罪し、社会から追い出していました。預言者も迫害されてきましたし、神様から遣わされた神の子、救い主も拒絶されようとしています。救い主を拒絶する人たちに対して、イエス様は「見よ、お前たちの家は見捨てられる」と言われます。それは悲しみと痛みの伴う宣言であったと思います。

 

何故ならば、イエス様がこの地上に来られた目的は、「めん鳥が雛を羽の下に集めるように」、エルサレムの人々を、わたしたちを神様のみ翼の下に集め、サタンから保護し、神様に愛の温かさの中に入れ、魂の安息を与えることにありました。信仰を喜ぶということは、神様の愛、温かさを感じることです。神様のみ翼の下に居ましょう。詩編91:1〜4。