ルカ(98) 失われたアブラハムの子を見つけ出すイエス

ルカによる福音書19110

ルカによる福音書の学びも19章に入ってゆきますが、記者ルカがわたしたちに伝えようとしているテーマは18章から続いています。すなわち、「だれが救われ、神の国に入れられ、永遠の命を受けることができるのか」というテーマです。このテーマで最も大切なのは、救いのすべてはイエス・キリストを通して神様から一方的に与えられるということ、主導権は神にあるということ、すなわち、すべては「恵み」であるということです。

それでは「恵み」とは、いったい何でしょうか。それは神様の愛と憐れみを受ける資格のない者が、神様から一方的に憐れまれて、神様の愛を受けて、その愛とご配慮の中に生かされるということです。この恵みを日々絶えず受けていることを感謝し、その恵みへの応答をしながら日々歩むということ、それこそ神様が求めておられる信仰の生活です。

いったい誰が神様によって救われ、神の国に入れられ、永遠の命を受けることができるのか。それは、1)人を見下すような傲慢な人ではなく、自分の罪深さを神様の御前で嘆き、悔い、憐れみを求める人。2)子どものように神様にすべてを委ねる心、素直さをもつ人。3)富や地位を持ち、律法を守っていると思い込んでいる人が救われるのではなく、誇れるものなど何も持っていない盲人のように、ただただ神様の憐れみを求める人が神様から恵みを受けるということを18章で聴いてきました。

金持ちはエスカレーター式に神の国に入れると信じていた人々は、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」というイエス様の言葉を聞いて驚き、「それでは、だれが救われるのだろうか」と困惑しますが、イエス様は「人間にはできないことも、神にはできる」と言われ、すべてを捨ててイエス様に従いなさいと招かれます。これがわたしたちに求められている神様の御心であり、恵みによって救われ、神の国に入れられ、永遠の命を受けることができる確かな道であるとルカは伝えるのです。

18章の最後の学びでは、イエス様がエリコという町に入られる直前に盲人の目を開いて見えるようにさせた癒しの出来事に聴きました。人が羨むほど富や地位を持った人ではなく、不自由で貧しくとも、神様の憐れみを求める人が癒され、救われ、神をほめたたえる者に変えられてゆきます。まさしく、イエス・キリストが神でなければ出来ない救いの業をなさったのですが、今回はエリコの町に入った後の出来事になります。

エリコという町は、エルサレムの東北東約27キロの地点にある町で、旧約の時代からある古い町です。この町はヨルダン方面からの交通・流通の要所であったので、イエス様が歩まれたローマ帝国支配の時代には税関所があり、多くの徴税人が存在する町でした。

徴税人とは、ローマから関税徴収を請け負うユダヤ人の委託業者です。この仕事は、不正をして多くの富を持てるということもあり、徴税人の資格は競売にもかけられたそうですから、エリコという町は、そういう職種の人たちと不正がはびこる町でもあったと考えられます。徴税人は、ローマの手下として目され、同胞から忌み嫌われた人たちでした。

そのような人々が生きる町に、イエス様は一つの明確な目的をもって入られます。それは、19章10節でイエス様が言っておられる「人の子が来たのは、失われたものを捜して救うために来たのである」ということです。その「失われたもの」とはいったい誰なのでしょうか。その中に、わたしたちが入っているでしょうか。

1節と2節に、「イエスはエリコに入り、町を通っておられた。 そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった」とあります。ここにザアカイという「徴税人の頭で、金持ち」がいたとあります。彼がなぜお金持ちであったかは推測がつくと思います。人々から税金をとり、その一部を自分の懐に入れていたからです。

「ザアカイ」という名の意味は、「きよい人」です。しかし、残念ながら、金や権力に心が奪われ、「きたない人」になりきっていました。しかし、だからと言って、自分の生活に満足していたとか、心が平安であったとは言い切れないと思います。心の中には、様々な葛藤があったかもしれません。わたしたちの心にも様々な思いが渦巻くようにです。

そのような彼は、「ナザレのイエス」がエリコに来たと耳にします。情報網はしっかりしていたことでしょうから、以前からイエス様に多少なりの興味があったと思います。すぐに町に繰り出して行って、「群衆」に紛れ込もうとしますが、3節に「(彼は)背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった」とあります。背が低かったというコンプレックスもあったかもしれませんが、それより問題なのは「群衆に遮られて見ることができなかった」ということです。

「群衆に遮られ」たのは、もしかしたら群衆が意図的にしたことかもしれません。いつも税金を自分たちからむしり取るザアカイへの一種の抵抗、意地悪であったかもしれません。ここでの問題というのは、ザアカイは「群衆の一人にさえなれなかった」ということです。

しかし、さすがに徴税人の頭です。そのようなことで簡単に諦めるような人ではありません。すぐに機転を利かせて、「走って先回りし、いちじく桑の木に登った」と4節にあります。どうでしょうか。わたしは、彼は意地でもイエス様を見たかったのではなく、心からイエス様を一目でも見たかったのだと思います。彼は何かを求めていたのだと思います。

しかし、そのような思いを与えてくださるのも憐れみの神様です。彼は、その憐れみの神様にまだ出逢っていませんが、イエス様のほうへ引き寄せられてゆく聖霊の力が働き、それが「走って先回りし、いちじく桑の木に登った」という行動になったのだと感じます。

さて、イエス様はザアカイが登ったいちじく桑の木のそばに近づいてきます。5節を見ますと、「イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。『ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。』」と言われたと記されています。ここには3つの驚くべきことが記されています。

一つ目が、「イエスはその場所に来ると、上を見上げて」、いちじく桑の木に登っている人をご覧になられるということです。イエス様とザアカイの目が合うのです。二つ目は、木に登っている人の名を「ザアカイ」と正確に呼ばれます。イエス様はザアカイのことを知っておられるのです。三つ目は、ザアカイに対して「急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」という言葉です。

イエス様の言動に群衆も驚いたことでしょうが、最も驚いたのはザアカイ本人です。まったく予期しなかったことが自分に起こっているのです。イエス様がエリコに入られたのは、このザアカイに出会い、彼を神の子とするためであったということが分かります。

イエス様は、「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と言われます。ここに大切なことが二つあります。一つ目は「今日」ということです。それは救いの時は今であることを指しています。明日でもなく、1週間後でも、1ヶ月先でも、1年先でもなく、今日あなたに救いがある、神様の愛と憐れみが備えられているということです。つまり、もう待たなくて良いということです。神様の愛を今日、素直に受け取りなさいということです。

二つ目は、「ぜひあなたの家に泊まりたい」ということですが、原文を直訳しますと、「あなたの家に泊まらねばならない」となります。つまり、ザアカイを救うためにイエス様はエリコにいらしたという神様の救いの計画性が示す言葉です。

7節を見ますと、「これを見た人たちは皆つぶやいた。『あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。』 」とありますが、人々がどう思おうが、感じようが神様には関係なく、御心・お考えが成されるということです。神様の救いの御業を止める力は、人間にはありません。

このイエス様の言葉を聞いたザアカイは、すぐさま木から降りて来て、喜んでイエス様を迎えたと6節にありますように、イエス様からのオファー、救いの招きを喜んで、すぐに受け取ることが大切であって、周りの人々の顔色を見る必要はないということです。

「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった」とつぶやく人には、好きなだけつぶやかせておけば良いのです。たとえ罪深くなくても、みんな罪を抱えているのであって、罪を抱えていない人は誰ひとりいないからです。誰も人に指をさすことはできないのです。

さて、イエス様を自宅に招いたザアカイはイエス様と過ごす時間の中で劇的に変えられて行きます。群衆の一人にもされなかった人がイエス様を「主よ」と呼び、そしてイエス様から命じられたり、律法にも記されていないのに、「わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」と宣言します。これはイエス様に出会って変えられた人の大きな喜びと感謝を表すものです。

18章の金持ちの議員とは、正反対のリアクションです。議員は財産を貧しい人たちに施すことができず、イエス様のもとを離れました。お金持ちがお金を手放すことがどんなに難しいことか。あの議員がお金を手放すことをしなかったのは、心のどこかで「律法」、つまり神様が命じられていることは抜かりなく守っているという自負があったからだと思います。しかし、ザアカイは律法を守れませんでした。人々からも忌み嫌われていました。もしかしたら、そのような自分を彼は嫌っていたかもしれません。諦めかけていたかもしれません。しかし、イエス様が自分と出会って名を呼んでくださり、一緒に時間を過ごしてくださる。彼はそのような体験を通して、神様の憐れみ・愛を体験したのです。イエス様から神様の愛を受け取って、彼は新しい人に変えられたのです。

イエス様は、9節と10節で「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」と宣言されます。たとえ人々から軽蔑された罪多い人であっても、神様のご計画の中で、イエス様を通して罪赦され、神の子とされる恵みを受けることができます。わたしたちにはできない救いを得ることを、神様はイエス・キリストを通して与えてくださる。すべて主の恵みなのです。