ルカ(99) 「ムナ」の譬えを語られるイエス

ルカによる福音書19章11〜27節

今回の学びは、少しややっこしいので、読むのに忍耐が必要かと思いますが、大切なのはイエス様とわたしたちの関係性で教えられている後半の部分ですので、前半の部分はさらっと読んでいただければ幸いです。

 

前回の学びでは、エリコという町に生きる徴税人ザアカイがイエス様と出会って、まったく新しい人へと変えられたという出来事を聴きました。ザアカイの自宅で、イエス様と彼のやり取りを不特定多数の人たちが見聞きしていたと考えられますが、それが11節にある「人々がこれらのことに聞き入っているとき」という流れになっていると考えられます。

 

すなわち、イエス様は、ザアカイとその家族、同業者たちや召使いたち、イエス様の弟子たち、またザアカイの家にイエス様が入ったことを快く思っていない人々に、一つの譬えを話され、そして今日生かされているわたしたちにも語られていると言えます。

 

ルカは、11節後半で、イエス様が人々に譬えを語られた理由を記録します。すなわち、「(イエス様は)エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである」とあります。ガリラヤ地方からエルサレムを目指して上って来られたイエス様の旅も、あと27キロ近くにまで迫りました。

 

「人々」は、救い主・メシアが来るとローマ帝国の支配する世界をひっくり返り、イスラエルの国(神の国)が興ると信じ、期待していましたので、イエス様がエルサレムに近づくにつれ、イエス様への期待が徐々に膨れ上がり、感情が高まっていきました。

 

しかし、イエス様は、「人々」のそのような考え方、期待、神の国のイメージを打ち砕かれたかったのだと思います。イエス様は、ローマの支配から「人々」を救い出すためにではなく、罪の支配から「人々」を解放するために地上に来られたからです。「人々」の思いと神様の思いには大きな乖離・開きがありました。そのような背景があることを覚えておきたいと思います。

 

それともう一つ、イエス様が語られる譬えには、歴史的背景があることを覚えておきたいと思います。イエス様がお生まれになられた約30年前の出来事ですが、ローマ皇帝からパレスチナ全域の統治を任されていたヘロデ王は、パレスチナを三分割して、三人の息子に統治させようとしました。彼らの名は、アンテパス、ピリポ、アケラオです。しかし、彼らにその任に当たらせる前にローマ皇帝の承認が必要です。そういうことも加味されて、12節の「イエスは言われた。『ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった』」という言葉があります。

 

ヘロデの息子たちは、皇帝のもとへ赴き、アンテパスとピリポはすぐに王位継承は承認されたのですが、アケラオの承認だけが大幅に遅れました。理由は、彼が純粋なユダヤ人ではなかったため、ユダヤ社会の中に彼の王位継承を反対する人たちがいて、皇帝に反対の意を表す書状を送ったからです。それが14節の「しかし、国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、『我々はこの人を王にいただきたくない』と言わせた」です。

 

ユダヤ人たちのこの行動に怒ったアケラオは、王位継承後に反対者たちを皆殺しにしたという事件があり、それが27節の「ところで、わたしが王になるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、わたしの目の前で打ち殺せ」という言葉につながっているのです。イエス様は、そういう史実を踏まえながら、今回の譬えを語り、神の御心を「人々」と分かち合おうとされるのです。

 

今回の譬えの中心的テーマは、イエス様を取り巻く人々がイエス様をどのように扱うのかです。イエス様を拒絶する者はどのように拒絶し、イエス様に従う者はどのように従うのかということです。もう少し角度を変えて言いますと、イエス様を通して神様から差し出されている「信仰」を「人々」はどう扱い、「御言葉」にどう聞くかが問われています。

 

12節の「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった」という事のもう一つの意味は、複雑に聞こえるでしょうが、神の子イエス・キリストがこれからエルサレムでわたしたちの罪の贖いのために十字架に死なれ、三日後に甦られ、それから40日後に神様の御許に召されるという事も含まれると考えられます。

 

そのような中で、祭司長をはじめとするユダヤ人たちはイエス様を拒絶しました。神様がイエス様を通して与えようとした信仰を受け取りませんでした。14節の「国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、『我々はこの人を王にいただきたくない』と言わせた」という言葉どおりです。

 

しかし、主イエスを救い主と信じて、主に忠実に従おうとする者は、罪の赦し、救い、信仰を受け取り、神様の愛と恵みに応答してゆくことが期待されます。そしてこの譬えは、それぞれの信仰、恵みへの応答によって、主イエス様が再びこの地上に戻られる時に受ける報いが異なってくるということが言われています。

 

それでは、12節から13節まで読んでゆきましょう。「イエスは言われた。『ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった。そこで彼は、十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、「わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい」と言った。』」とあります。

 

これは、イエス様が、弟子たちに一ムナずつ手渡して委ね、そのムナを弟子たちがそれぞれどう扱ったかが譬えの中心となります。ここで最も重要なのは、イエス様がわたしたちにムナを与え、それを用いて豊かに実を結ぶように「期待されている」という事です。

 

一ムナは、百デナリに相当しますので、約100日分の賃金となります。目が飛び出るほどの大きな金額ではありませんが、このムナはお金ではなく「信仰」と捉えることもできますし、イエス様の「御言葉」と捉えることもできます。主人の留守に、僕たちが主人から委ねられた「信仰」をどのように用いて主イエス様に期待される実を結んでいるか、主の「御言葉」を多くの人々にもっと分かち合って祝福しているかという事です。

 

15節から19節にこうあります。「15さて、彼は王の位を受けて帰って来ると、金を渡しておいた僕を呼んで来させ、どれだけ利益を上げたかを知ろうとした。 16最初の者が進み出て、『御主人様、あなたの一ムナで十ムナもうけました』と言った。 17主人は言った。『良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、十の町の支配権を授けよう。』 18二番目の者が来て、『御主人様、あなたの一ムナで五ムナ稼ぎました』と言った。 19主人は、『お前は五つの町を治めよ』と言った。 」

 

ある僕は主人から預かったムナを十倍にし、他の僕は五倍にしたとあります。もしムナが「信仰」であるならば、信仰を五倍、十倍にするとは、いったいどういうことになるのでしょうか。もしムナがイエス様の言葉であるならば、五倍、十倍になるとはどういうことなのでしょうか。

 

それは、イエス・キリストを救い主と日頃から告白する信仰、証しして神様の愛とイエス様の福音の種まきをずっとする中で収穫を五倍、十倍と得るということです。働かなければ、収穫はなし、種を蒔かなければ収穫もないという事と同じように、信仰と証しがなければ収穫はないということになります。

 

次に20節から23節を読んでみましょう。「20また、ほかの者が来て言った。『御主人様、これがあなたの一ムナです。布に包んでしまっておきました。 21あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです。』 22主人は言った。『悪い僕だ。その言葉のゆえにお前を裁こう。わたしが預けなかったものも取り立て、蒔かなかったものも刈り取る厳しい人間だと知っていたのか。 23ではなぜ、わたしの金を銀行に預けなかったのか。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きでそれを受け取れたのに。』」とあります。

 

イエス様を通して神様から与えられた「信仰」を用いずに、イエス様の「御言葉」を人々とシェアしないで布に包んでしまっておいたというのは、神様の愛とイエス・キリストの福音を宣べ伝えるために何もしなかった、神様とイエス様の期待を裏切ってしまったということです。そのような僕をイエス様は、「悪い僕」と呼んでいます。

 

それからイエス様は24節で、「そして、そばに立っていた人々に言った。『その一ムナをこの男から取り上げて、十ムナ持っている者に与えよ。』 」と命じます。それに対して、「25僕たちが、『御主人様、あの人は既に十ムナ持っています』と言うと、 26主人は言った。『言っておくが、だれでも持っている人は、更に与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる」とあります。

 

主であるイエス様のために忠実に働く人、仕える人は、ますます祝福を神様から受け、自分のためだけに生きる人は、持っている祝福もすべて取り去られてしまいます。それに対して、わたしたちは「神様とイエス様は厳しすぎる」と言うでしょうか。神様に対するイメージが悪くなるでしょうか。

 

しかし、わたしたちの抱く神様へのイメージはそもそも根本的に正しいのでしょうか。いいえ、正しくないと思います。わたしたちの抱くイメージは、いつもわたしたちの思いが中心になっています。その自分は罪にまみれています。ですから、自分の罪を認め、悔い改めて、イエス様を信じて従うことが大切になります。

 

イエス様を救い主と信じたら、神様の御心が少しずつはっきりしてきて、すべてが理解することができるように聖霊によって変えられて行きます。神様とイエス様の立場になって物事を見えたら、わたしたちの考え方、物の捉え方はずいぶん変わってゆき、イメージも変わってゆくのではないでしょうか。

 

さて、主イエス様はこれからエルサレムへ入って行かれます。その目的は何であったのか。その目的を、わたしたちは聖書を通して聴き、知っています。しかし、知るだけでは不十分なのです。イエス様がわたしたち一人ひとりの救いのために何を十字架上で成してくださったのかを聖書を通して聴き、神様の愛とイエス様の犠牲を信じ、神様によって新しく作り変えられる必要があります。そのために、イエス様の十字架の道をたどり、イエス様の十字架の姿を信仰の目で見て、信じ続けることが大切です。