「一つ一つ、主に委ねつつ」 五月第一主日礼拝 宣教 2019年5月5日
ローマの信徒への手紙12章9〜21節 牧師 河野信一郎
4月は、受難節と主イエス様のご復活をお祝いするイースターがありましたので、この期間ローマの信徒への手紙を読み進めてゆくことを中断していましたが、今朝から再開したいと思います。前回のローマの信徒への手紙からの宣教は、5週間前になりますので、内容をお忘れになっていても無理はないと思います。前回は、12章1節から8節を通して、わたしたちが神様にささげるべき礼拝とはどのような礼拝であるのか、なぜ礼拝をおささげするのかという動機付け、どのような礼拝をおささげすることが神の御心なのかを聴きました。
今朝、わたしたちはこのように礼拝をおささげしていますが、この礼拝の本質は「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして主なる神を愛しなさい」という第一の戒めを守ることの表れです。しかしながら、日曜日の礼拝は、神様を愛する行為の一つの側面であって、日々の生活の中でも礼拝を神様におささげしてゆくことが求められています。わたしたちが神様を愛し、礼拝をおささげする理由は、神様がまずイエス・キリストの命と身体を通してわたしたちを憐れみ、愛し、罪を赦し、救ってくださったからです。イエス様を通して愛してくださるので、その恵みへの応答として、わたしたちも全身全霊を持って神様を愛してゆく、それが神様に喜ばれる聖なる生けるささげもの、礼拝であり、神様の御心であるということを前回聴きました。神様を愛し、神様に仕えてゆくために、それぞれには異なった賜物が与えられていること、そしてその賜物を主にささげて、キリストのからだである教会を共に建てあげてゆくことも神様の御心であることを聴きました。
神様を愛すること、それは神様がわたしたちに求めておられる御心の一つですが、それ以外にもう二つ御心があります。一つは「自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」ということ、もう一つは主イエス様が十字架にかけられる前に弟子たちにお命じになられた「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」ということです。神様に愛されている者として、神様を愛し、隣人を愛し、神の家族の中で互いに愛し合うことを通して神様を礼拝し、神様のみ名をほめたたえ、すべての栄光を神様にお返しします。わたしたちが神様に対して忠実であり、人々に対して誠実であり、自分に対しても信実であれば、神様はその愛とささげものを喜んで受けてくださいます。
今朝、み言葉としてわたしたちに与えられているローマの信徒への手紙12章9節から21節には、わたしたちが日々の生活の中で隣人を愛し、教会の中で互いに愛し合って生きるために大切なことが記されています。しかしながら、ここを先ほど司式者の方に読んでいただきましたが、この箇所には約30個の短い指示が構成も内容の一致もないまま一挙に記されていて、圧倒されるのではないでしょうか。短い一節は、一節ごとにその内容、話題がコロコロ変わります。ただでさえ日々の生活の中で様々なことを家庭や職場で要求され、社会の中では半ば強要され、毎日心にストレスを感じながら、フーフー言いながら、どうにか一つ一つをこなしているわたしたちですが、神様からもこんなにたくさんの指示が来ると、圧倒されてしまって、「わたしには手に負えない」とさじを投げてしまいたくなる方も出てくると思います。
しかし、内容が一見バラバラのように見えるこの箇所で、神様がパウロ先生を通してわたしたちに伝えたいことはただ一つです。それは、「イエス・キリストを通して神様に愛され、赦され、救われ、恵みのうちに生かされている者、クリスチャンとして、誰に対しても謙虚に、穏やかな気持ち・態度で接し、仕えなさい。イエス様を信じていない人に対しても、同じ信仰が与えられている主にある兄弟姉妹に対しても、いつも変わらず、謙遜と敬意を持って接し、共に生きなさい」ということです。
そのように生きてゆくために最も必要なこと、土台となることが「愛」です。9節に「愛には偽りがあってはなりません」と記されていますが、この「愛」は、アガペーの愛、つまり神様の愛を表すギリシャ語が用いられています。つまり、神様は真実な神であられ、真実な愛しか与えることができないお方ですから、そのお方から注がれている愛を日々受けて、その愛に助けられて、誰に対しても、いつも謙遜に生き、敬う心を持って接しなさい。愛することに偽りがあってはなりませんというのです。
この「偽りがあってはなりません」というギリシャ語は、「見せかけであってはなりません」という意味です。ある訳では、「偽善であってはなりません」となっています。「神様から愛を受けているあなたから出る愛は、真実な愛であって、見せかけの愛、イミテーションの愛であってはなりません」ということ。また、「偽善者ではなく、いつも誠実に生きる者でありなさい」ということです。愛は演じるものではなくて、率直に、誠実に生きることであるとパウロ先生は多くの弱さを持つわたしたちに対して、最初に励ましているのではないかと感じます。そして誠実な愛に生きるとは、どのような態度で生きることなのかを9節後半から伝えようとしています。
まず9節に、誠実な愛は悪を憎み、善から離れないとあります。神様の愛とこの世の悪は「水と油」のようなもので、触れること、混在することがあっても、決して混じらない、一つにならないものです。神様の愛に生かされている人は、神様が嫌う悪を嫌い、神様が喜ぶ善を行うことを喜びます。その最も良い行いが10節にある「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思う」ということです。これを社会の中で適応しようとすることは非常に難しいです。社会は競争社会です。お互いを比べ合い、競い合い、相手を蹴落とそうとする中で、相手を自分よりも劣っている者として見下そうとしているのですから、互いに愛し合い、尊敬し合うことはとってもハードルの高いことです。ですから、まず教会の家族の中からコツコツと始めてゆきなさい、まず実践してみなさいと励まされています。
教会も小さな社会のようなものですから、色々な人が集まります。しかし、教会に集う人たちは神様を認め、イエス様につながっています。つまり同じ土台・プラットホームの上に生かされているということです。わたしたちには神様から愛すること、謙遜に生きること、互いのために生きる力が等しく、そして豊かに注がれていますから、11節にあるように、兄弟姉妹を愛し、謙遜に生き、互いのために生きることを怠らずに励み、神様の霊・ご聖霊に満たされ、励まされ、主イエス様に仕えるように互いに仕え合いなさいと励まされています。
12節では「希望を持って喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい」と励まされていますが、これを一人ですることはかなり難しいです。ですから教会の兄弟姉妹が与えられています。兄弟姉妹たちと一緒に希望を持って喜び、苦難に遭っても共に耐え忍び、どのようなことがあっても共にたゆまずに祈り続ける。それが出来ることは本当に幸いなことです。そのような幸いにわたしたちは今朝も招かれています。この神様の家族に加わっていただき、共に歩みたいと願います。
兄弟愛をもって愛し合い、互いのために生きるということはそう簡単なことではありません。ですが13節には、そのように生きることは貧しさを共に負い合うことであり、お互いの弱さを補い合うことでもあると記されています。「聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう励みなさい」とあります。貧しさというのは、食べ物がない、着る衣類がない、身を寄せる場所がないということです。その貧しさを自分のものとして捉えて助けなさいと命じられています。そのような貧しさをもった人たちにわたしたちは何ができるでしょうか。目の前の人の必要をどのように補うのか。一人ではできないことを一緒にコツコツと誠実にしてゆくことが大切です。
「旅人をもてなすよう励みなさい」とあります。来年のオリンピック、パラリンピックを前に数え切れない数のホテルの建築が行われています。公共交通機関の駅や公共施設では旅行者をもてなす整備が着々と進められています。パウロ先生が手紙を書き送った時代には、ホテルやレストランなどありませんでした。ですから、旅人たちは愛ある人に助けてもらう必要がありました。つまり、旅人をもてなすということが、隣人を、兄弟姉妹を愛する具体的な表れであったわけです。パウロ先生は、ただ単にもてなすのではなく、もてなすことに「励みなさい」と言っています。積極的にもてなしなさいと励ましています。このこともコツコツと誠実に、共になしてゆきたいと思います。
さて、13節までは神様の家族、クリスチャンたちと愛し合い、共に生きてゆくことが記されていましたが、14節からは、その愛をクリスチャンでない人たち、周りの人たちとも分かち合いなさいということが記されています。まず14節に「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません」とパウロ先生は言っています。これはマタイによる福音書5章で、主イエス様が山上の説教の中で教えられたことです。ルカによる福音書6章には、「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい」とイエス様が教えておられることをパウロ先生は教えています。これはわたしたちには難しいことです。私たちの感情が先立ってしまうからです。しかし、愛すると言うのは、わたしたちの感情で愛すると言うことではなく、神様に助けられて、神様の愛に励まされて、それでも愛してゆくと言うことです。このことも主にお委ねしつつ、コツコツと取り組まなければならないことです。
15節には「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」と命じられています。これは、信じている、信じていないに関わらず、目の前に置かれている人と同じ目線に立ち、同じ思いを共有しなさいと言うことです。つまり、隣人に対して関心を持ちなさい。それが愛することだと言っています。愛することの反対語は「無関心」と言われますが、まさしくそれがここで言われて、そのように生きなさいと励まされていることです。
16節に「互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません」とありますが、「身分の低い人々と交わりなさい」とありますが、「身分の低い」と言う言葉は「謙遜な」と言う意味の言葉です。つまり、パウロ先生がここで言いたいことは、謙遜になるためには、謙遜な人と交わりを持つことが大切だと言うことです。プライドの高い人、傲慢な人、自己中心的な人といるとストレスを感じ、疲れます。何度も惑わされ、心傷つきます。ですから、そう言う人たちとは距離を置き、謙遜で優しい人たちと交わることを喜び、楽しみなさいと言うことです。自分にはうぬぼれているところはないかと自分を見つめ直す必要もあります。
17節から21節では、世の中にはびこる悪の力に対してどのように対処することが大切であり、愛を実践することなのかが記されていますが、17節では「誰に対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい」と励まされています。これもイエス様の教えです。「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。誰かがあなたの右の頰を打つなら、左の頰をも向けなさい」とイエス様はお命じになられました。神様の御心は、18節にありますように、「出来るだけわたしたちの方から人々と共に平和に生きることを呼びかけ、すべての人と平和に暮らす」と言うことです。そのためには、19節にあるように、「自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい」と励まされています。復讐したいという思いを神様にお委ねし、無抵抗を貫き、平和を呼びかけ、平和に生きること、それが善を行うことであり、誠実に生きると言うことであり、互いに愛し合い、尊敬し合って生きることである。それが神様の御心であることを覚えたいと思います。
ここに記され、命じられ、励まされていることは一筋縄では決してゆかないことばかりで、圧倒されることです。「あっ、これはできるなぁ」と言うこともありますが、「自分には決してできないなぁ」と思えることも多々あります。しかし、神様はわたしたちをよく知っておられます。わたしたちにできないことぐらい承知しておられます。ですから、主イエス様とご聖霊をわたしたちにお遣わしくださり、すべてのことに寄り添い、助けてくださるのです。わたしたちに大切なのは、主を見上げて、主に助けていただいて、神様を愛し、隣人を愛し、兄弟姉妹たちと共に愛し合って生きる、コツコツと、一つ一つを主にお委ねしつつ誠実に生きると言うことです。
神様の愛と憐れみに生かされていることを喜び、感謝してゆく日々の中で、わたしたちは謙遜な者へと徐々に造りかえられて行きます。焦らずに、信仰を持って、主に従って歩んでまいりましょう。そのように主には忠実に、人々には誠実に生きる人を必ず顧みて報いてくださると主イエスは約束しておられます。信じ、委ねましょう。