「一粒の麦」3月第三主日(棕梠の日)礼拝 宣教要旨 2016/03/20
ヨハネによる福音書12章12~26節 副牧師 石垣茂夫
『 はっきり言っておく。一粒の麦は、
地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。』
教会では、祈祷会と翌週の教会学校で毎週同じ聖書箇所をテキストにしています。ひと月ほど前のこと、12章20節以下の「ギリシャ人・・」の箇所から、二つの問い掛けがありました。
一つ目の問いは「礼拝するために上ってきた人々の中ギリシャ人がいた」(12:20)、このギリシャ人とは、何者かという問いです。
過越祭を前に、主イエスがエルサレムに到着したとき、ラザロの復活の出来事があったことで、「主イエス!このお方は奇跡を行う人、メシアではないか!」と、そのような期待をもって熱狂的に迎えられたのでした。
祭りの礼拝のために上って来た人々の中に、何人かのギリシャ人いて、彼らは「イエスにお目にかかりたいのですが」とフィリポに仲介を頼みました。「イエスにお目にかかりたい!」、これは「確かめたて信じたい!」という意味が含まれる大変丁寧な言葉だそうです。
ギリシャ人の申し出を聞いた主イエスは「人の子が栄光を受ける時が来た。」と、即座に答えました。これは「十字架に向かう時が来た」という意味です。ユダヤ人の枠を超えて、異国の人々までが、ご自分の言葉に耳を傾けるようになった、いよいよ自分の時が来たと、主イエスは自覚し、決断されたのでした。
わたしには、この「ギリシャ人」の訪問が、主イエスを突き動かし、十字架の時へと向かわせたように思えます。わたしたちの教会にも、わたしたちの思いを越えて新しい方が与えられて来ます。わたしたちには、そうしたギリシャ人を思わせる方がいつも与えられて、それらの方の信仰によってどれほど励まされ、信仰を呼び覚ましていただいたことでしょうか。お互いに、初めの信仰に立ち帰らせて頂き、「お願いです。主イエスにお目にかかりたいのです。」と、これからも丁寧に求めていこうではありませんか。
もう一つの問いは、25節「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎(にく)む人はそれを保って永遠の命に至る」(12:25)という言葉についてです。特に「憎(にく)む」という、きつい言葉がなぜ使われているのだろうということでした。この言葉は大変注意深く読まなくてはならない言葉です。それにしても、まず「自分の命を愛する者」とはどういう人のことでしょうか。この箇所の、一つの理解の手がかりは、「愛する」という言葉です。これは「人間の自己愛」を現わしている言葉が使われています。もう一つの理解があります。「自分の命を愛する者」とは、「生まれたままの人間であり」、「罪を愛する人間」という理解です(エペソ2:3)。生まれながらの人間は、みな罪の生活を愛するというのです。生まれたままの人間は「自分の命を愛する者」です。その人は、そのままでは、「自分の命を失う」というのです。
「自分の命を憎む者」とは、この世に執着し、自分にこだわる思いを捨てて「神を第一」を問うことのできる人のことです。自分の命を問いつつ、自分の思いを捨てて神に従う決断をしていく人のことです。主イエスは自らこの道を示して下さいました。
「自分の命を憎む者」とは、神によって与えられた命を喜び、神に従う道を選び取って行く人ことだ、ということができます。「一粒の麦」として死に、教会の宣教によって「新しい命の実」を結ばせてくださっている主イエスを見上げ、主イエスに従って歩みましょう。