ルカ(78) 宴の出席者・主催者を指南するイエス

ルカによる福音書14章7〜14節

ルカによる福音書14章を読み進めていますが、14章の最初に食事に関することが4つ記されています。1)1節の「イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになった」時の事、2)7節から10節にある婚宴の席での事、3)12節には食事会に誰を招くのかという事、4)15節から24節にある神の国での食事の事です。食事は、独りで食べるよりも大勢で食べるほうが楽しいわけですが、神の国で神の家族が一緒に食事を共にすることを想像すると、もっと嬉しくなるのではないでしょうか。

 

今回の14章7〜14節と次回聴く14章15〜24節には、二つの譬えが記されていて、イエス様が「婚礼の披露宴」に出席した者たちの振る舞いに対して、また「盛大な宴会」を主催する者たちに対して警告を含むアドバイスをしています。ルカ福音書に関する古い講解書には、この2つの譬えは、「神の国に入れる人」とはどのような人であるのかを教える譬えだと記されていました。どのような人が神の国へ招かれ、そして宴会の場へ入れられるのでしょうか、非常に興味深い内容だと思います。

 

しかし、最初に認識しておくべきことは、わたしたちは招かれる側の者であって、招く側の者ではないということです。すなわち、わたしたちを神の国へ招いてくださるのは、他でもない「神」ご自身であるということです。当たり前のことですが、人々を宴会・食事会に招く人がいて、招かれる人が初めて起こされてゆくのです。招かれていないのに勝手に赴くと、迷惑と捉えられる「招かれざる客」となります。

 

当然のことですが、食事会に招待されたのに、それに応じない人も出てくるわけで、そういう人には特別な事情・心情があるのでしょうが、結論から言って、「神様」からの招きに応えないという場合、その人の心に傲慢さという罪があると言っても過言ではないと思います。毎週招かれている礼拝をはじめ、クリスマスやイースターの祝会や夕食会などに招かれているのに、今はそういう気分ではない、他に用事があるからと断るのはいかがなものでしょうか。そういうことを留意しながら今回の箇所を聴いてゆきましょう。

 

まず事の発端です。7節に、「イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された」とあります。「招待を受けた客が上席を自ら選ぶ様子に気づいて、群衆に対して一つの譬えを話された」ということになるでしょう。さて、結婚式の後の宴会の席順をバランス良く決めるのが、両家、会社関係、恩師や友人知人の関係性の中で非常に難しく、ここで両家の小競り合いが始まるとよく聞きます。

 

ユダヤ社会の婚礼では、社会的地位の高い人が上座につきました。ですから、イエス様がご覧になられたのは、そういう社会的に地位の高い人が「自分は上座に座ることが当然」のように振る舞いで、わたしたちがどのように振る舞うべきかを教えるために譬えをお話になられます。それが8節から10節です。そして11節が訓戒となります。

 

まず8節から10節。「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、9あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。10招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。」とあり、次の11節で「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」とイエス様は教えられます。

 

この「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」という謙遜な心を持ち、謙遜な態度をいつもとる人が神の国に招き入れられ、食事をする幸いを得られるということをイエス様は重点的に教えます。そこには、身分も、性別も、年齢も、国籍も関係ありません。ユダヤ人だけが御国に入れるのではなく、真に謙遜な人が神様に認められて入れるということです。

 

それでは、「謙遜な人」とはどのような人でしょうか。その前に「謙遜」とは一体なんでしょうか。それが分からないと話になりません。謙遜とは、自らを低くすること、へりくだることです。聖書における謙遜には二つの側面があります。一つは神様に対する謙遜さで、もう一つは隣人に対する謙遜さです。神様を愛するときに最も必要なのは、神様を畏れ敬うということですが、それは神様に対する尊敬と服従を伴う謙遜になります。人を愛するときも、謙遜さがなければ、心から相手を愛し、仕えることはできません。

 

謙遜さを学ぶ上で最高のモデルは、イエス・キリストです。神様に対して、そして人に対しても、このお方よりも謙遜な方はおられません。このイエス様が、マタイ福音書18章1節から4節(新p34)で次のように弟子たちに教えておられます。「そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、『いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか』と言った。そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。『はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ』」と。

 

子供の特徴は、わがままを言っているときでも、いつでも親を信頼しているということ、すべてを親に頼り切っていることです。これが自分を低くすること、すなわち神様の御前に謙遜に生きるということ、すなわち何もかも神様に信頼して委ねること、それが真の謙遜、遜ることだと言えます。

 

第一ペトロの手紙5章5節から7節(新p434)に、「皆互いに謙遜を身に着けなさい。なぜなら、『神は、高慢な者を敵とし、謙遜なものには恵みをお与えになる』からです。だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます。思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」とあります。この5節後半は箴言3章34節の言葉を少し変えた引用でありますが、今回注目したいのは、「思い煩いを神にすべてお任せして委ねなさい」という部分です。

 

わたしたちの多くは、思い煩うのは自分に信仰が足りないから、信仰が小さいから起こると思っている節があります。確かに聖書にはそのように記されています。しかし、ペトロはここで、神様の御前にへりくだること、委ねることが足りないから、あなたがたは思い煩うのだと言っているのです。わたしたちが思い煩って色々な画策をするのは、神様に委ねることを忘れ、自分の知恵と努力で物事を解決しようとするからです。それが傲慢な証拠だとペトロは言っていると感じます。

 

イエス様は、謙遜を学ぶ上での最高のロールモデルです。何故ならば、フィリピの信徒への手紙2章6節から11節(新p363)でこうあります。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです」とあります。

 

わたしたちは、さまざまなことに固執し、固執し続けます。自分を無にするどころか、自分の考えを主張します。誰かに仕えるどころか、誰かから仕えられることを期待します。痛み苦しむどころか、楽をしたいと考えます。そのように自分を第一にしている間は、謙遜を装っているだけで、誠にヘリくださって、謙遜に生きているということは言えません。宴会の上座でなくても、自分のために常に良いものを求めることに心を費やし、その願いが叶わないと思い悩み、不平不満を募らせ、誰かの責任にして、当たり散らすのです。

 

イエス様が教えてくださる「謙遜・へりくだり」は、単に腰が低いということではなくて、神様へのへりくだる姿勢、神様との関係性が問われていることです。わたしたちは、神様に造られ、愛と憐れみの中に生かされていることを恵みとして忘れてはならないのです。

 

次に、隣人との関係性における謙遜について聖書に聴いてゆきましょう。先ほど読みましたフィリピの信徒への手紙2章の前の部分になる3節から5節(新p362)には、「何事にも利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです」とあります。自分の中にある「自我」というものを無くして、神様を愛し、隣人を愛することに思いを集中することが謙遜に生きることにつながるのです。

 

神様とイエス様は、神の愛に生きる謙遜な者を求めておられます。そのような謙遜な者は、神様との関係性の中で、自分は神様に造られた存在であり、神様の愛なくして自分は無に等しい存在であることを認めます。これが信仰の、謙遜さの根本であり、神様への従順な姿勢の表れであると思います。

 

次に「へりくだる者は神様によって高められる」ということに注目します。今回の譬えは、座席を決めるのは招かれた人ではなく、人々を招いた主催者側にあるということを教えています。つまり、神の国に招く時も、祝会が開かれる時に座席を決める時も、それをすべて決めるのは、主権者である神様であるということです。ですから、低い者を高くしてくださるのも、主なる神様であるということです。

 

イザヤ書57章15節(旧p1156)に、「高く、あがめられて、永遠にいまし、その名を聖と唱えられる方(神)がこう言われる。わたし(神)は、高く、聖なる所に住み、打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり、へりくだる霊の人に命を得させ、打ち砕かれた心の人に命を得させる」とあります。

 

ヤコブの手紙4章6節(新p425)では「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる」とあり、箴言3章34節(旧p994)では、「主は不遜の者を嘲り、へりくだる人に恵みを賜る」とあります。謙遜な者を神様は御許に招き入れ、食卓に着かせてくださるのです。

 

12節から14節ですが、「イエスは招いてくれた人にも言われた。『昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい』」とあります。

 

これは、神様の国ではギブアンドテイクという人間が作った習慣はなく、常にギブ、つまり神が与え、与え続けることに尽きるということをイエス様は教えています。見返りを求めるのは偽善であって、真の愛ではない、神様の愛は常に与える愛であって、あなたがたも返礼ができない人たちに心から仕えてゆく中で、真の謙遜さを身につけることができ、神の国へ招き入れられるということが記されています。返礼できない人たちとは、わたしたちが生かされている社会の中で、世界の中で最も小さくされ、顧みられない人たち、暴力の犠牲者、災害の被災者、差別を受け続けている人たちです。神様にまず祈って、そして自分に何ができるだろうかと考えることから、謙遜を身に着けるプロセスが始まるのです。まずお祈りすることから始めてみましょう。神様が導いてくださるはずです。