ルカ(97) 何をしてほしいかと盲人に尋ねるイエス

ルカによる福音書18章35〜43節

今回の学びは、イエス・キリストが盲人を癒して、見えるようにさせる箇所ですが、単なる癒しの物語ではありません。福音書を記録したルカによって綿密に構成された流れの中に置かれており、あの金持ちの議員とイエス様のやり取り(18〜30節)まで遡ります。

興味深いことに、今回登場する目の見えない人は、金持ちの議員の対極の人物像になります。すなわち、若い議員は、大きな富と地位と力を持ち、幼少期から律法をずっと守ってきたという自負のある自信満々な人でしたし、人々からも尊敬される存在でした。社会的には、誰もが羨む、理想的な幸いな人でした。

しかし、今回の35節を読みますと、「イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道端に座って物乞いをしていた」とあるように、この盲人は道端に座り込んで道ゆく人たちに物乞いをしていました。この人には、富も地位も力も誉れも、何もありません。幼い頃から目が不自由であったかと思われますが、つまり律法を守ることもできないし、人々からも煙たがれ、自分を肯定的に捉える自信も無かったと考えられます。社会的には、隅っこに追いやられるような、最も不遇な人です。しかし、彼に唯一あったのは、見えるようになりたいという強い願いでした。

この二人に唯一共通するのは、イエス・キリストとの出会いです。しかし、イエス様との交わりを通して彼らに起こったことは、正反対の結果となります。一人は悲しみながらイエス様のもとを去り、もう一人はイエス様を賛美しながら従ったというのです。どちらがイエス様のもとを去り、どちらがイエス様に従う者になったのか、もうすでにお分かりだと思いますが、いったい何が彼らの命運を分けたのでしょうか。

金持ちの議員は「富」を持っていたため、永遠の命を求めつつも、その「富」のすべてを捨ててイエス様に従うことができず、以前と変わらない元の生活に悲しみながら戻ってゆきました。しかし、物乞いをしながら命を繋いでいた盲人の男性は、何も持っていなかったので、神様の憐れみをただひたすら求め、イエス様を通して憐れみを受けて、目が見えるようになり、まったく新しい喜びに満ちた人生が始まります。

ここにあるイエス様との二つの出会いの結末、イエス様に対する応答を両極端に分けているのが、31節から34節にあるイエス様の死と復活の予告です。これはイエス様の死と復活の出来事、その救いの出来事によって、わたしたちの心の目が開かれて、イエス様を救い主と信じることができるようになるということを示しています。

あの議員は、なぜイエス様を救い主と見ること、信じることができなかったのでしょうか。その理由は、1)富や地位などすべては神から与えられているものであるにも関わらず、自分が得ている特権かのように思い込み、自意識過剰であり、傲慢であったからです。2)幼い頃から神を愛し、隣人を愛し、律法はすべて抜かりなく守ってきたと自分を絶対化していたからです。しかし、実際は、彼は自分の周りの愛せる人だけ愛して、貧しい人たちを家族や友のように愛せなかった。大勢の人々が勘違いしていたように、貧しい人たちは、神の国、神の恵みの中には迎えられないと思っていたと思われます。

このような思いを持つ人は、イエス様に出会うことができても、イエス様を救い主と見ることも、信じることもできずに去ってゆきます。その反対に、傲慢さもなく、自分を絶対化できないで神様の憐れみをただ求める人が、イエス様を肉眼で見えなくても、心の目で見て、救い主と信じるようになるということをルカは教えようとしていると考えます。

現代に生きるわたしたちも、イエス・キリストを実際に肉眼で見ることはできません。ただ聖書を通して、イエス様を心の目で見る以外に方法はありません。そのように心の目でイエス様を見て、そして信じることができるように強く求めることがわたしたちに必要であるということを教えようとしています。

今回は、結論から入るような形になってしまいましたが、もう一度、35節から聴いて行きましょう。35節から38節に、「35イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道端に座って物乞いをしていた。36群衆が通って行くのを耳にして、『これは、いったい何事ですか』と尋ねた。37『ナザレのイエスのお通りだ』と知らせると、38彼は、『ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください』と叫んだ」とあります。

エリコという町は、イエス様が向かっているエルサレムまで約20キロにあります。このエリコで、イエス様はのちにザアカイに出会ってゆくのですが、その町に入る前の出来事として今回のことが記されていますが、いつもと違う雰囲気、空気が流れると言いましょうか、群衆が自分の前を勢いよく通り過ぎてゆく音を聞いた盲人は、「何が起こっているのですか、何が起ころうとしているのですか」と道ゆく人に尋ねます。群衆の一人が応答してくれます。「ナザレのイエスがエリコに入ってゆかれる最中だ」と。それを聞いた盲人は、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と大声で叫び始めます。

イエス様のことは、エリコでもすでに大きな噂・反響となっていたことでしょう。「ナザレのイエス」は、病人たちを癒し、人々から悪霊を追い出しているとエリコ周辺の人々の耳にも届き、この盲人の耳にもすでに入っていたと考えられます。一目置かれていた「ナザレのイエス」が、自分の近くを通り過ぎると聞いたのです。この「通り過ぎる」という原文の言葉は、人を救う神が現れたこと(顕現)を示す言葉が使用されています。

自分を救うことができる神が近くを通り過ぎると聞いて、彼は身体中の力を振り絞って「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と大声で叫び始め、叫ぶことを止めません。そうすると、39節、「先に行く人々が叱りつけて黙らせようとしたが、ますます、『ダビデの子よ、わたしを憐れんでください』と叫び続けた。」とあります。一生に一度あるかないかの救いのチャンスを逃すわけにはいきません。大声で叫び続けます。

人々はそのような彼をなぜ叱りつけて黙らせようとしたのかという理由を考える人たちがいます。例えば、「ダビデの子」という呼称は、政治的救い主・メシアを指すものとしてローマが過敏になっていたため、それを人々は恐れて叱りつけたという人もいます。

しかし、この盲人が言っていることは正しいのです。確かに、イエス・キリストは、ローマ帝国からイスラエルを救う政治的なメシアではありませんが、わたしたちの罪を贖い、罪の支配から解放する救い主として、エルサレムへ上る途上にあったことは確かです。

この人の叫び声はイエス様に届きます。40節と41節に、「イエスは立ち止まって、盲人をそばに連れて来るように命じられた」とあり、「彼が近づくと、イエスはお尋ねになった。『何をしてほしいのか。』」とあります。この「何をしてほしいのか」という問いは、決して意地悪な問いではありません。求めているものの具体性を問うものです。

わたしたちも神様に祈り求めていることがありますが、時折、ぼんやりとしたというか、漠然としたことを求めることがあります。回りくどいこともあります。それが、漠然とした信仰になりうるのです。イエス様は、わたしたちに対して、神様に、イエス様に何を求めているのか、明確に示すことを励まします。それが、真の信仰につながるからです。

「何をしてほしいのか」と問われた盲人は、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と言ったとあります。この盲人がイエス様に具体的に求めた主の憐れみは、「目が見えるようになりたい」ということでした。目が見えるようになると、色々なことで自由が与えられ、今まで出来なかったことが出来るようになります。とても興奮します。

「見えるようになる」というギリシャ語には、「再び視力を回復する」という意味もありますが、もし彼が生まれながらの盲人であれば、「再び視力を回復する」という求めにはなりません。周りくどい言い方になっていますが、ここにある「見えるようになる」という意味は、肉眼の視力で見る以上に、「あなたを見るために、あなたが見えるようになることです」という意味合いのあるギリシャ語が用いられているそうです。

わたしたちも目が見えることで、様々なことが自由に出来ていますが、その自由を何のために用いているでしょうか。自分の事ばかりに、自分の喜びのために用いていないでしょうか。神様が与えてくださる自由は、まず神様にささげるのが御心ではないでしょうか。「主よ、今日もあなたの御業を見させてください。御業が表されるために、どうぞわたしをお用いください」と祈り求めることも大切ではないでしょうか。

さて、好奇心に満ちた眼差しだけでイエス様を見ても、イエス様を救い主と見て信じることはできません。イエス様をひたすら求めること、求める信仰が必要であり、信仰の目、心の目でイエス様を見るとき、神様の憐れみによって、イエス様が救い主であることが見えるようになる、信じることができるようになる、そういうことが「主よ、目が見えるようになりたいのです」という叫びの真意です。

この盲人の叫び求めを聞いたイエス様は、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」と言われたと42節にあります。これはイエス様の命令であり、宣言です。つまり、わたしたちの目を開くこと、心の目を開くことができるのはイエス・キリストだけであるということをルカはここで示そうとしています。これによって、ルカ4章18節から19節にあった、イエス様がナザレの会堂で読まれたイザヤ書61章1〜2節の約束の言葉がこの日に実現したということを示そうとしています。

救い主イエス・キリストの言葉には救いの力があります。イエス様が「見えるようになれ」と宣言された瞬間、43節、「盲人はたちまち見えるようになった」とあります。この癒しの恵みに与った人のリアクションは、「神をほめたたえながら、イエスに従った」ということでした。神様からいただく日々の恵みに対するリアクション・応答も、賛美と従うということです。

18章の最後に、「これを見た民衆は、こぞって神を賛美した」とあります。ルカは、「民衆」とあえて記します。ルカが「民衆」と記す時、どういう意味があったでしょうか。ルカが「群衆」と記す時、その人たちは興味本位であるということです。心から求めていない人たちです。しかし「民衆」と記す時、その人たちはイエス様の救いの御業に好意的で、イエス様を信じたいと心から求めている、求めようとしている人たちを表しています。

神様の憐れみによって、救い主イエス・キリストの言葉と御業によって、わたしたちは群衆から民衆になり、民衆からイエス様に従う弟子の一人となり、弟子から神の子と変えられ、神の国へと招かれ、そこで永遠の命を神様から受けて生きることができるのです。それは、とても幸いなこと、恵みであるのです。ですから、その恵みにしっかり留まり続け、イエス様に従い続けなさいといつも励まされているのです。聖霊に日々助けられて、イエス様にしっかり従う者とされてゆきましょう。