ルカ(77) 安息日に病人を再び癒すイエス

ルカによる福音書14章1〜6節

ルカによる福音書の学びは14章に入ります。今回の箇所は、イエス様が安息日に再び人を癒す箇所で、1回目の癒しは13章10節から17節に記されています。13章の癒しは18年間も病の霊に取りつかれて腰が曲がったままの女性でしたが、今回は「水腫」という病気を患っている男性です。病気を癒す場所も、最初のいやしはシナゴーグと呼ばれる会堂でしたが、今回の癒しはファリサイ派のとある議員の家でした。

 

「水腫」という病気について、聖書の註解書や説教集ではなかなか取り上げられていないので、ウィキペディアで調べますと、「動脈側毛細血管からの濾出(ろしゅつ)と静脈側毛細血管の再吸収およびリンパ管からの排出の動的平衡(どうてきへいこう)が崩れることにより、細胞間隙(さいぼうかんげき)や体腔(たいこう)に余剰な水分が貯留する現象で、皮下組織に貯留したものを浮腫(ふしゅ)・むくみ、体腔内に貯留したものを胸水、腹水、心嚢内(しんのうない)にたまると心嚢水(しんのうすい)と呼ばれる。症状としては、顔が青白く四肢末梢(ししまっしょう)が膨らみ、呼吸はゼーゼーと細かい気泡音を呈して少し運動しただけで呼吸困難に陥る。鬱血性心不全と腎不全が第一の原因として挙げられる。様々な内臓疾患のシグナルともなっているので放置せずに受診するべき」とありました。

 

「水腫」という病気について聖書は何と記しているかと調べてみますと、旧約聖書に二箇所記されており、「呪われた病気」であることが分かりました。民数記5章20節以降に姦淫の罪を犯した女性が受ける「苦い水の呪い」が記されていて、21節と22節に「主がお前の腰を衰えさせ、お前の腹を膨れさせ、民の中で主がお前を呪いの誓い通りになさるように。この呪いをくだす水がお前の体内に入るや、お前の腹は膨れ、お前の腰はやせ衰えるであろう」とあります。ここでは「腹水」のことを言っているようです。また、詩編109篇18と19節には、人を慈しむ思いのない傲慢な男性に対する呪いとして、「呪いの衣として身にまとうがよい。呪いの水のように彼のはらわたに油のように彼の骨に染み通るように。呪いが彼のまとう衣となり、常に締める帯となるように」とあります。

 

つまり、「水腫の人」とは、傲慢な人、また罪を犯して、神に呪われた人ということになるわけです。しかし、そのような人を呪われた人としてではなく、病人としてイエス様は癒されます。それは人を呪うのは人であって、神ではないということです。神様は慈しみ、憐れみの神であられます。人の傲慢さが他の人を呪い、苦しめるのです。

 

さて、14章1節を読みますと、「安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた」とあります。「安息日」とは、日常生活を止めて、神様のみ前に自分を置いて、神様に賛美と礼拝をおささげし、神様に出会ったり、御言葉を聞いたり、お祈りしたりと親しく交わる時、非日常的な霊的交わりをする日です。その日は神様のために聖別して生きる時間です。礼拝の後に家族や親しい人たちと食事をしたりする訳です。「ファリサイ派のある議員の家」とありますが、ファリサイ派は律法に非常に厳格な人々で、安息日に関する律法・規程を守ることには徹底している人たち、いわゆる宗教的に「聖なる人たち」です。「議員」とはサンへドリンというユダヤ最高議院のメンバーということです。

 

しかし、2節を読みますと、驚くべきことが記されています。「そのとき、イエスの前に水腫を患っている人がいた」と記されています。イエス様は律法に厳格なファリサイ派の議員の家にいたとはっきり1節に記されているのですが、つまり「水腫を患っていた人」が「聖なる人」の家に居たのです。ある講解書ではこの人のことを「招かざる人」とあるのですが、そもそもそういう「招かざる人」が宴会場ではなく、夕食の場に紛れ込むことができるのかが不思議です。しかし、「人々はイエスの様子をうかがっていた」とも記され、イエス様が安息日に律法を破るならば揚げ足取りをしよう、追及する証拠をとらえようと考えていた意地悪な人たちもいたでありましょうから、イエス様を陥れるために意図的に水腫を患っていた人をその場に用意したとも取れます。

 

しかし、もう一つの可能性も拭いきれません。それは、ファリサイ派の議員の家族に「水腫の人」がいたかもしれないという可能性です。そのように思う理由は、二つあります。まず聖人、厳格なユダヤ人、裕福な人の家に病気の人などいないと考える事がそもそもおかしな話です。どの家庭にも病気を患っている人はいるはずで、ファリサイ派の人々の各家庭も例外ではないと思います。つまり、もしかしたら、この「水腫の人」は、議員の息子であったかもしれませんし、兄弟であったかもしれません。

 

もう一つの理由は、5節のイエス様の言葉です。「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」とそこにいる人たちに質問しています。「自分の息子が誤って井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに救い上げない無慈悲な父親はいるだろうか。愛する者が苦しんでいたら、すぐに助けないだろうか」と聞こえます。この主イエス様の言葉から、「水腫の人」は、議員の息子、あるいは兄弟であったかもしれないと考えられます。

 

さて、「イエスの目の前に水腫を患っている人がいた」ので、イエス様はすぐに癒したいと思われたでしょう。しかし、イエス様の行動をうかがっていた人たちの存在も分かっていました。その存在とは「律法の専門家たちやファリサイ派の人々」です。彼らは、と11章53節にある、イエス様に対して「激しい敵意を抱き、いろいろの問題でイエスに質問を浴びせ始め、何か言葉じりをとらえようと狙っていた」要注意人物たちです。

 

ですから、イエス様は、「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか。」と3節で質問されます。しかし、4節に「彼らは黙っていた」とあります。なぜ黙っていたのでしょうか。彼らの関心事は、人が安息日に癒されることではなくて、イエス様が安息日に人を癒すかどうか、律法を破る所を見届けることにあったからです。そういう事すべてをイエス様はよく分かった上で、「イエスは病人の手を取り、病気をいやしてお帰しになった」のです。

 

「お帰しになった」ということは、癒された人はその家の人、つまりファリサイ派の議員の息子ではなかったと言えるとも思えます。しかし、「どこへ」彼をお帰しになったのかが記されていません。つまり、家にある自分の部屋であったかもしれませんし、既婚の息子であれば自分の家であったかもしれません。しかし、この箇所で本当に重要なことは、ここに明記されている二つの真実です。

 

一つは、イエス様が水腫の人を癒やされたという事実、苦しみから解き放ち、自由を与えられたという救いの業です。もう一つは、5節の「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」という主イエス様の言葉です。

 

人間というのは、本当に身勝手な生き物だとわたしは個人的に思います。自分の知り合いでなければ、その人たちの病気は他人事で、自分の家族や家畜が病気であったり、命の危険にさらされている時は自分の事として死ぬ気で何とかするのです。また、自分の故郷が自然災害で震災したら一生懸命になる人もいれば、あまり関係性のない所で起これば、そのままにしておく。そういう身勝手さがわたしたちにはあるのではないでしょうか。

 

「あなたの息子かあなたの大切な家畜が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」とイエス様は律法に厳格な人たちに質問します。「安息日だからといってあなたの息子や娘を助けないのですか。どんな代償を払ってでも助けるでしょう」と尋ねるのです。「すぐに」という言葉は、自分の子どもに対する愛を、家畜には愛着があることを表す言葉です。

 

イエス様は、わたしたちに問われるのです。安息日と命、どちらが大切か。病気の苦しみの中に置かれたままと病気が癒されて喜びと平安の中に生きるのと、あなたはどちらを望むのか。そのように望むことができるのは聖人だけ、律法を守る人だけでしょうか。いいえ、むしろ律法を守れないで苦しんでいたり、貧しかったり、病気であったり、社会の中で小さくされている人たちが絶えず求め、望んでいることではないでしょうか。

 

6節に、「彼らは、これに対して答えることができなかった」とありますが、「彼ら」とは「律法の専門家たちやファリサイ派の人々」です。彼らはイエス様からの問いに対する答えは持っていたと思います。しかし、何故即答することができなかったのでしょうか。二つの可能性があります。一つは「できなかった」、もう一つは「しなかった」ということです。

 

イエス様の問いかけは、彼らにとって非常に不都合なものであったと思います。宗教家として律法は決して破れない。しかし、親として、あるいは家畜のオーナーとしては、ためらわずにすぐに助けるというダブルスタンダードを持つ事の証明になるからです。自分たちの弱さを認めてしまうことは絶対にできなかったのでしょう。そこに神様の憐れみと受けられない、救われない原因があると思います。心が恐れや不安にさいなまれ、周囲の人々の目が気になってしまうから、つまり心が病んでいるからです。

 

神様の救いを受けるために必要な事とは何でしょうか。まず自分には自分を救う力はないという自分の弱さを素直に認める事が大切です。その次は、救いを与えてくれる神様を信じて、救いを求めて、すべてを神様に委ねるという事です。神様から差し出されている救いの手をしっかり握りしめなければなりません。神様の手を握ったら、神様のことをもっと知るために聖書を読み、神様と祈りを通してコミュニケーションをとることが必要です。これらの究極の業が、日常生活を一旦止めて、神様を礼拝する非日常の環境の中に自分の身と心を置くということ、安息日を過ごすということです。律法を厳守するということが重要ではなく、神様に生かされ、愛されていることを喜び、感謝し、賛美と礼拝をおささげしてゆくことがわたしたちの成すべき業であることを覚えて日々実践しましょう。